幕 泉清次(二) 神森武の反撃
なんという事だ……。
嘘だと思いたかった。
唖然とした。しかし何度目を凝らして見ても、北門に向かった久瀬、南門に向かった飯田の軍勢が慌てて逃げ戻ってくる姿しか見えない。
今後どの程度使えるのかを見極めるために、町の櫓に上って様子を見ていた。こんなものを見る羽目になるとは思わずに。
我が軍の者らを使うべきだった。悔いずにはいられない。
ガンッ。
自分でも知らず知らずのうちに、拳を櫓の柵に叩きつけていた。
よもや、ここまですべてのお膳立てをしてやったのに、敗走して帰ってくるとは……。思いもしなかった。
いや、待て。いくら彼奴ら無能だと言っても、こんな状況で敗走させられるだろうか。それも南北門両方とも。
北門には佐々木伝七郎と犬上信吾がいた。南門には神森武がいた。だが、共に宇和様の謀により、我らの命を受けた者をたっぷりと抱えていたのだ。金崎の老臣どもが無能揃いだろうと、そう易々と負けなどするだろうか。
否だ。断じて否だ。そんな訳がない。
まさか……見破られていたのか? すべてを承知の上で、こちらを謀っていた……のか……?
ぞくり。
背中を走るものがあった。
なんということだ。
佐々木伝七郎……いや、これは神森武の方か。
少なくとも、知っている佐々木伝七郎のやり口ではない。あの者も宇和様とともに先代に期待された俊英だが、こういう人の心を操り欺くような謀は好まなかったと記憶している。少なくとも、知っている範囲ではやったことはなかった筈だ。
一方、神森武の方は、彼奴が千賀姫の側に現れて以降、相手が思いもしない所から虚を突き、勝負の盤面をひっくり返し続けている。
やはり神森武の方だろうな。
すぐ側にある南門の方を確認しながら、それを確信した。
丁度、千々となりながら打って出た兵の最後尾が門の中へと逃げ戻ってくるのが目に入った。
逃げ戻ってきた者らを見渡す限り、敵の思惑に乗ってしまったにしては被害が少なく済んだようだ。
不幸中の幸いか……。
北門の方がどうか……それはここからではわからないが、松明の数から言っても皆殺しにはなっていないようだ。
それを確認すると、思わず安堵の吐息が漏れた。それと同時に、鏡島、久瀬、飯田の金崎家老衆への怒りが再燃してきた。
打って出た兵たちが無様に逃げ戻って来る様を見届けると、金崎の館へと向かう。
あの三人も、すぐに私を呼ぶだろうから。
館に着くと、引き攣った顔で何かを喚き合う三人が門の前にいた。
彼らはこちらに気づくと、瞬時に顔を赤く変えて、睨むような目つきで口ぐちに私を罵った。無駄に肥え太った体をはあはあと揺らし、実に見苦しい。
「泉殿っ、話が違う!」
「奴らは我々がやってくるのを知っていたっ!」
「我らを謀ったのかっ!」
謀る? そんな訳あるか。お前らを謀るのはこれからで、今ではない。仮に敵がこちらの謀を知っていたとしても、こちらの方が圧倒的に有利だった事には間違いない。それをここまで惨敗して帰ってきたのは、ただ単純にお前たちが無能だからだ。
「何を馬鹿な。貴公らはもう少し、冷静になるべきだ。私が貴公らを謀って、なんの得があるのか? 以前にも説きましたが、『私』と、貴公らは、あの造反者どもをここで討ってこそ次がある。今、私が貴公らを裏切って得る利はない」
これは事実。宇和様は失敗を許さないだろう。最低でも、あの藤ヶ崎の者たちをここで釘付けにし、お館様や宇和様がこちらに向かえるまでの時間を稼がねばならない。
「ならば、なぜ奴らは我らが打って出てくるのを知っていたかのように迎え撃ってきたのだ?」
