幕 伝七郎(五) 禍を転じて福と為し、敗に因りて功を為す
「武殿。貴方という人は……」
言葉が見つからなかった。
この人は、私たちでどうにもならなくなると、まるで計ったように現れる。道永に追い詰められて、いよいよ死を覚悟して姫様を逃がそうとした時も、そうだった。
あの時と同じように、不敵な笑みを浮かべて、こちらを見ている。
毒を受け、生死の境を彷徨っていると聞いた。
考えないようにしていたが、武殿を失うかもしれないと怖かった。
悔しいが、私には武殿の代わりは務まらない。
私がそう言うと、いつも武殿は『俺にもお前の代わりは務まらないよ』と笑うが、正直現在の水島家を考えれば、私以上に武殿の存在こそが欠かせないのだ。間違いなく私ではない。欠いた途端に滅亡が見えてくると言っても過言ではないだろう。
だから、怖かった。
姫様を死なせてしまう事になるかもしれないと思うと、手が震えた。
だがその彼は、まだ癒えぬ左肩の傷を庇うような仕草は見せているものの、自身の二本の足でしっかりと地に立ち、私たちの元に返ってきてくれた。
そんな彼を見て、自分が心の底から安堵したのが分かる。
まだ傷が癒えていないのは明白だ。彼が無理を押してきてくれたのは間違いない。
しかし私は、そんな彼を心配する以上に安堵を覚えている。
本当にひどい男だ。
だから、私は英雄足り得ない。
英雄とは、彼のような者を言う。
伏龍・鳳雛などと並べて名を呼ばれているが、違う。彼は、彼だけは違うのだ。彼こそが『本物』だ。
現に私は、彼の顔を見て『これで、もう絶対大丈夫』と確信した。他人に、そう思わせられてこそ『本物』。私では到底及ばない。
だがそれでも……。
「どうしたい、伝七郎。やけに『追い詰められている』じゃないか。らしくない」
武殿は、からかうようにそんな軽口を叩く。安堵したのを見抜かれたようだ。
そして、私が今一番欲しい言葉を見抜いてかけてくれる。
もし、今武殿に『任せろ』と言われていたら、私は二度と武殿の横に立てなかったかもしれない……武殿の問題ではなく、私自身の負い目によって。
私は彼を天幕の中に迎え入れるべく立ち上がり、両手を広げて笑んで見せた。
彼の横に立てる自分でありたかった。
「我ながら情けない話です。気づくのが遅れました」
彼には、これだけの言葉で十分だろう。それで伝わる。もう、こちらの状況をほとんど把握できているに違いない。
「まあ、今回は敵……といっても、おそらくは『継直』のところのだろうが、奴らが上手くやったという事だな。なかなか凝った策だよ、これは。かなり食い込まれるまで気づくのは難しい。ほとんどの人間は、最後まで気づかんだろうな。気づいた時には、もう手遅れよってね」
やはり『把握』している。継直の下にいる者たちの事など、武殿は知らないのに。
「そこまで把握しておられるのですか」
すると、武殿は不敵な笑みを苦笑に変えた。
「いや、状況から読んだだけだよ。残念ながら、まだ把握は出来ていない。あとで詳しく教えてくれ」
……むしろ、そちらの方がすごいだろう。彼の頭は、一体どうなっているのだろうか。
「それはもちろん。でも、その前に傷の方は大丈夫なのですか。いや、これは失言ですね。大丈夫な訳がない。無理を押して来て下さったのでしょう……有り難うございます」
自然と頭が下がった。
「ええ。合流した重秀殿から、武殿が毒矢を受けて昏倒したと聞いて、此度の金崎家との戦では武殿には頼れないと腹を括っていましたからな」
それまで黙ったまま私に譲ってくれていた信吾が言葉を足す。
「はん。あんなもん屁でもないわ……と言いたい所だが、ちょっとヤバかったな。藤ヶ崎で千賀には泣かれるわ、菊にも死ぬほど心配かけるわで大反省だ。まあでも、こう言っちゃなんだが、死にかけた甲斐はあったぜ。きっちり決着つけてきた。もう、道永の野郎に邪魔される事はない」
「らしいですな。重秀殿らはずっと武殿のことを心配されておられましたが、その報告を伝七郎様にしている時には、それはもう誇らしげに胸を張っておられました。太助らも、藤ヶ崎を出る前に見たあ奴らとは比較にならない一端の顔をしています」
信吾が心底感心しているように、うんうんと頷きながら、合流した者たちの事に言及した。
「あいつらも本当に頑張ってくれたからな」
話を面白そうに聞いていた武殿は、信吾のその言葉を聞くととても嬉しそうにそう言った。しかし、どうやら少し勘違いしているようだ。
「違いますよ。確かに彼らは、自身の働きに更なる自信を得たでしょう。しかし、いま彼らの士気がとても高まっているのは、自らが支える将の力を知ったからです。此度の水を使った謀……私は話を聞いた時にこう思いました……人知の極みだと。その下で働いた彼らが、それにどう刺激されたかなど容易に想像がつきます」
私がそう訂正する。すると、彼は目を丸くした。そしてその後で、
「なんか、そこまで言われるとこそばゆいな」
と照れくさそうに頬を掻いた。
「実際、それだけの事をしたのですよ、武殿は。それはそうと、来て下さったのは本当に有り難いのですが、無理だけはしないで下さいね。どう考えても、今の武殿にはまだ療養が必要な筈。無理をしすぎれば、本当に取り返しの付かない事になりかねない」
「うん。一応は理解している。が、ちょっとそうも言ってられなくてな」
「と、言うと?」
「ああ。多分、俺が見るに現状はこうだと思うんだ」
武殿は、持ち上げた入り口の布を払いながら天幕の中へと入ってきた。
……すごい。
元々武殿の目と知恵は常軌を逸していたが、最近はその鋭さを更に増してきている。
「――――という訳でだな。お前たちがきっちり気づいて踏みとどまってくれた時点で、この戦いはもらったようなもんな訳だ。まして、上手く『敵』を取り込んでくれたからな。状況は『正面』から見れば最悪だが、『裏面』から見れば絶好機が俺たちに訪れている。失敗すれば最悪の事態になるのは間違いないが、敵を継直と見れば最高の状態で決戦に持ち込める可能性を手に入れてもいるんだよ」
ここに来るまでの間に、武殿はここまで考えていたのか。
信吾も、感心を通り越して呆然としている。黙って話を聞いているのではなく、挟む言葉を見出せないでいるような感じだ。
「ただ、問題が二点あってな……」
私たちに現状を打破する知恵を披露した後、武殿は苦々しげに顔を少し歪めながら、髪に手をやって乱暴に掻きむしった。
「問題……ですか。さしずめ、一つは継直が仕掛けているという部分でしょうか」
「ご名答。流石だね」
少し考えれば分かった。これが継直が仕掛けてきた謀ならば、金崎領攻略の終着点になる筈だった惟春の首が一通過点にならざるをえない。
つまり、従来の計画では惟春のいるここ美和にこちらの軍を収束すればよかったが、そうはいかなくなったという事だ。
武殿は、我々が惟春との戦いに突入した途端に、継直の軍が直接介入してくると読んでいるのだ。
「多分、俺たちが本格的に美和攻略に入ったところで、援軍ではない継直の軍が介入してくるだろう。いくつかの経路が予想できるが、多分二水経由だろうな」
やはり、そういう事か。
それにしても、二水……か。なるほど、確かに継直がこちらに手を出そうとするならば、あそこを押さえる必要がある。
私がなるほどと頷いたのを見て、武殿は懐から地図を取り出した。そして、本格的に説明を始めた。