幕 道永(三) 因縁の戦い その六
ちぃ……。
石巻の勢いが落ちてきた。
神森武は、相も変わらず腕を組んだまま、こちらをじっと眺めている。
このまま奴の思惑通りに終わるのだけは承服しかねる。今日泥を舐めるのは儂ではなく、あの小僧だ。そうでなくてはならない。
あの日から始まった屈辱の日々……。
そのすべてを返さねばならぬ。やっと……やっと奴の首に手が届くところまで来ているのだ。この機を逃すわけにはいかない。
武士としての儂を土足で踏みにじったあの小僧には、相応の礼をしてやらねば気が済まぬ。奴にも儂と同じ狂気の底を味わわせてやるのだ。
それが叶うのならば、他はどうなっても構わぬ。
何か……何か手立てはないか。まだ戦力はこちらの方が有利だ。だが、このままただ押していて良いのか。
戦況は芳しくはない。
両脇を切り立った崖に挟まれた狭い山道の入り口で、奴の配下十数名がこちらの兵を阻んでいる。その奥には神森武が無防備にその姿を晒しているというのに、何も出来ない。
相変わらず小細工を弄しおる。
なるほど……確かにああすれば、少人数で多くの敵を相手に出来る。実にあの小僧らしい戦い方だ。反吐が出る。
それに……。
目を山道入り口で奮闘している敵兵から、両脇に切り立つ崖の上に移す。顔に雪が当たり冷たいが、じっと凝視する。
あの小僧のことだ。以前の時のように、あそこにも兵を置いている筈。他の兵がいなくなったままだ。その兵はどこにいる? ……あそこに決まっている。
以前は、火の付いた玉を落とされ、油を撒かれたな。石も投げつけられた。
同じ手が通用すると思うなよ。自らを囮にして、それで儂の目が曇るとでも思っているのか。舐めてくれたものだ。
いや……さしものあの小僧も読み間違えているのか。
儂のお前への憎悪の大きさは、お前が考えているよりも遙かに大きいぞ……神森武。
怒りではなく、笑いが込み上げてくる。
自分自身……なにが可笑しいのか分からない。己の感情が理解できない。
だが、そんなものはどうでもいい。
このままただ押していていいのか……か。
いいのだ。
あの小僧は、己の首を晒すことによって、何とか儂の目を崖の上から逸らそうとしている。そして、あの十数名らに戦いやすい状況かつ、こちらに戦いにくい状況を合わせて提供することにより、最小限の兵力で儂らの足を制御しようとしている。
おそらく彼奴は、もう間もなく下がる。
そして儂らを引き込んで、崖の上に待機させてあるだろう残りの兵で、こちらの兵を殺しに来るはずだ。あの時のように。
また炎か。あるいは石……いや、今回は奴らも戦をするつもりで来ているから準備をする事が出来た。あの小僧のことだ。矢を用意しているかもしれない。
だが……今回は、前のようにはいかん。
忌々しいが、確かにあの小僧の頭は良くまわる。が、勝ちすぎはよくないな。己の知謀に溺れたとみえる。あるいは……武士ではない彼奴には、実際に槍を振るということが理解できなかったのだろうか。
人には無限の体力はないのだ。どれほどの武士も、疲れればその槍は鈍ってくる。
我らの攻撃を前だけに絞ったところまではいい。が、人数が少なすぎだ。
あの場所で、実際に戦える人数はあれで一杯かもしれぬが、彼奴はあの者らに儂ら全員の相手をさせるつもりだろうか。
万夫不当の豪傑と数百の弱卒の戦いではないのだぞ。単純な武力であれば、世に悪名高き石巻の名は伊達ではないのだ。
正直、あの人数で一時でも石巻の突撃に耐えてみせているのは、敵ながら天晴れと言える。
とはいえ、所詮は焼け石に水だ。この人数差では、そういつまでも耐えられぬ。
であれば、このまま突っ込ませ続ければ良い。石巻がどれほど奴らに殺されようが、最終的に神森武の首に手が届けば良いのだ。
今、儂がとれる手は二つ。
崖の上の伏兵を先に始末するか。このまま力任せに突き破るかだ。
考えるまでもないな。
突き破れば良い。
あの崖の上に攻撃をかけるには、大きく回り込まねばならない。そんなことをしようとすれば、あの小僧に手を打たれてしまう。そも、彼奴が兵を伏せていることに儂が気づいているのをわざわざ教えてやる必要もない。教えてやるのは、彼奴に打つ手がなくなってからだ。
あの十数名の守りを突破すれば、神森武を守る者は誰もいない。容易に、その首を獲れるだろう。我らが、あの十数名の壁に穴を開ければ、当然崖の上に隠れている者たちも慌てて攻撃を仕掛けて来るだろうな。その時でよい。
来ると分かっている攻撃など何も恐れることはないのだ。
備えていれば、そうそう犠牲は出ぬし、石巻の兵らが動揺して右往左往することもないだろう。
そんな事を考えていた時、
ピ――――――ッ
と甲高い音が戦場に木霊した。
「頭! 鏑矢です。神森武の奴、天に向かって鏑矢を放っています」
また妙なことを始めたか。
「狼狽えるなっ! 彼奴は他人の心を揺すって操るのだ。狼狽えれば、奴の思うがままぞっ」
動かぬ左足がじくり痛む。苦い思い出が甦る。
だが、そんな思いを振り切って命を出す。彼奴の好きにはさせぬ。
「このまま押し込むのだ! ただし、崖の上に注意せよ! 敵兵がいるぞ! 投石があるやもしれぬし、矢が射かけられるかもしれぬ。が、所詮大した数ではない。慌てずに避ければ十分に避けられる! 決して狼狽えてはならぬ!」
声を限りに叫んだ。
「伝令!」
「は……はっ!」
「儂のこの言葉を、石巻文吾にも伝えよ。そして、十分に注意したまま押し込めとな。神森武の奇行に惑わされてはならぬ。すべては、己に目を向けさせるための彼奴の罠だ!」
「はっ!」
そう告げると、伝令の兵は前線の文吾の元へと走った。さほど距離はないが、怒号飛び交う合戦の最中では、ここからでは儂の言葉は直接伝わらない。放っておけば、あの小僧めにいい様にされてしまうだろう。そのようなことは受け入れられぬ。
くくく。さあ、小僧。どうする。お前の手の内は読みきってやったぞ。今度はお前が屈辱を味わう番だ。