第三百五話 幕 泉清次(三) 魔都 美和の町 その二
甚兵衛が館を去り、ようやく一息つける。
『鏡島様のお屋敷は町の者らが探し尽くしたようですが見つからなかったようにございます』
甚兵衛はそう言っていた。少しも残念そうでなかったのが不気味ではあるが、いつのことだ。
町の中は怒れる民で溢れかえっているのに、どこからどうやって抜け出したのかは分からないが、すでに町の中にはいないのかもしれない。甚兵衛も探す範囲を広げて町の方でも探してみると言っていたが、期待はできないだろう。
「ふぅ……」
時折吹く強い寒風に、障子がカタカタと鳴った。
館を取り囲まれているというのに、なんとも静かなことだ。
あの馬鹿どもの兵も使えるというのは幸運だったが、手筈を整え直すのにまた少し時間がかかるな。とはいえ、あの神森武や佐々木伝七郎がその時間を俺に与えてくれるかどうか。二日……いや、明日一日で準備を整えないといけない。
この分では、お館様や宇和様がこちらに向かうまで持ちこたえさせることはできない。あと半月はかかるだろう。兵糧は焼かれている。そこまで籠もっていられない。兵が増えたのは良いのだが、そのせいで持ちこたえていられる時間は更に短くなった。どれ程に切り詰めても、保ってあと二、三日だろう。あとは、兵を飢えさせながら戦うことになる。
決着を急がないと、簡単に瓦解してしまう。まして、今回使える兵は、あの馬鹿どもが雇った食い詰めどもだ。食えなければ、簡単に戦うことを止めて去ってしまうだろう。
何か手はないか……。いや、ある訳ないな。もう散々考えたのだ。今更、そんな都合のいい手など思いつくわけもない。
俺にやれるのは、奴らを町中に誘い込んで不意打ちをかけることくらいだろう。それか、甚兵衛の言う通りに狭所に誘い込んで、そこに火を放つか。
いや、駄目だ。不意打ちなどという手を使う以上、名前が汚れるのは覚悟しているが、流石に街に火を放ってはこの戦に勝った後で、そのツケを払う羽目になる。勝つ意味がなくなってしまう。
あの甚兵衛の言葉は、今の俺にとってはとても甘い誘いだ。やりたくて仕方がない。だが、本当にやって得をするのは甚兵衛の奴だけだ。それとなく、この辺りがよいでしょうと勧めてきた場所もあったが、多分その辺りがあの者と相容れぬ者たちの縄張りなのだろう。確かに、地理的にも向いていた。しかし、彼奴の意図するところは別にあったはずだ。
なんとか、俺の名が汚れる程度でこの場を凌ぎたい。
頭の中で堂々めぐりする思考を振り払うようにして、部屋を出る。もう藤ヶ崎の奴らはいつやってきてもおかしくない。寝ている時間も惜しい。
完全に読まれていたか……。
冬の風が頬に打ち付けているのに、頬が熱い。
風に踊る炎の手が俺をあざけるように手招く。そして、それと同時に痺れる寒さを打ち消すほどの熱さを放つ。
目の前の現実に頭が働いてくれない。考えることを放棄し、まるで歌舞の観客のようにただただ目を奪われる。
これが神森武……。
宇和様が警戒なさるわけだ。
そんな感想しかでてこなかった。
時間のない中、あの馬鹿どもが雇った兵たちに連絡を取った。白の館は包囲されているという名目があったから、迂遠ではあったがこそこそとやるしかなかった。それで余計な時間がかかったのは痛いが、それでもなんとか間に合わせた。
だが……。
「ここから先は同じ事の繰り返しだ。鬼灯は神楽を先行させて、隠れている建物に火を付けていけ。重秀は、飛び出してきた奴らに一斉射撃。太助、吉次は撃ち漏らしを狙えっ。八雲は、後方に待機。延焼を防いで、被害を最小限に抑えろっ」
漆黒の鳳凰旗を翻し、神森武は旗下の者たちに堂々とした命令を下していく。その様子に迷いはない。
俺が躊躇ったというのに、まさか彼奴の方が町を焼きに来るとは思わなかった。
甚兵衛がやってきて二日目の早朝。藤ヶ崎の軍の町への侵攻が始まった。藤ヶ崎の奴らを罠にかけるために甚兵衛が神森武との交渉に臨んで、町の門の開放を約束してから一日しかなかったが、これ以上の先延ばしは疑ってくれというようなもの。むしろ、一日という時間を作れたことを喜ぶべきだろう。
問題は、その後だ。
なだれ込んできた藤ヶ崎の軍は、そのあとすぐに白の館へとなだれ込んでくるようなことはなかった。
北門も南門も白の館へと続く主要道を反乱のどさくさを装った柵で封鎖し、長屋町のある道へと藤ヶ崎の奴らを誘導する手筈になっていた。
それは成功した。そこまではよかった。
だが、奴らは長屋町の入り口まできたところで軍を止めた。そして、長屋を焼きながら、こちらが兵を伏せている長屋に油を撒き、火を放ち、飛び出した兵たちを矢で撃ち殺しながら注意深く進んでくる。
北も同様だ。あちらには佐々木伝七郎と犬上信吾がいる。報告ではあちらの方が弱冠速い。あちらは武家町の方へと進んでいる。あの馬鹿どもの屋敷の方を片づけてから、白の館へと向かってくるつもりなのだろう。
神森武ひとりですらこれなのに、佐々木伝七郎らまでもが合流したら、いよいよ厳しい。とはいえ、すでに町の門も奴らに奪われている以上、もう撤退もままならない。
この最後の手を読まれた以上、俺の命運は尽きた。もう、ここに至っては俺が生き残る術はない。あと俺にできることは……。
こちらの兵は大混乱を来たしている。ただでさえ、大半が練度などないに等しい者たちだ。一度こうなってしまったら、もう収拾はつかない。見捨てるしかない。俺の手勢を館に戻すだけで精一杯だ。
これを幸いという気にはなれんが、俺の手勢は元より宇和様よりお借りしてきた兵だけで編成されている。配置場所も、最後の一槍のつもりだったから後方だ。この者たちだけなら、なんとかなる。ここで全部の兵を失ったら、それこそ終わりだ。
ここで決断をしないといけない。
さもないと本当にここで終わってしまう。家老どもの用意していた私兵も、そして、宇和様より預かってきた兵の大半も、もう助けられない。
ならばっ。
「……下がるぞ」
わずか三百ほどの手勢に命じる。
断腸の思いというが、本当に腸が煮えくりかえって焼き切れそうだった。奴らを易く見ていたつもりはない。もっとも手強い敵だと考えていた。だが、それでもまだ甘かった。
しかし、それでもだ。まだ俺にできることは一つだけ残っている。
それを奴らに教えてやる。この命尽きる前に、そのことを教えてくれた礼だけでもしてやるとしよう。