第二百八十八話 過去の不始末との対峙 でござる
「気づいたみたいだぞ」
俺の前と左右に深紅の旗が翻る。
赤に白一文字――――
胸を張り、その旗をはためかせながら太助はこちらを振り返った。
その顔には怯えと読める感情は欠片も浮かんでいない。一端に『負けられぬ。勝たねばならぬ』という将の意思が漲っていた。
こちらの兵の数は七十程度。
残りの百三十は、この戦いを勝つ為に敢えて分けた。寡兵を分けるのは兵法の定石に反するが、それでも俺はそれを選んだ。真っ向正面からぶつかって勝てる見込みは、まったくないから。目の前の敵の数は多く見て三百三十といったところだろう。二、三十の敵を倒す為にやってきた俺たちが正面から相手をするには厳しすぎる。まして今回は、敵が守勢。体勢もあちらが有利なのだ。
だから、まずこの体勢を入れ替える。あいつらを殻の中から引っ張り出す必要があるから。囲めぬ寡兵をもって、『外』から大軍籠もる城を落とすのは容易じゃない。かといって、工作している時間もない。ならば、敵に出て来てもらうまでだ。
まず三十の朱雀隊を重秀に預け、敵の包囲網に穴を開ける為に動いてもらう。村の南西方面――俺たちがやってきた方角に退路を確保してもらう。道と呼べるほど立派な物ではないが、南西方面に抜ける獣道のような細道がある。そこに伏せさせたのだ。
彼らの役目は『殿』。
俺や太助ら率いる部隊がそこを駆け抜けた後、合流してくる神楽の部隊と共に林の木々に紛れながらゲリラ戦をもって応戦し、俺が次の策を発動させる為の僅かな時間を稼いでもらう。決して楽な役目ではないが、重秀は伊達に朱雀隊の副隊長でない。必ずやり遂げてくれる筈だ。
今回道永はかなり用心深くこちらの退路を断ってきているが、奴も人が二人通れるかどうかというような獣道までは兵を伏せていなかった。それは神楽が確認してもらってある。『これ』とこの道の続く『先』が決め手になって、この道を選んだ。
そして、残る百……神楽の兵を二隊に分けた。
片方を鬼灯に、そしてもう片方を蒼月が指名した者に率いてもらっている。それぞれ
林の中を進み、狭間村入口にのこのこ現れた俺たちを囲うべく伏せられている兵の後方に移動中だ。伏兵されている石巻の部隊のうち、俺たちが南西に抜ける為に邪魔になる二隊の後方へと更に回り込んでいるのだ。もう間もなく、俺が命じた位置に移動し終わるだろう。
そして、蒼月――――。
そろそろ着いただろうか。
太助の言葉に近づいてきた村入り口に立つ櫓を眺めながら思う。
今回の俺の策は、重秀でも俺でもなく、蒼月こそがキモだ。俺たちの役割は『舞台を整える』事。その舞台がどんな舞台となるかは、蒼月の手腕がすべてだ。だからこそ、一人でも優れた将が欲しいこの状況で、蒼月を外したのだから。
「武様? 武様!」
返事をしない俺に、太助は少し苛立たしげに強く俺の名を呼んだ。
「騒ぐな。ちゃんと聞こえているよ」
「だったら、返事くらいしてくれ」
「ああ、そうだな。悪い。ちょっと考え事をしていてな」
「考え事?」
太助は馬上で首を傾げている。この太助だけでなく、村へと向かっている俺率いる隊の者は皆馬上の人だ。当然だ。この後、俺たちは全力で『ケツをまくる』のだから。
俺は、そんな太助に向かって苦笑を見せながら、一つ頷いてみせる。
「ああ。現金なもんだな……とな」
「現金……」
「見てみろよ、太助。矢の雨が止んでいる。俺の姿が見えた今、もう用はないと言わんばかりだ」
そう言って、村の入り口でこれまで耐えてくれていた神楽と人質の女たちの方を指差す。
