第三百四話 幕 泉清次(三) 魔都 美和の町 その一
「ただいま戻りました、泉様」
「戻ったか」
ここ美和の町で反物を商っている男は、作り笑いを浮かべながら俺に頭を下げてくる。胡散臭い。どこまで信用できるのやら分からぬ。
とはいえ、もう選べる手も残っていない。この者の腹の内がどうだろうと、それに乗ってみるしかない。
美和の町の衆は、金崎の家老衆の暴挙にとうとう蜂起してしまった。家老らの館は怒れる民らに囲まれ、ここ白の館も囲まれた。そして、囲んだと思ったら、突然俺との交渉に乗り込んできた甚兵衛。
『この状況を打破する手がございます』
そう言って俺との交渉に臨んできた。
家老らの館を囲んでいる者のほとんどは、ただの怒りに燃える町の民らしい。しかし、この館を囲んでいるのはこの男の息のかかった者。だから、安心してくれと。この囲いは『見た目だけ』であると。
馬鹿馬鹿しい話だった。要は、奴の提案に乗っていなければ、そのまま襲いかかって来ていたという事だろう。
あの家老どもにも、こうやって取引を持ちかけたのだろうか。そう思って聞いてみれば、違うと言う。
久瀬は館に攻め寄せてきた民らに撲殺され、飯田の館は未だ一進一退の状態、そして鏡島は館は落ちたものの本人は見つかっていないとか。
その通りだとしても、あの馬鹿どもは自業自得というものだが、問題はその言葉をどの程度信じて良いかだろう。
もっとも、それ以前に奴の首尾次第の話ではあるか……。
そんな事を考えながら、目の前で慇懃に頭を下げる甚兵衛に目をやると、
「いやあ、神森武……話には聞いてはおりましたが、本当に若い。しかし、本当に一筋縄ではいかない。泉様のお話通りでしたな。舐めてかかれば、いつでもこちらののど笛を食い破りにきそうです」
下げた頭をゆっくりと上げて開口一番で言った。
まあ、そうだろうな。でもなければ、宇和様もわざわざ名前をあげて忠告などなさらなかっただろう。宇和様ご自身もお若いから、神森武やら佐々木伝七郎の力を歳だけで見誤ることはなかったのだろうが、あの者らにとっては不幸なことだ。我々には、あの若さを隠れ蓑には使えない。
甚兵衛と俺しかいない白の館の奥の間は、甚兵衛が口を噤むと再び静まりかえる。時折吹く風に障子が音を鳴らし、燃える油皿の炎が低い音を奏でるだけだ。
しばらく黙考し、目の前で苦笑いをしている甚兵衛に問う。
「それで? うまくいったのか? あ奴らを倒せねば、お主の野心とて達せられまい」
「野心などと滅相もない。私は、ただ継直様にお力添えがしたいだけです」
甚兵衛は顔色一つ変えずに、そう嘯く。
よく言う。
この美和の町は、金崎惟春……もとい金崎家によって雁字搦めになっていた町だ。当然、商いも例外ではない。この者は待っていた筈だ。金崎の支配が揺らぐ、今この時を。
そして、その機を逃さずに動いた。その点は評価できる。
おそらく……もともとの町の長はもう生きてはいまい。すでに始末されているだろう。此度のこの騒動は、単なる民の反発などではない。どう考えても此奴が仕組んだとしか思えない。
もし町長が生きているならば、なんとか民らを抑えようとしただろう。金崎が揺らげば、町長の既得権益が失われるのだから。そんな事は受け入れられなかったに違いない。そして町長がそう動いていたならば、もし仮に今と同じ状況になったにせよ、これほど一気に状況が動く事はなかった筈。
だが、今現在この状況がある。ということは、そういう事だ。
此奴は町長を消し、機を見て民らを煽った。そして、俺に交渉を持ちかけてきた。
次の商人たちの頭となって、より大きな富を得るために。
「で、準備は整っているのか?」
此奴のすべてが信用ならない。しかし、ただ一点。この『欲』だけは信用できる。その欲のために、己の町さえも焼こうとしたのだから。
「はい。滞りなく。しかし、このような迂遠なことしなくとも、町の中へと案内し、そこで油でもかけて火を付けた方がやはり話が早かったのではございませんか?」
甚兵衛は顔色一つ変えることなく笑みを顔に張り付かせたまま言う。
「それは駄目だと言っただろう。お館様がこの地を治める段階まで行ったときに支障が出る。お前にとっては、どうでもよいことなのかもしれんがな」
失敗しても、我々がやったとすれば己に火の粉はかからない。
しかし、よくもまあこんな提案が出来たものよ。成功すれば、己が町を支配するのに邪魔な者らの店を焼き払え、失敗したら水島継直の手の者が追い詰められて街に火を放ったとする。
此奴は、どちらに転んでも火の粉を被らない。手に入る利に差があるだけだ。
まこと、清々しいまでに己の欲に従順だ。
「どうでもよいなどと滅相もない。私は、ただ泉様にご協力したいだけにございます」
ほざいていろ。
胸糞が悪くなる。が、今は此奴の力も借りねば、この火事場は乗り切れない。
我慢するしかない。
「ああ、期待している。それで、飯田の方はどうなっているのだ? 鏡島も行方不明になっているのだろう?」
すっかり日も落ち油の炎しかない薄暗い部屋で、俺と甚兵衛の視線だけがぶつかり合う。
甚兵衛は、一目見た限りでは朗らかな笑みを浮かべ続けてる。だが、それが気持ち悪い。俺とこの様な言葉を交わしている今この時さえも、その張り付いたような笑みは崩れない。
「飯田様は怒れる町の者どもに手こずっているようにございますな」
煽った本人がぬけぬけと。
「しかし、時間の問題でしょう。お三方が雇って伏せていた兵らとは、すでに話がついております故、それぞれの子飼いの方々くらいしかおられません故」
甚兵衛の表情は、まったく変わらない。本当に気持ち悪い。普通、ここまで際どい話になれば、多少目の鋭さが変わるなりなんなりするものだが、この男にはまったくそれがない。
そんな甚兵衛の言葉は続く。
「彼らは、泉様が藤ヶ崎の者どもを迎え撃つときにお使いいただけますよ。ただ、事が終わったあかつきには、それなりの褒美をご用意下さりますよう」
「心配するな。そこは、先に申した通り、働きに応じた褒美は出る」
「有り難うございます」
「あとは、鏡島様ですが……」
ここに来て、ようやく甚兵衛の表情が変わる。少々困ったと言わんばかりに、その作り笑顔が苦笑いになった。
「ん?」
「どうも館にはもともとおられなかったようにございますな」
ところどころ名前が間違っていたので修正