幕 道永(三) 因縁の戦い その四
神森武が逃げていく……。
儂の戦場への到着とほぼ同時に、神森武と思しき一隊が南西の林の中へと姿を消していった。そして、その撤退を守るように、別の一隊がその場所を守っている。
追うべきか。いや、駄目だ。無駄だな。
仮にあの守っている部隊がいなくとも、儂等があの林の中を追っても神森武はしとめられぬ。
確かに、あの部隊が神森武の部隊ならば、女どもを連れているだろう。それでなくとも、そもそもあのような道と呼べぬ道を騎馬では駆けられぬ。
だが、儂の直率の者たちだけでは神森武を討ち取るには数が足らないし、その数を揃えようにも目の前で神森武にいいように踊らされている馬鹿どもをなんとかしないことにはどうにもならない。
ここは我慢するしかない。迅速に混乱している石巻衆を鎮めるべきだ。
まったく、肝心要のところでこれだ。名の通った野武士集団ではあったが、所詮は野武士は野武士。ならず者の集団でしかないということだ。
想像以上に使えなかった。
腕っ節は、確かに評判通りではある。
が、神森武のような者を相手にするには、それだけでは足りない。足りないものが多すぎる。噛み合わせの悪さは最悪といっていい部類だろう。
結果、当然のように、あの小僧めに好き放題にされてしまったということだ。
またやられた。
そう思うと、はらわたが煮えくり返り、手綱を持つ手に力が入る。
目の前では、役目を果たしたらしい石巻衆を翻弄していた騎馬隊三隊が、神森武が消えた林の入り口に向かって順次移動し始めている。
撤退行動に移ったのだろう。
口惜しいが、これも今は見送るしかない。
「頭……見送るので?」
神森武の撤退を許した矢先に、今も奴の騎馬隊三隊の撤退を見守っている儂に、部下の一人が恐る恐るといった感じで尋ねてくる。
「……見送らざるをえんだろう。あの馬鹿者どもめが。もう少し使えると思っていたのだがな。どいつもこいつも……」
「…………」
尋ねてきた男は口を噤んでしまう。おそらく、儂もうまく怒気を押さえられていないのだろう。
現に、男は怯えていた。顔をひきつらせて、おそらくは無意識だろうが、儂から視線を外そうと必死なっている。今の儂に声をかけたことを、この男は後悔していることだろう。
が、そんなことはどうでもいい。些事にすら値せぬ。
まことに不本意ではあるが、今は目の前の馬鹿者どもを鎮めて神森武の後を追うことこそが大事。幸い、あの森の中では騎馬は足かせにしかならぬし、そも女連れではまともに進めぬだろう。
一方こちらは野武士の槍兵が大半だ。十分追いつける。
いらだちを無理矢理押さえながら、未だ統制を失っている石巻衆の方へと馬の鼻を向けた。
混乱している石巻の連中を大喝し落ち着かせた後、連中には神森武を追うことを命じた。
頭である石巻文吾がその場にいて、なおこの体たらくを演じたと知ったときには怒りを通り越して呆れたが、腕っ節だけが自慢の猪武者なのだと理解すれば、それなりに使いようはある。
文吾らを手玉にとった神森武のところの者たちは、儂の接近前にさっさと退却を終えていた。このあたりは、流石に猪武者などとは違う。まして、あの神森武の深紅の旗を掲げていた部隊だ。口惜しいが差は歴然というしかないだろう。
林の入り口であの者らの退路を守っていた者たちも含めて、すでに皆林の中へと消えている。もう追いつけぬなどということはないが、あまりのんびりとしていられないのも事実だ。
それ故に、石巻文吾に命じて、折り重なるように生えて隠されていた草原からの抜け道を早急に追わせた。
あの神森武のことだ。あのように視界の効かぬ道では何が仕掛けられているか分かったものではないが、石巻の家来がいくらか犠牲になったとて大した問題ではない。子飼いの配下を失うよりは遙かにマシというものだ。石巻では仕掛けられた罠を見抜く事は出来なかろうが、儂らが通る前に『道を安全にはしてくれる』だろう。
