第二百八十七話 深紅の旗 でござる
冬の冷たい風が崖上に立つ俺たち二人に容赦なく吹き付ける。だが俺も、そして太助も、そんな事は気にしていなかった。
「分かるか?」
「ああ。あんた、同影とかいうのに余程恨まれているようだな」
「ちょっと前に色々あってな」
「ふーん。ずいぶんと質が悪いのに関わったもんだ」
「言うな。俺もうんざりしているんだ」
今回のこれ……屑のくせに『武士』にはこだわっていた道永からは考えられない所行だ。信吾や鬼灯からもすでに話は聞いているが、この状況からこれ以上なく強く感じる。
ただ、本来『策』というものは、むしろ道永のコレこそが本質と言えるだろう。上策であれ、下策であれ、目的を達する為に整える道筋の事を策と呼ぶのだから。
奴の目的がこの俺の命ならば、整備した道がどれ程汚かろうと、これは立派に策だ。気持ち的には認めたくはないが。
「で、どうするつもりだ? あの敵は、あんたが出てくるまで、あいつらをいたぶり続けるぞ。どう見ても待っている」
太助は、感情を押し殺したような不自然な冷静さを装って、俺に語りかけてくる。奴の指先は、崖から見える狭間村の入り口――まさに今殺されずに俺の寄せ餌にされている、神楽と女たちをまっすぐに指していた。
もしかすると太助は、あそこにいる者たちの姿に、かつての二水の村を重ねているのかもしれない。
天秤の揺れによって切り捨てられた、かつての自分たち……。
今の太助は、もうあの時の太助とは違う。国の汚さも、施政者の非情さも、俺は見せられるものは見せてきたから、国にかつてほどの夢は見ていない。その変化は、最近感じるようになってきた。
しかし、だからといって、過去を綺麗に割り切れているのかというと、そういう訳ではないだろう。
あくまでも『知った』というだけだ。かつて俺たちに対して抱いた憎悪も、間違いなく本物だった筈。出会ったあの時、俺に向けられた怒りに偽りはなかった。
同郷の者たちを思って、それだけ怒れたこいつだからこそ、俺は自らの懐中に招いたのだ。その時のこいつの思いを、今更疑おうとは思わない。
そんな太助が、選びたくなかろうが選ぶ事を強いられるという事を知って、いま俺に問うてきている。
どうするのかと。これも諦めるのかと。
その目は、俺を責めようとするものでも、そして諦めたものでもなかった。真っ直ぐに強い意志を抱いて、俺の目を見据えてくる。
「……まだだ。まだどうにもならないところまでは来ていない筈だ。方法は絶対にある。俺は、諦めはよくない方なんだ」
「そうだろう。あんたは、そういう奴だ。俺の主は阿呆だからな」
「これでも、世間様では賢いと評判なんだぞ?」
「ああ、知っている。最高に賢いだろうよ。少なくとも俺は、あんたよりも知恵の回る人間を知らない。だがあんたは、おそらくこの天下で一番の阿呆だ」
太助は、口の端をニヤリと持ち上げて、はっきりとそう言い切った。
「阿呆阿呆と……。言ってくれるじゃねぇか」
「言うさ。あんたは阿呆だから、これでも諦めない。そして、その無双の知恵を持って、これを切り抜ける方法を必ず見つけ出す。それを知っているからな」
「…………」
こいつ……。
違った。かつての自分たちを重ねていたんじゃない。いや、正確には重ねてはいるが、今の太助は見捨てられた自分たちと重ねているのではなく、『見捨てられなかった』自分たちと重ねていたんだ。
「それは……そう言うだけの覚悟が出来ている。そういう意味ととるが、間違いないか? 俺の間違いなら、今言ってくれ。取り返しがつかなくなる」
「……武様。一度だけしか言わない。聞いてくれ」
「聞こう」
頷き返すと、太助は自慢の大刀を逆手に持ち、ドカリと地面突き刺して静かに言葉を紡ぎだす。
「我が望みは、故郷の村のよりよい明日。力なき民が、力なきままでも普通に生活できる毎日」
「…………」
「我が主は、それを実現できる。そう信じた」
「…………」
太助は、一際大きく息を吸うと、カッと目を見開き吠えた。
「我が名は仁水太助。水島の鳳雛・神森武の一の槍なり!」
太助が吠えたその時、ちょうど大天幕から他の者たちも出て来た。
吉次、八雲、蒼月、鬼灯……そして、重秀。
吉次、八雲は、仕方がないなあと言わんばかりの苦笑を浮かべ、鬼灯はいつもは弟でも見ているような目から侮りを消している。蒼月は、ほうと興味深げに太助に目を向けていた。
そして重秀は、
「……吠えたな、小童が」
と、大層愉快そうに挑戦的な笑みを浮かべていた。
