第二百九十八話 妖怪のぞき見幼女が出た でござる その二
……ふむ。
上半身だけを起こし、目の前にあるドヤ顔を見る。
褒めて褒めてーと言わんばかりに、布団の中にある俺の足に跨がり、ずずいと詰め寄ってくる千賀。すでに頭を突き出して、いつでも撫でていいのだぞとスタンバイおっけーだった。
俺は再び、千賀から手の中の『もの』に目を移す。
何度見ても、とてもよく見慣れた『お椀』だった。ええ、ここに俺がいる時は、いつも菊が味噌汁とか吸い物を注いでくれるアレだ。
……厨には誰もいなかったのか。珍しいというか、間が悪かったというか。
千賀の奴は、誰もいなかったから、その辺にあった適当な入れ物を使ったらしい。
しかもあれだ。器からぽたりぽたりと水がしたたり落ちている。千賀の奴が濡れた手を布団の上についているから、数滴の水の滴など今更ではあるのだが、問題はもう一つある。
これ、多分お椀をひっつかんで水瓶に直接インしたよね?
こんな事を婆さんに知られようものならば、千賀をお使いに行かせた事と合わせて、絞られる羽目になるだろう。
基本婆さんのスタイルは、何があっても俺が悪いだからな。俺は千賀のお守り役な訳だから、まあ一理はあるのだが。
もう一度、千賀を見る。
「なんじゃ。はよう飲むのじゃ」
ぴょんこぴょんこと俺の足の上で腰を弾ませた。
「ぴっ、お、ちょ、ぎゃ」
おいおま、ちょ……やめて。傷は確かに肩だけど、思いっきり響くって。
言葉にならない音が口から漏れたとき、すっと襖が開いた。
「武殿……って、姫様っ!?」
菊が帰ってきたらしい。良いタイミングだった。まさに俺の女神さま。
お願い、ボスケテ。
俺は痛みに滲んだ涙を浮かべたままの目で、菊にSOSを発する。
そんな俺を見た菊は、慌てて部屋の中に入ってきて千賀に話しかける。
「姫様、姫様。いけません、降りて下さいませ。今の武殿は、いつもの武殿とは違うのです」
千賀はポカンとした顔で、菊を見た。たぶん、俺がなんで帰ってきたのかを、よく理解できていないのだろう。
「そうなのかや?」
とはいえ、静かな口調だが割と切羽詰まった感じで説明をする菊に、千賀はとりあえず今は言うことを聞かないといけないと悟ったらしい。
素直に俺の上から降りた。
「はい。実は、武殿は今、怪我をしているのです」
菊は、やんわりと言葉を濁しながら俺の状態を説明する。
すると千賀は、
「怪我をしているのかや」
と、今の今まで褒めてもらえると嬉しそうにしていた顔を、ふにゃっと歪めた。
「ちょっとだけな」
俺も、ずきずきと疼く肩の痛みを堪えながら、ちょっと頑張ってみる。千賀に大怪我だと言ったって、ただ心配させるだけだからな。
「どこが痛いのじゃ?」
「肩を少し怪我した」
そう言って、左肩を指差した。
すると千賀は、てててと俺の左側に回り込んできて、小さな指で摘まむようにして俺の着物の共衿をひょいとずらしてしまった。
「「あっ」」
俺と菊は、千賀のあまりに躊躇いのない自然な行動に反応が遅れた。
「ぴっ」
運が悪かった。
菊が千賀の元に報告に行っていた為、今日はまだサラシの交換をしていない。そのせいでサラシに血が滲んでいた。おまけに、先ほど千賀が暴れたせいで、乾いていた傷口が少々割れたらしい。新しい血も滲み出て来ていた。
千賀はそんな俺の肩を見て、目をまん丸に見開いたまま固まってしまった。
……やっちまった。
どうしたもんかと、菊と目で会話をする。菊も、ちょっと慌てていた。
とはいえ、もうどうにもならない。
「……あー、千賀。大丈夫だから」
俺は何気ない仕草で開かれた共衿を戻し、血の滲んだサラシを隠そうと試みる。出来る事など、せいぜいこのぐらいだ。
が、千賀は、存外強い力で、それに逆らった。逆らって俺の共衿を掴んだまま、ただただ俺の肩を凝視している。
「……血が出ているのじゃ」
「あー、まあ、ちょっとだけな」
「痛いのかや?」
「……ちょっとだけ」
「痛いのじゃあ」
千賀は、ぽろぽろと涙をこぼし始めた。
「あー、あー、ほんとにちょっとだけだから。泣くな……ってか、痛いのは俺なんだから。お前が泣かなくても良いだろう」
俺は、側にある千賀の小さな頭に不自由のない右手を回し、わしわしと強めに撫で回す。
「えっ、えっ」
千賀は、両手で目をごしごしとしながらしゃくりあげている。
千賀が泣くところ自体ほとんど見たことがない。だが、それでも何度かは見たことがある。
こんな泣き方をする千賀を見たのは初めてだった。爺さんがヤバイと泣いたときだって、こんなに辛そうな泣き方はしなかった。
俺は、頭を撫で回していた右手を千賀の小さな肩に回し、抱き寄せる。
「大丈夫。大丈夫だから……な?」
普段の元気印の千賀を見ていると、ついつい忘れがちになってしまうが、こいつはこの歳の子が背負うには不似合いな現実を背負わされている。傷ついていないはずがないのだ。
俺はしばらくの間、このまま千賀を抱きしめ続けようと決めた。
千賀は、俺にしがみつき続けた。
たぶん千賀は、これ以上親しい人が側から居なくなることがイヤなのだ。
千賀は普段我が儘を言うことはない。こいつの我が儘は、哀しいことに計算されているから、本当の我が儘とは正直言えない。だから、あまり良いこととは言えないが、千賀は泣いて俺たちを困らせることはない。
だが、不意に見た俺の血に、思わず素の感情が出てしまったのだろう。
まだ幼い千賀がそうなってしまったとて、責める気になどならない。むしろ、良いことだとさえ思う。普段抑えられすぎているのだ。
そんな千賀も、ようやく落ち着いてきた。ぐしぐしと目を擦っているが、肩の震えも治まってきていた。
俺の腕の中で泣く千賀を黙ったまま見ていた菊は、その様子に、
「さあ、姫様。武殿も、そろそろ休まなくてはいけません。お話しは、また明日にでもなさればよろしいでしょう」
と、そう言って慈愛に満ちた眼差しで語りかけた。そして、千賀を優しく俺から引き離す。
「う……うむ。ひっく。そうじゃな」
千賀は気丈にも、まだ涙でべしょべしょに濡れたままの顔を起こして菊に同意した。
……ホント歳に似合わんよなあ、こういうところ。
不憫だと思わずにはいられなかった。
そんなことを思いながら、「また明日来るからの。良い子にしているのじゃぞ」と言葉を残して部屋を出て行く千賀を、俺は見送る。
菊を心底心配させ、千賀には泣かれ、今回は散々だ。
もちろん命を粗末にしているつもりはないが、結果として俺はどちらにも辛い思いをさせてしまった。
これからも命をかけなくてはならない場面などいくらでもあるだろうが、それでも俺はこの事を忘れてはいけないだろう。
俺が傷つくだけでも、こうして悲しむ子がいる。
その事だけは、心に刻んでおかないといけない――それを痛感させられた。
11/30 少々文章を整えました。