村に向かわせた神楽は数名の犠牲を出してはいたが、ほぼ生き残っていた。しかし、人質だった女の方は、多分息をしている者でも十名はいない。中には心が壊れてしまったかのようにボウッと突っ立っているように見える者もいる。おそらくは、救えたのは数名といったところだろう。いや……違うか。本当の意味で救えた者は、多分一人もいない。
そんな彼らは、道永にもう用なしだと言われんばかりに無視されていた。
とは言え、もし仮に俺が彼らをかっ攫って即座に転進したら、あのクソッタレは確実に伏せてある石巻を動かすだろう。こちらを包囲しにかかる筈。
だから、まだ道永を刺激する訳にはいかなかった。
俺たちの到着に歓声を上げる力もなく、心身共に疲労しきっているように見受けられる偽商団と女たちの様子を確認しながら、もう少しだけ我慢してくれと心の中で詫びる。
そして、改めて櫓の上でこちらを見ている道永の方へと目を向ける。
もう、村の入り口まで百メートルの距離もない。五十メートル先には、矢が降り注いでいたポイントがあり、その手前は二、三十名の武者くずれのガラのあまりよろしくない男らがこちらを警戒している。
道永は、その向こうの櫓の上でその体を晒しながらこちらを眺めていた。
道は狭間村の入り口へと続いている。道の脇は、片側は緩やかな斜面となっているが、反対側は小川が流れている。
石巻衆が隠れている林の脇はもう通り過ぎた。ぶっちゃけ、今奴らに後ろを絶たれたら、俺たちは終わりだ。
だが、そうはならない。道永は、『まだ』動かない。だからそれをさせない為に分けた重秀、鬼灯らも動かない。
まるで狂人が持った刃物が首筋に押し当てられているような、そんな感覚を覚える。いつその手が動いて、首を掻き切られるか分からない。そんな感覚が、心というよりも、もっと直接的に胃袋を苛んでくる。
激しいプレッシャーだった。狂ってしまった人間は何をするか分からない。動くタイミングも分かりづらい。それだけに、このところ無茶ばかりしてきた俺でも、『来る』ものがあった。
俺を守ってくれている朱雀隊の皆や、太助らはもっと強くそれを感じているのかもしれない。
さっきまで俺と軽口を叩き合っていた太助も、歯を食いしばるようにむっつりと口を噤みながら、前方を睨むように見ている。脇を固めてくれている吉次と八雲も、いつになく厳しい目をして周囲を警戒し続けている。
俺たちが村の入り口――商隊に化けた者らに無造作に近づいていくと、その退路を断って櫓の正面に押しとどめていた敵兵らは左右に分かれ、俺たちに道を譲った。妨害する事なく。
道永の指示か……。
敵の動きを警戒しながらも、俺たちは足を止めることなく矢の雨に晒されていた仲間の元へと近づいていった。
「ご苦労だった」
神楽の者たちは疲弊しきっており、鍛えられた忍びの者たちでさえ肩で息をして、俺に返事をする事すらできない状態だった。それでもなんとか、
「……はい」
と一番近くにいた初老の忍びが俺に応える。
「うん。あとは俺たちがやる。後ろの兵の馬に相乗りしろ」
詳しい説明をする訳にもいかず、俺はそう指示だけをする。男は俺の目を見た後、コクリと頷き、
「畏まりました。神森様」
と答えた。
そして俺は再び道永がいる櫓へと目を移し、自分が乗る馬の足を村の入り口へと進ませる。
その時、人質にされていた女の一人の脇を通った。まだ二十歳そこそこといった感じだ。ただ、その年の女がしていてはいけない濁った目をしていた。そして、女は冬の寒風よりも冷たい声でボソリと呟く。
「全部あんたのせいだ……」
その言葉は、とてもとても小さな声で呟かれた。しかし、どんな大声で罵倒されるよりも俺の心を締め付けた。