俺が知る限り、重秀が太助に向けてこの笑みを見せたことはない。たぶん重秀は、今この時初めて太助を一人前と認めたのだと思う。
「重秀さん?」
俺を真っ直ぐに見据えていた太助は、突然声をかけられて驚いたらしく、びくりと体を一つ震わせて振り向いた。
「武様直属の精鋭隊・朱雀隊副長であるこの儂を前にしても、武様の一の槍だと言い切るか?」
「……無論です。俺が……この私こそが、神森武の一の槍です」
振り向いた太助は、微かな躊躇いは見せた。しかしその後に、挑発する重秀にも臆することなく同じ言葉を繰り返した。
重秀は、その答えを聞いて、満足そうに笑う。
「くっく……はっはっはっ。いいだろう。武様」
突然名を呼ばれ、思わずハッとした。俺も、目の前のやり取りに見入ってしまっていた。まだまだ足りないと思っていた太助が、思っていたよりもずっと成長していて、正直驚きを隠せなかったのだ。
重秀は俺の名を呼ぶと、太助の前を素通りし、俺の前に膝を着く。
「どうした?」
「私に、この太助をお預け下さい」
「預けろとは?」
「太助を……。いえ、太助、吉次、八雲の三人を朱雀隊に迎え入れたく思います」
「三人を?」
「はい。まだまだ未熟なれど、それでも武様の精兵隊を率いるために絶対欠かせぬ物を、この者たちは持っておりますが故に」
「三人を、朱雀隊の将として育て上げるつもりか」
「はっ」
重秀は、そう言って顔を伏せ黙った。後の判断は俺に任せる。そういう事だろう。
「太助」
「……はっ」
俺が呼びかけると、太助はその場で膝を着いて頭を垂れた。あの村での出会いから初めての事だ。
「…………」
俺がそんな太助にかける言葉を探している間に、吉次と八雲がこちらに向かって歩いてきた。そして、無言のまま太助の左右に分かれて、同様に膝を着いた。そして、二人とも伏せた顔を少しだけ上げて、横の太助を見る。
「……まったく、武様と戦った時と同じじゃねぇか。いいかげん、成長したらどうだ」
「別に無理に付き合わなくてもいいんだぞ」
「お前はさっき武様を阿呆だと言ったが、お前も負けていない。お前みたいなのを放し飼いに出来るか」
「まっ、そういう事だね。馬鹿が馬鹿をやる事は止められないけど、大馬鹿な事をしでかさないように見張る事はできるからね」
「お前ら言いたい放題だな」
二人に好き勝手な事を言われて、下げていた頭を思わず上げて口をパクパクさせている太助。そんな太助の代わりに俺が突っ込みを入れてやった。
「ま、付き合い長いですからね。それに、茜からも宜しく頼まれていますから」
八雲が苦笑しながら言う。
なるほど……こいつらはこいつらで、もう一蓮托生と腹を括っているという事か。
ならば、だ。
「分かった。重秀」
「はっ」
「頼む。もし、この戦をこいつらが生き残ったならば、朱雀隊で絞ってやって欲しい」
「はっ!」
こいつらがその気なら、俺も腹を括ろう。
「誰かある!」
「はっ」
俺の呼びかけに呼応して、側に控えていた兵が小走りにやってくる。
「俺の陣旗を三枚と、白墨を手桶一杯用意しろ」
「はっ」
俺の指示に兵はすぐにその場を離れていく。重秀や太助ら、その場にいる者たちは俺が何をしようとしているのか問うてきたが、俺はそれには答えずに兵が戻ってくるのをまった。
皆、俺が答えないものだから、どうしたものかと互いに顔を見合わせている。
しばらくして、兵が言われた通りの品を持って戻ってきた。
「旗は三枚そこに並べておいてくれ。桶はそこでいい」
並べられようとしている旗のすぐ脇を指差し、命じる。
俺の指示通りに命じられた物を置くと、兵は俺の労いの言葉を受けて下がっていった。
地面には深紅の旗三枚。頂きに金糸の鳳凰が飛んでいる。俺の黒旗と同じデザインの真っ赤な旗――神森の旗印だ。いきなりで普通の指物サイズでしか用意できなかったのは残念だが、贅沢は言えないだろう。
俺は手桶に入った白墨に、素手を突っ込む。
そして、それぞれの旗に自ら『命』を吹き込んでいった。
一、二、三――――。
深紅の旗に、飾り気もなく乱暴に描かれたただの漢数字。
その『一』の旗を取り上げ、俺は太助の目の前に立った。
「吠えたからには根性見せてもらうぞ。持っていけ、お前の『旗』だ」
呆けた顔をしてた太助は、俺の顔を見上げてくる。
俺は無言のまま、太助がこの手の旗を受け取るのを待った。
「…………はっ!」
しばらくして、俺が何をやっているのかを理解したらしい太助が、両手で俺から旗を受け取った。その手は、らしくなく震えていた。