あのような失態を見せた後では、安住に繋いでもらいたい石巻文吾にとっては、挽回の機会だ。それを考えると、石巻が単なる猪の群れであったことも悪くはない。真っ直ぐに進むことしか出来ぬ猪でも、罠避けには最適だ。
そんなことを考えながら、神森武らが逃げた獣道を最後方から進む。むろん、下馬してだ。神森武らは、このような道を乗馬したまま、しかも女連れで逃げた。相も変わらず、非常識極まる。
「頭」
隊の先頭にやっていた者が儂の元へと戻ってきた。
「どうした?」
「物見からの連絡で、先にやった石巻がこの先で襲われているようです」
思った通りか。
「ふん。やはりな。あの小僧の考えそうなことだ。奴らを先にやって正解だった」
「へい。それで、我々はどうしますか?」
「どうもこうもない。このまま進むだけだ」
「このままですかい」
「ああ、このままだ。あの小僧がここへ持ってきた兵と石巻の数を比べると圧倒的に石巻の方が多い。いくら不意をついてもそれだけでは覆る戦力差ではない……神楽の忍びを持っていてもな。あの小僧の狙いは、撤退のためのただの時間稼ぎだ。だから、多少の被害など気にせずに進むことが、あ奴らにとって一番嫌な事なのだ」
「なるほど」
「忌々しいが、あの小僧は石巻と違って愚かではないからな。だから、いま石巻を襲っている連中は、間もなく下がる。儂らが現場に着く頃には、儂らは安全に通れるようになっているだろう」
「そういう事ですかい。分かりました。では、我らはゆるりと参るとしましょう」
「うむ。それでよい」
男は、儂の命に納得して再び隊の先頭へと戻っていった。基本的に、儂に付いてきている者らも皆『出来損ない』だ。だがそれだけに、己に害がなければ下手な正義感を振りかざすことはない。そういった意味では、実に助かる。
葉が落ち剥き出しの枝のままの木々の間を、先程から再び降り始めた雪が抜けて落ちてくる。時々、それが顔に当たった。幸い足下は多少ゆるさはあるものの、凍りついていてどうにもならないなどということはない。降り積もった雪で前に進めないという事もない。
十分に戦は出来る。
兵の数の差が、しっかりと結果に結びつく条件は変わらず整っている。あの小僧に惑わされずに数で押し包めば、こちらの勝ちは揺るぎない。
だから焦ることはないのだ。焦れば、あの小僧はそこを突いてくる。あ奴は、そういう奴だ。
逸る気持ちを抑えるべく、何度も何度も胸中で念仏のように唱えながら、心の乱れを整えて歩を進めていった。
そして、しばらくすると、先を行った石巻への左右の林からの攻撃は止んだらしい。先程報告が来た。
ピタリと攻撃が止んで、その後なんの音沙汰もなく、石巻文吾はやや困惑しているようだったが、報告に来た者に『そのまま先へと進め』と指示を持たせて送り返すと、先に行った石巻衆はすぐに動き始めた。
戦が始まってから良いところなしである事を石巻文吾も理解しているらしく、儂の指示に随分と素直に従っている。安住への口利きという餌をぶら下げている以上、某かの成果を出さねばならないがそれが出来ずにいるが故の従順さだ。神森武の首という大目標を考えると、これまで石巻に功績らしい功績が何もなかったのはむしろ良かったのかもしれない。下手に功を上げていたら、儂の命にこうも素直に従ってくれたかどうか疑問が残る。
ここに来て、とうとう儂にもツキが回ってきたのかもしれない。
こじ開けて進むという程ではないが、明らかに馬を全力で駆けさせる事は出来ぬような悪路を進みながら、そんな思いが脳裏をかすめた。
そして、そんな事を考えていると、再び先に行った石巻から連絡が来た。
林を出た――と。
そしてその先では、逃げていった神森武が、こちらを待ち構えていたとの事だった。