第三百話 終わりの始まり でござる
すでに日は落ち、天幕の中は油皿の明かり一つで照らされていた。時折強く吹く風が天幕の中にも入り込み、それが油皿の炎を揺らしている。
ふぅ……。
冷たい地面に敷かれた敷物の上にごろんと寝転び、三角に尖った天井を眺める。
町の前で宴会を始めてから三日。酒に強くない俺が連日飲み続けるというのはなかなかに苦行であり、その苦行は俺の体力を確実に奪っていく。その上、まだ癒えきっていない左肩の傷を大いに疼かせていた。
これを楽しそうにこなさなくてはいけないのだから、正に苦行だよな……。
そんな事を思う。
いまの俺にとって、呑みの合間合間で自分の天幕に戻っている時間は、本当に心身共に休まる唯一の時間だ。ここに入っている時は素に戻れる。こんなところを菊に見られたら、また死ぬほど心配させてしまうだろう。
でも、今やめるわけにはいかない。一日も早く魚が餌に食いついてくれることを祈って、糸を垂れ続けるしかない。
ズキリ
「くっ……」
呑んだアルコールのせいで、傷口が脈打ち火照る。
こんな姿、やっぱり絶対に見せられないなと自嘲の思いが込み上げてくる。
そんな時、天幕の外に人の気配がして影が映った。
「武様、少々お耳に入れておきたいことが……」
鬼灯か。
彼女もそうだが、神楽の忍びたちは俺に近づくときに気配を消さない。わざと気配を纏ったまま、やってくる。俺を気遣ってくれているのだ。
「鬼灯か。入って良いよ」
俺が応えると、天幕の出入り口の布が持ち上げられた。
「失礼します」
「どうした? 何かあったか?」
寝転がっていた体を起こし、入ってきた鬼灯と向き合った。鬼灯は俺のすぐ側までやってきて屈んだ。耳のすぐ側でボソボソと呟くように、いつもよりも低い声で話す。
「動き始めたようです」
鬼灯は簡潔に報告してきた。
神楽の中から特に目のよい者を選び、町の外から中の様子を探らせているのだが、それが動きをとらえたようだ。
「ようやく来るか」
餌に食いついてくれたらしい。
「その様です。中で兵が動いているようです」
「偏りはあるか?」
「特には。ただ……」
「ただ?」
「考えられていたよりも少し数が多いようです」
「ほう……」
「どうも町中に散らして配していたようで、我々の想定していた数の倍はいると思われます」
「へぇ……。埋伏の毒といい、いよいよ金崎家らしくないなあ」
思わず苦笑いが漏れる。
こういう事をしてくるお家柄じゃないのだ、金崎家は。どうにも『異物』が混入している感が強い。それも、戦の方針に口を挟めるレベルの者で。
「継直の影響でしょうか」
伝七郎が言っていた宇和とかいうのなら俺同様にこういう搦め手を使ってきそうだが、そいつは今、継直の下で徳田・三浦連合軍とやりあっていると聞いている。だから本人はいないはずだ。
だが、
「多分な」
首肯する。
本人がいなくても子飼いの者を送っているかもしれないし、そういう人間を使っている継直ならば、宇和とやら以外にもその手の人材を取り込んでいても不思議はない。
ただ、惟春の奴がそんな者をよく認めているとは思うが。流石の奴も背に腹は代えられないとみえる。
「まあ、いよいよ動くというならば、それに越したことはない……か。うん。数が増えようと大勢に影響はないよ。そんなに心配そうにするな」
ずっと難しい顔をしている鬼灯に、俺は笑ってみせる。
「しかし」
「この場所で宴会をしているのは、奴らを煽るためだけじゃないんだぜ?」
そう。堀に囲まれた美和の町では、南北の二門しか外界との接触できる道はない。
つまり、その道を塞ぐように門前で宴会を開いている俺たちを攻撃するには、その細い道を通って町の中から打って出ないといけない。
この場所では、ある程度以上いる兵のメリットは兵の疲労を分散できるという点しかない。堀にかかる橋より押し切られなければ、互いが一時にぶつかることが出来る兵の数はすでに決定しているのだから。
それに……。
「鬼灯、これはむしろ喜ぶべきだ。俺は最高に嬉しいよ」
ワ―……ワー……ワー……
町の門から飛び出てきた惟春の兵らは、雄叫びを上げながら宴を開いている俺たちの陣営に突進してきた。
「ようやく来たか……」
太助はそう言うと、それまで口元に当てていた碗を横にぶん投げた。
それまで俺の前で吉次と肩を組んで陽気に歌っていた太助は、『なぜか』横に置いてあった大剣を手にすると、しっかりとした力強い足取りで突っ込んで来る敵の真正面に立つ。
「一番乗りぃ! いらっしゃいませッッ!!」
ブンッ――――。
太助の大剣が振るわれると、突進してきた兵の首は撥ねとんだ。その目はぎょっと目を見開いていた。
おそらくイージーゲームのつもりで勢い込んできたのだろう。哀れ、最初の一人目とその次の者は、振って返した太助の剣に血を塗っただけに終わった。
「「「なっ!?」」」
