第二百九十六話 目覚めるとそこは…… でござる
『はやく起きなさいっ! 遅刻するわよっ!』
――――分かっているって、母ちゃん。
なあに、この前呼び出されたばかりだから、次の親呼び出しまであと二回余裕がある。平気平気。
『おい、武。起きろって。やばいぞ、三橋が睨んでいる』
――――あん?
道夫?
我が悪友が囁きかけてくる。
三橋はねちっこいからなあ。この前なんか、ちょっと授業中に弁当を食っただけで担任にチクりやがるし。ってか、口の中に物が入っているタイミングで、わざわざ当てるなっての。実に心が狭い人間だ。
『武……タケル……たける……』
知った顔が次々に呼びかけてくる。
――――うるさいなあ。つか、一人ぐらい女の子はいないのか。
今の俺はなあ、すんげえ可愛い女の子らに囲まれてるんだぞ。お前らみたいな、ムサい男どもになど用はないわっ。……千賀の侍女衆は、皆そこらのアイドルなんかよりも遙かに可愛いからな、マジで。お前らに菊を見せてやりたい。血の涙を流して悔しがるだろう。そして、そんなお前たちの顔を俺は見てみたい。
……って、ん? 『今』の俺? 菊? き……く……?
顔を撫でる何かの感触がある。
なんともフワフワとした意識が引っ張り上げられる。
夢と現実の狭間にいるような感覚が未だ残るが、次第に意識がはっきりしてくる。
俺は眠っていた。
閉じられた目をうっすらと開けると、そこにはよく見知った天井があった。藤ヶ崎の自室だ。
開けた目に障子越しの陽の光が飛び込んでくる。
「……武殿?」
すると、もっとも俺の耳に優しい人の声が、恐る恐るといった感じに俺の名を呼んだ。
「……きく?」
その声の主の名を呼ぶと、自分でもびっくりするくらいに弱々しく枯れた声だった。
そんな自分の声に思わず身を起こそうとするが、体が思うように動かない。
……そっか、そういや道永の野郎に毒矢を当てられたんだっけ。
段々と頭が働き始め、今の自分の状況を理解する。どおりで体が動かない訳だ。
そんなことを思い始めた時、体をぎゅっと抱きしめられた。
「……よかった……よかった……」
菊は涙声を必死で抑えるようにしながら、俺の体を優しく、でも離すまいとばかりに覆い被さるようにして抱きしめてくる。俺の頭に回された彼女の手は、髪を、頬を撫でてくる。そして彼女は、その頬を俺の頬にこすりつけるように何度も何度も合わせてきた。
どれほど心配させてしまったかを知る……って、菊? 藤ヶ崎?
そこまで考えが至ったとき、俺の頭はようやく『軍師・神森武』として再起動しだした。
「……もう……もう……」
抑えきれない感情が漏れ始めてしまった菊の涙声を聞きながら、俺は彼女を宥める暇もなく確認せざるをえなかった。
「……きく……ぐんは……おれのたいはどうしている……?」
今は、俺たちにとって切所そのもの。悠長に寝てなどいられない。ここを凌げるか凌げないかで、国の未来が変わる。倒れるなら、せめてここを乗りきってからにしないと、明日寝る場所がなくなる。というか、寝る必要がなくなる――みんな死ぬ事になるから。
動かぬ体を無理やり起こそうとすると、菊はそれをさせまいとばかりに俺に抱きつく力を強めて抑えこみにきた。
「駄目! 駄目です! 武殿……貴方は今の自分の状態が分かっておられるのですかっ!」
菊は切なげな声で、しかし叫ぶように俺を諭そうとした。
「……ごめん。ぐっ……でも、いまねてたら、あしたいきられなくなる……」
菊にどれほど心配をかけているかは、彼女の様子を見ていれば痛いほど伝わってくる。しかし、それに負けて引き下がるわけにはいかなかった。
「……でも……でも……」
菊は俺を抱きしめたまま、まるで幼い子供のようにイヤイヤと首を横に振った。
丁度その時、スッと襖が開いた。
「失礼します、武様。僭越ながら申し上げます。武様の体を冒している毒は決してヌルい毒ではございません。菊姫様のおっしゃる通り、今は体をお休めになるべきかと」
鬼灯だった。片膝をつき、廊下で頭を垂れている。
「ほおずきか……」
俺は、鬼灯の声がしても俺の体を離そうとしない菊に抱きしめられたまま尋ねる。
「はい。武様の指示は窺いましたが、独断で武様だけは藤ヶ崎にお連れしました」
「おれだけ……?」
「はい。私他5名の護衛役を除き、みな武様の指示通りに動いています。重秀様らは、あれからすぐに笹島を目指して移動を開始しました。今日は、あれから七日目。もうとっくに到着しているでしょう」
「じいさんとあつのぶは……?」
「永倉平八郎様、三森敦信殿ともに、佐方の軍勢を抑えこんでいます。永倉平八郎様の方はほぼ国境まで押し返している状況です。三森敦信殿の方は、武様の指示通りに東の砦へと続く山道に陣取って未だ応戦中です。敵は武様の読み通りに、守りのいない朽木に襲いかかる前に三森敦信殿を討つべく転進しました」
ほぼ最良の状態か。爺さんも敦信も頑張ってくれているなあ。
「……そっか……」
鬼灯の言葉に、少しホッとして体の力を抜く。
すると、俺に抱きついて起き上がらせまいとしていた菊も、ようやく気持ちが落ち着いたのか、ゆっくりと俺の体を解放してくれた。
「ですので、今は少しでも体をお休めになられませ。勝手な事をした私への処罰を含め、お務めはそれからでも遅くはございません」
その鬼灯の言葉に、俺よりも先に菊が反応する。
「そんな! 貴女はよくやってくれました! 武殿の体を蝕んだ毒を解いてくれたのも貴女ではございませんか! 処罰などとんでもない。あのまま放っておいたら、間違いなく武殿は命を失っていたのでしょう?」
「はい。されど、武様の指示は『止まるな、引き返すな』でございましたから」
「その結果、主を死なせてしまうことになっては臣として本末転倒です。貴女は臣として最良の選択をしました。罰を受ける必要などありません」
菊は、いつになく強い調子で鬼灯の言葉を否定する。
多分菊は、鬼灯ではなく俺に向かって言っているのだろう。鬼灯を罰するな、と。
「……ふう。そうだな……うん。ほおずき、ありがとう」
「……はっ」
俺が床の中で体の力を抜いてホゥと深く息を吐くのを見ると、鬼灯も少し安心したようにその体の緊張を解いた。