第三百二話 崩壊した秩序 でござる その二
水島家の重臣としての立場を強く意識しつつ、陣奥の大天幕に入る。
この使い分けも、段々と板に付いてきたように思う。最初は年上の部下を使うときも違和感を覚えたものだが、最近はそれもすっかりなくなった。
そして、このように組織の責任者として他者と会うにあたっても、以前のように戸惑うこともない。
……良いことなのか悪いことなのかは分からんが、な。
そんな事を考えながら、漏れそうになる自嘲の笑みを堪えて目の前の男を見ていると、俺を呼びに来た太助、そして護衛の鬼灯も続いて入ってくる。そして、入り口の布は閉じられた。
目の前の男は、俺が最奥にある床几に腰掛けるまで平伏したまま座っていた。そして、
「待たせたな。面を上げよ」
と声をかけると、平伏していた顔を上げた。太助と鬼灯は、左右に分かれて俺の脇を固める。
年の頃は四十後半から五十前半といった所か。白髪が目立つ。爺さんとか、この世界だとかなり長生きな部類になる。目の前のこの男も、十分に晩年と呼べるだろう。
男は、俺の顔を見るとまず目を見開いた。しかし、細身の体をすぐさま正し、
「神森様……にございますか?」
と尋ねてきた。顔は笑みを作っているが、目つきは真剣そのもので笑っていない。
「如何にも。俺が神森武だ」
鷹揚に頷いてみせる。
「失礼致しました。噂ではお若いと聞いておりましたが、まさかここまでとは思ってもおりませんでしたもので……」
「まあ、無理もない。気にするな」
俺や伝七郎、主要な将たち……うちには年の若い者が多い。かつての世界ならば、調べたいことを調べるのもさほど難しくはない。しかし、この世界では噂で若いと聞いていても、どのくらいなのかなどというのはそれこそ忍びでも使わないと分からない。噂は変質するものだし、そもそも年若いといっても十代なのか、二十代なのかは判別つかないのだ。
このあたりの情報の粗雑さにも、ずいぶんと慣れてきた。
「はい。失礼しました。私は、桔梗屋甚兵衛と申します。目の前の美和の町で反物を商っている者にございます」
「なるほど。それで、その反物屋が町を占拠しようと包囲している敵将に、いったい何のようだ?」
少し強めの口調と、仕方がないから会ってやっているという態度を崩さない。
昔の感覚だと、こういうのは所謂『嫌な奴』である。俺もそう思っていた。でも俺の立場では、こんなものでさえも必要になり覚えねばならなかった。
偉ぶっているように見えたら駄目。本当に偉く見えないと意味がない。これが難しい。でも、やらねばならない。目の前の男は、俺たち……いや『俺』に力を求めてきているのだから。
はやく、もう少し年をとって相応の外見が欲しい。そうすれば、今よりは演じるのも多少は楽になる。
甚兵衛は、俺に失礼のないように細心の注意を払いながらも、時々貫くような真剣な眼差しで俺を『検分』している。俺が『使える』かどうかを見極めようとしている。
ちらりと横を見れば、太助は面白くなさそうな顔をしているし、鬼灯は澄し顔で静かにしている。どちらも、甚兵衛の視線には気づいているようだ。
「……はい。実は、いま美和の町では町民が蜂起し、金崎家の家老たちの家を取り囲んでおります」
「その様だな」
「ご存じでしたか」
「町の中が騒がしいのは外にいても分かるからな」
「どうして、そのようになっているのかもご存じですか?」
甚兵衛は再び探るような視線を向けてきた。
「いや」
「左様にございますか」
甚兵衛は少し落胆したかのように再び作り笑いを作ろうとする。
だから、そんな奴に次の言葉を口にさせる前に突き放すことを決める。
俺たちに自分たちが使うに足る力があるかどうかを見定め、もしあるようならば、なんとか有利な条件で使えないものかと考えている相手だ。相手に手綱を握らせてはならない。