家老衆の中でも筆頭格の鏡島典親が、他二人を代表して詰問してきた。鏡島典親も他二人同様に怒りに顔を紅潮させてはいるが、まだ私相手に取り繕う程度の冷静さは残していた。
「出陣前に久瀬殿にも言ったが、あの者らを舐めてはいけない。特に、佐々木伝七郎と神森武の二人は。佐々木伝七郎は我が主、宇和一成とともに期待された俊英であり、神森武の方はいくつもの戦で負けをひっくり返し続けた知将だ。歳など関係ない、侮るな……とそう申したはず。違いますかな、久瀬殿」
「それは……確かに聞いたが……」
チラリと見た久世光政は、ばつが悪そうに視線を逸らした。
「その言葉通りになっただけですよ。謀を読まれた」
「ならばっ。やはり、其方の責任ではないかっ!」
飯田友康が吠える。この者も他二人同様に肥え太った体を持てあましている。
「ただ……」
そんな飯田友康に静かに視線を合わせ少しの殺気を放つと、途端に狼狽える。途端に視線を外して、小さく舌打ちをしていた。金崎家というものがどういうものなのかを窺い知ることが出来る。
「ただ?」
鏡島典親は、そんな私たちを無視して渋面のまま先を促してきた。結局この者たちは皆、可愛いのは自分だけなのだ。
「ただ、それでも十分こちらが有利な状況ではあったはず。それを揃いも揃って、こんな無様に逃げ戻ってくるとはいかがなものでしょうな」
「なっ! それは……いくら何でも口が過ぎましょう。泉殿の謀が失敗したのも事実。まるで、我々だけが悪いような口振りこそいかがなものかっ」
先ほど私の言葉にばつが悪そうにしてた久世光政は、黙っていられぬとばかりに再び食いついてくる。
私は、それを黙ったまま見つめ続けた。久世光政も、ここは引けぬとにらみ返してくる。
「……ふう。わかり申した。とりあえず、我々は各々の屋敷に戻ります。そして明日、改めて町を取り囲んでいる者たちの対策を考えましょう。幸い、我々の機転で兵はそれほどに失わずに済みました。まだ戦える」
『幸い』という言葉を殊更強調して口にし私に当てつけてくるが、鏡島典親は引くことを選択したらしい。
久瀬光政、飯田友康の二人も、鏡島典親が引き下がったので、不承不承といった感じではあるものの、各々の馬の下へと帰って行く。
三人が館の前からいなくなり、その場は静かな夜の帳に包まれた。
「ふぅ……」
回りに誰もいないことを確認し、そっと溜息を吐く。この手の者の相手をするのは疲れる。
館の門から踵を返す。まだ、部屋には戻れない。
敵方にやっていた者たちが、戻ってきているのだ。とりあえずは、あの者らに寝床を用意してやらないといけない。
そして――――
その夜、起こってはならぬ事が起こってしまった。
パチパチパチ。
冬の冷たい夜空を、黒煙を巻き上げなら上る火柱が焦がす。
その様を、唖然と見上げる事しか出来なかった。
「水だッ! 早く水を持ってこいッッ!!」
「消せッ、早くッ! 急げッ!!」
館の者たちが、そしてすぐのすぐには宿を用意できなくて、館の客間を仮の宿として休んでいたこちらに戻ってきた兵たちが、燃えさかる蔵の火を消すべく奔走している。
館内にある蔵という蔵が、すべて燃え上がっていた。
これは、間違いなく火付けだ。
この美和の館にも蔵は沢山ある。一つや二つではない。その蔵が、こんな時間に揃って燃え上がるなど火付け以外には考えられない。
狙われたのは米倉を筆頭とする食料庫……いま目の前で、金崎家に収められた米が真っ黒な炭へとその姿を変えていっている。
「…………これが神森武かッ」
顔知らぬその名を持つ男を呪い罵らずにはいられなかった。