突っ込んで来た者たちは慌てて止まろうとした。
だが、後ろから押されて止まれない。それどころか、ぶつかって転がり踏まれて酷いことになっている。
そこに、やはり同じく『なぜか』その辺りに転がっている槍を手にした朱雀隊の猛者たちが、太助に三拍遅れず次々に到着する。町と俺たちの宴会場を繋ぐ橋の上は処刑場となった。なんとか身の自由を確保した敵兵を槍で殴り飛ばしたり、転がっている者を蹴り飛ばしたりと一方的に蹂躙されている。重秀などは、圧倒的な存在感を放って敵を屠っていた。
『話が違う』という怨みの怒号も耳に届くが、正直、そんなの知ったことではない。
というか、俺はそれどころではない。
初日こそおっかなびっくり酒をちびりちびりとやっていた足軽隊の者たちは、時間が経過するごとに大胆になっていって、今では普通に馬鹿騒ぎをしていた。そこに、元々警戒していた通りに敵が攻め込んできたのだから、当然慌てふためいている。彼らが、今回一番割を食っていると言えるだろう。
「あっはっはっはっはっ。慌てるな、慌てるな」
俺は、殊更でかい声で陽気に笑ってみせた。そして、ゆるりとした仕草で手に持っていた朱塗りの酒杯を呷ってみせる。
すると、足軽隊の者たちは埋伏の者ともども狐につままれたような顔をして、こちらを見たままポカンとしていた。
そんな間も朱雀隊の者らの奮闘は続いているが、俺や足軽隊の者たちはまったく別の時間の流れの中にいた。ここが一番不安だったが、なんとかなっている。ここで彼らが混乱してしまうと、敵の思うつぼだったのだ。しかし、そうなることなくなんとか持ちこたえてくれていた。
「本当にうまくいっちゃいましたね」
そんな足軽隊の者たちと、太助らの方を見た八雲が言う。
太助が大剣を拾って駆けだしたのと同時に、吉次と八雲の二人も槍を拾って、すぐに俺の両脇を固めてくれていた。町の中からではなく、味方陣営の中から俺に刃を向けられないように。
もっとも、そうなる事はなかったが。
朱雀隊の連中も超有能だが、こちらにも半分いる神楽の忍者部隊も超絶有能だった。
鬼灯や銀杏ら俺のお庭番衆らは、八雲や吉次の更に外から、俺に忍び寄る危険はないかと目を光らせていた。計画の失敗に錯乱した何人かの『埋伏の毒』の首に冷たい刃が突き通されている。
他の神楽の者たちも、正気に返ってこちらの陣営を錯乱させようと任務に励もうとした埋伏していた者たちを正確に見抜き、次々と攻撃を加えている……俺の指示通りに、なるべく殺さない方向で。町の中に逃げ戻れるように。
「これを呑んで楽しく騒いでいろ、だもんな」
吉次は足下に転がる――さっきまで太助と肩を組んで振り回していた大徳利を拾い、呷る。
ゴクリ、ゴクリ。
喉を鳴らした。そして、徳利から口を離した吉次は、
「水じゃあ、酔えませんって」
と、そう言ってニヤリと笑った。
その一方で、俺は顔を真っ赤にして、本物の酒が入っている徳利を拾う。そして徳利を傾けると、空になった朱塗りの杯に中身を移した。それを豪快に煽る。
口元から、透明の液体が零れた。こちらは正真正銘の本物の酒。しかも濁酒ではない。清酒である。この作戦のために、結構散財しているのだ。
「ぷはっ。そう言うな。お前らには、戦に勝った後で浴びるほどご馳走してやるよ」
笑う吉次に、そう言って空の酒杯を掲げて見せた。
朱雀隊の者たちと神楽には、ずっと水を飲ませていた。そして、足軽たちには値の張る清酒を大盤振る舞いしていた。その上、俺自身もその清酒を飲み大いに酔っている姿を晒し続けた。
これは町の反対側でも、同じ光景が見られたはずだ。伝七郎も、必死で酒を呑んでいたことだろう。
そして、待っていた。
埋伏していた者たちが、町の中の惟春らと連絡を取り合って喜喜として襲ってくるのを。
神楽には、これを見逃せと指示をしていた。
話を通してあったのは、神楽と朱雀隊の者たちだけだ。
だから埋伏の者たちは、ここまで仲間を演じてきた足軽隊のものたちが酒を楽しんでいるのを見て、そしてその間あちこちに顔を出し続けていた俺が無様に酒に呑まれている様を見て、ついに動き出してしまった。奴らの仲間を呼び込み、自身らはそれに呼応するように俺たちの混乱を更に確実なものにしようとした。
――――それが何を引き起こすのかを知らずに。
突っ込んできた敵兵は、すでに最初の勢いを失って逃げ腰になっている。朱雀隊の者らは、それらの者に極力『槍の穂先を使わずに』応戦し続けていた。すでに敵は壊走状態であり、敵を完全に押し戻すのも時間の問題だった。
敵の数が予想よりも多いということだったが、見ていた限り、最初の一当てだけで敵は崩れており、その戦力はまるっと残っている。
実にもって『望ましい』結果だ。
空になった杯に再び酒を注ぐ。
そして、それを敵が逃げていく背中に向かって掲げた。
「お前たちの明日に――――乾杯」
そう言わずにはいられなかった。