「そんな細かいことに俺は興味がない。目の前に小さな羽虫が飛んでいる。お前は、その虫がどうしてそこを飛んでいるのかを一々気にするのか? 無視するなり、潰すなりするだけだろう。いまの俺たちにとって、金崎家も……そしてお前たちも、この羽虫と何も変わらないと思うのだが、お前はどう思う?」
静かに真顔で尋ねた。だが、言葉は極めて辛辣な物を選んでいる。
甚兵衛も、若造から突然投げつけられた静かな脅迫に顔が引き攣った。怒りではなく、おそらくは恐怖で。
だが、流石に民代表としてやってくるだけの百戦錬磨の商人。すぐに、その顔を引っ込めて再び仮面を被ってくる。
「これはこれは手厳しいお言葉にございます」
甚兵衛はそう言って間を作った。何か他の突破口はないかと思案しているのだろう。
とりあえず、上手く『俺』を印象づけるのには成功しているらしい。俺としても、ただ単に上から目線で権力振りかざして悦に入りたいわけではないので、ここらで話の流れの向きを整えにかかる。
「ま、お前らが暴れ出したということは、金崎家は町の食料に手を出したということだろう。惟春の奴は、一体何を考えているのか」
「……神森様もお人が悪い。やはり、知っておられたのでございますね」
「いや、知らんよ。ただ、彼奴らならばそう動いたのだろうなと思っただけだ」
「……怖いですなあ。噂以上に恐ろしい」
「ならば、敵対しないことだ。俺は、俺たちの統治を望む者には優しいよ」
ニコリと笑ってみせる。
「……なるほど」
甚兵衛も意を得たりと笑みを作って見せた。用意してやった突破口がお気に召したらしい。
何も言葉を重ねるばかりが交渉ではない。百の正確な言葉を重ねても交渉が決裂することもあれば、具体的に何も話さずに纏まる話もある。今回などはその最たる物だろう。互いの思惑は、もともと合致していたのだ。
問題は事が終わった後の方だった。甚兵衛も、こちらに利しかない話を持ってきていたのだから交渉が決裂する心配はしていなかっただろう。なんとかこちらの隙を見つけて言質を取り、俺たちが美和を落とした後で、少しでも厚遇を受けようとしていただけの筈だ。
それが出来なかったので残念でもあり、またそうさせなかったことで、こちらの評価を上げた……といったところか。たぶん、この甚兵衛の笑みはそんな意味に違いない。
「で、いつ開けるんだ?」
いきなり切り出す。
話を聞いている限り、現在町の門付近および堀周辺で見られる人影は、すでに金崎兵ではなく武装した町人たちの筈だ。
甚兵衛の目的は、こちらを町の中へと入れ、金崎家を打ち破らせること。町を封鎖され、食料は己らを庇護すべき存在に奪われ、これまで我慢に我慢を重ねてきた堪忍袋の緒がとうとう切れたようだが、こういう話になったのならば、それはそれで話が早い。
おそらく惟春が自身のお膝元であるこの町だけは、他の町や農村のように絞りきらなかったのが原因だ。奴としては、自分の目に付くところが見窄らしいのは許せなかっただけだろうが、それが甚兵衛らに最後の牙を残してしまったのだ。
いっそのこと方針を貫徹していれば、こんなことにもならなかっただろうが、民が自分に牙を剥くなどという発想を持ってなかった惟春らしい最後になったわけだ。
甚兵衛は大仰な仕草で一つ頷く。
「この交渉がまとまればすぐにでも」
しかし、すぐに、
「すでに金崎の白の館も、家老らの屋敷も取り囲んでおります。ただ……」
と少し芝居がかった様子で言葉を濁した。
「ただ?」
「私どもでは、流石に落とすところまではできず、これ以上どうにも出来ずにいます。貴方様がたには、これをどうにかしていただきたいのです。水島家の政の噂は私ども庶人の耳にも届いております。それ故に、私どもにもお情けをいただければと、こうして参った次第にございます。どうか私どもの降伏をお認め下さいませ」
甚兵衛は、深く頭を下げてきた。