第二百九十四話 雌雄 でござる その一
「そろそろ水も治まってきましたか」
八雲が崖下を眺めながら呟いた。
偵察に出した鬼灯らを待ちながら、俺は最小限の警戒任務の兵を残して小休止をさせていた。
特に重秀や太助らの消耗が激しく、太助などは腰を地面に下ろしたらそのままぶっ倒れたほどだ。今は体中を水拭きされて眠っている。その間気づかずに眠り続けたことからも、どれほど頑張ってくれたのかが分かるというものだ。重秀らも、反対側の崖の上でそれぞれが思い思いに体を休めていた。歴戦の精鋭兵らが、これほどに消耗するほどだったのだから、太助などは間違いなく最後は気力だけで戦っていただろう。
面と向かって言えば調子に乗るだろうから言えないが、俺はもしかすると得がたい臣下を得ていたのかもしれない。
もちろん、目の前で何事かを考えながら崖下を眺め続ける、この八雲にしても同様だ。
「荒川の水を直接流していたら、こうはいかなかっただろうがな。そんなことをしていたら、やったあとが大変だから、この手のことをやるときは後のことを考えとかないといかん。あとは、損得勘定をいつも以上にしっかりやっておくことだ」
八雲は、最近俺や伝七郎が講じる策や政策に強く興味を示すようになっている。
体の線が細い八雲は、太助や吉次のような槍働きは難しい。だから、八雲は八雲なりに突破口を見つけたのだろう。
「ああ、やっぱりあの堰はそういう意図だったんだ。なるほど……」
俺の回答は、八雲が希望した回答だったらしく、満足そうに何度かこくりこくりと頷きながら、再び崖の下に目を移していた。
ふぅ……。
崖から数メートル離れた所に転がっていた人の頭大の石の上に腰を下ろしていた俺だが、腰を上げる。
そして、八雲の横まで歩いていく。
「ああ、本当に治まってきているな」
崖を削りながらうねるように流れていた濁流は、すっかりその荒々しさを失っていた。鉄砲水となってあらゆる物を呑み込みながら流れた水は、今ではちょっとした小枝を流しているだけで穏やかなものだ。いまだに灰色の空からチラチラと舞い降る雪を吸い込みながら、茶色の水が右から左へと流れているだけである。
とはいえ、ここから下流の被害は相当な物だろう。まず、件の狭間村は水浸しだ。
狭間村を沈める計画の時は、堰き止めた水一杯分ではなく、しばらく荒川の水を直接流し込む予定だった。土嚢の堰は復旧工事をやりやすくするための物だった。だから、一杯分の水では流石に沈んではいない。
しかし、一部の高台にある家を除き、水は確実に床上だろう。
狭間村はすでに無人……このまま失われる運命の村とはいえ、事が終われば多少感傷的な気分にさせられる。
あのあたりは、やや土地が低いから流した水の大半は村の回りに広がっているだろう。
そして、すでに動かぬ肉塊となった石巻衆三百がそこらじゅうに浮かんでいるに違いない。
「同影でしたっけ? 彼の者も一緒に流れましたかね」
「……さあな。仕留められていればいいが、正直楽観はしていないよ。だから、鬼灯らを出したんだ。もう……同じ失敗をする訳にはいかないからな」
俺はちらりと、少し離れたところにある木の下に目をやる。そこには、座り込んだまま死んだ目で地面を見つめ続ける女らがいた。
「……はい」
そんな俺の視線に気づいた八雲は、それ以上その話題を続けようとはしなかった。
しばらくして鬼灯らが戻り、その報告を受けた。
道永が率いていたと思われる騎馬隊も俺の大水計には巻き込まれたらしい。馬の死骸も村周辺で見つかったとのことだった。
ただ、肝心の道永の死体は発見できなかったらしい。
まあ、洪水に巻き込まれた特定の人物の死体を探すというのは、なかなか難しい。だから、この計を使った以上は死体を発見できないことは覚悟していた。とはいえ、出来ればきっちりと奴の死を確認したかった。
しかし、いつまでもここで油を売っているわけに行かない。
今頃は、北では伝七郎も美和に向けて北上を開始しているだろうし、源太は北西に向かっているだろう。与平も比際峠に陣取るべく移動を開始しているに違いない。
南では爺さんと敦信が佐方を相手に奮闘している筈だ。
俺に、いつまでも道永に拘っているだけの時間はなかった。
俺は兵たちに撤収を命じる。
なんとか陽が暮れる前には、この野営するには向かない場所を離れたかったのだ。
「結局、あの道永? 同影? とか言う奴の死体は見つからず仕舞いかあ……」
「一応、ざっとは見てきたんだけどね」
太助と鬼灯が肩を並べて話をしている。
鬼灯は、今回の太助の戦いをみて、奴のことを少し昇格させたらしい。前は完全に出来の悪い弟扱いだったのだが、今は一人前に見ているように見える。
俺たちは崖上の林の中にある獣道を、馬を引きながら進んでいた。
崖の下の道だった場所は俺が水計でめちゃめちゃにしてしまった為、しばらくは使い物にならない。だから、鬼灯が伏せていた石巻と戦った挾間村へと向かう街道に出るしかなかった。
とりあえず、俺たちは美和に向かう伝七郎と合流するのが次の目標になる。ただその前に、南の爺さんと敦信の様子もきっちりと把握しておきたかった。
だから俺は、朽木と田島の中間あたりにある場所で一度陣を敷く事に決めた。この場所ならば、今回の戦いで予定外に消耗した物を朽木から運ぶのにも都合がよいし、また人質だった女らを朽木に送るのにも都合が良い。その間に、鬼灯らを爺さんの所と敦信の所に出す事も出来る。
まあ、もっともその前に今日野営できる場所まで移動しないと話にならないわけだが。
俺は行く手を阻む枯れ枝に辟易としながら、黙って馬を引き続ける。先頭に重秀、殿に吉次、太助と八雲を含めた数人が隊列の真ん中で俺の警護に当たってくれている。
しばらく進むと街道に出た。ようやく、ホッと一息吐く。
その時だった。
「武様!」
まさに気を抜いた瞬間の出来事だった。
鬼灯が俺の名を呼ぶ声が聞こえた瞬間、目の端にキラリと光る物が入る。そして――――
ドン
左肩の付け根あたりに強い衝撃を感じた。
矢?
一瞬、頭が追いつかなかった。
どこから?
俺は、隊の真ん中あたりにいた。ただ、獣道は極めて細く、いつもは両脇を固めている太助や吉次、鬼灯らも縦一列の状態だった。だから、確かに俺はもっとも手薄な状態ではあったのだ。
でも、そんな俺にでも矢を射かけるのは至難の業だ。普通の技量ではなし得ない。
『どこ』も気になったが、『誰』も気になった。
「神森武……待ちわびたぞ」
見たかった顔がそこにあった。ただ、それはまだ息をしていた。
とっさに腰の刀に右手をかける。その時、肩に焼けるような熱が広がり、その直後気を失いそうになるほどの痛みが俺に顔を顰めさせた。
「……ホントにしつこいな。生きているお前にはもう会いたくなかったよ……道永」
12/5 石巻衆600→石巻衆三百
設定の数字を間違えて拾っていたのを修正