幕 伝七郎(五) 金崎家最後の町
「そして、もう一つの問題が取り込んで今ここにいる者のうち、誰と誰が密命を帯びた者なのかが分からないということ。しかも、取り除くには全部を下げるしかないが、そうすると今度は美和で惟春と事を構える戦力が足りなくなる」
薄暗い天幕の中、武殿はやれやれと言わんばかりに溜息を吐きながら、そう言った。
「やはり、気づいていましたか。その通りです。ここのところ取り込んだ者のうち三百人ほどがこの場にいますが、このうちの十人が身中の虫なのか、それとも三百すべてが虫なのか……それが判別つきません。半次殿にも警戒はしてもらっていますが、すべてを洗い出すことなど不可能です。仮に出来たとしても、それまでに多大な時間を使う事になるでしょう」
「うーむ。はっきりと病巣が分かっているのに、それを取り除く訳にいかないというのは、実にもって歯がゆいですな」
信吾は、角張った顎に手をやりながら実に困ったと言わんばかりの渋面で唸る。私は、そんな彼に頷いてみせるが、目は武殿から離せなかった。
彼は問題があると言い説明している今この時も、どこか余裕があった。太々しい笑みも、消えるどころか一層挑むようなものへと変わっている。まるで、『面白い』とでも言わんばかりに。
「まあ、そう言うなよ、信吾。これはこれでやり様がある。危機的状況には違いないが、一手打つ条件が揃ってもいるんだ。やってみる価値はあると思う。賭に勝てれば、俺たちは予定よりもずっと恵まれた条件で継直との決戦を始められる。そうなれば、結果的に万々歳だ」
「条件……にございますか」
「ああ、そうさ」
信吾は顎に手をやり首を傾げる。武殿は、そんな信吾を見て面白そうに笑みを浮かべていた。
条件……か。
取り除くことの出来ない敵を身のうちに招いてしまった。
つまり、敵の槍は我々の喉元に突きつけられた状態であり、その目は常に我々の動きをとらえているということ……。
分からない。この状況のどこをどう見たら好機ととれるのだろうか。
「まあ、ここに至ってはやってみるしかないんだし、腹を括ってみようぜ?」
武殿は、首を傾げて唸る信吾の肩をポンと叩くと、私の目を見てニヤリと笑ってそう言った。
それから私たちは準備を始めた。
あれから武殿の口から語られた『策』は、味方であるはずの私の心すらも震わせた。
怖いとすら感じた。
まるで底の見えない沼のような策謀……こんな人を相手に勝つことなんて不可能だ。戦ったら絶対に負ける。そう思わずにはいられなかった。
信吾も、ごくりと喉を鳴らして目を見開いたまましばらく固まっていた。
武殿の知の怖さはよく知っているつもりだった。だがそれは、まさに『つもり』だったことを教えられた。
「伝七郎様。裏門前への陣の敷設が完了しました」
信吾が報告に来る。
そろそろ昼に差し掛かる頃だろうか。風こそ身を刺すような冷たさではあるが、空は久しぶりに気持ちいいくらいに晴れ渡っている。陽の光が気持ちよいくらいだ。
「ご苦労様です」
そんな信吾を労いながら、目の前にある美和の町の正門前に同じく陣を敷設している武殿のことを考える。
私たちが美和の町に近づいても、美和の町から惟春は出て来なかった。あれだけ、小刻みに繰り出してきていた兵も急に静まりかえり、まるで引き籠もるかのように惟春は町の門を閉ざしてしまった。
美和の町は南北に門があり、町の外周全体を堀で囲まれた造りになっている。だから、南北の二門を閉ざしてしまうと内と外は完全に遮断される。町の中から外にも出られないが、外からも中に入るのも極めて難しいという構造だ。
そんな状況に、武殿はこの町の『水』について私に詳細な説明を求めた。
この町も勿論だが、この周辺自体が近く流れる荒川の水を使った稲作が盛んであり、水に困ったという話は聞いたことがない。また、良質な水もそこかしこに沸いており、その水を使った有名な菓子もあると聞く。
この話を聞いた武殿は舌打ちをしていた。が、そのすぐ後にこうして町の門を完全に封鎖することを提案してきた。
もしこの策が成功したら、『私たちは』ほとんど犠牲を出すことなく、あっさりと金崎家を滅ぼすことになる。もう長いこと不倶戴天の敵として争ってきた、あの金崎家を一方的に屠ることになる。
これは、とんでもない話だ。
先代のお館様も、先々代のお館様も、血と汗を流して戦ってきた相手を、本当に一方的に屠ることになる。
確かに、武殿の戦い方は従来の武士の戦の仕方ではないかもしれない。でも武殿は、この乱世の中、私たちに『生きていられる明日』を与え続けてくれた。その事実の前に、従来がどうとかどれ程の意味があろうか。
そして今回も、武殿は私たちに『いつも通り』に明日を与えてくれるだろう。そして、その身と心を削るだろう。
武殿は、いつもいつも私たちの為に汚れ役を買って出てくれている。口さがない者たちは、そんな武殿を嘲笑していると聞く。その一人が、かつての領土のほとんどを失い、とうとうこの町のみとなってしまった金崎領領主・金崎惟春だ。
彼は、侮り続けた『武士ではない者』である武殿の、本当の怖さを知ることになるだろう。彼は、刀など振れなくとも人の首を容易く切り落とせるのだ。
惟春は、最後の最後にそれを知ることになる。自らの命を代償に。
「武殿のことをお考えなのですか」
私が町の方を眺めていると、信吾が尋ねてきた。
「ええ。本当に怖い人だな……と」
「確かに。よくもまあ、このようなことを考え出せるものです」
「敵に回したその時点で、その者の破滅が約束されるのではないかとさえ思えます。武殿は、姫様を守る最強の槍です」
「ですな。しかし、伝七郎様。貴方も同じです。武殿が最強の槍ならば、貴方様は最強の鎧ですよ。お二方が水島を姫様を守っている限り、水島は絶対に倒れません。そう確信しています。我々も、微力ながらご協力させて頂きます」
信吾は微笑みを浮かべながらそう言って、小さく頭を下げてきた。
そうだな……私も頑張らなくては。
「……有り難うございます。ええ、そうですね。絶対に倒れさせるものですか。誰に何を言われようと、私たちは勝ち残ってみせます。餓狼どもに、姫様の首を渡すものですか」
「はい。その為にも、まずは『宴』の準備を始めます」
「お願いしますね。『しっかり』と……」
「畏まりました」