第二百八十五話 同影の罠 でござる その一
人買いの闇商人を捕まえてその素性を無理矢理吐かせた後、俺はすぐに蒼月を呼び、神楽の忍びらで商団を偽装するように命じた。
彼らはすでに狭間村へと発っている。
急いで仕立てあげた。時間をかける訳にはいかなかったから。到着が予定より遅れれば、それだけで道永に確実に疑われる事になる。今の奴は、昔の奴と違って敏感だろう。
「まだ動きはありません」
「そうか」
狭間村から少し離れた、村を一眸できる山の中腹に俺たちは潜伏していた。
俺たちは、商人に変装した神楽の忍びたちを狭間村へと送ってから、神楽の忍びの一部を残し堤に設営した陣を出た。
作戦が成功した場合に、商団に偽装した神楽の者たちを迅速に迎え入れる為というのが第一の理由。第二の理由は、万が一の事態に備える為にであった。
神楽の忍びたちは優秀だ。しかし、失敗しない保証はない。今のところは、村の様子は静かなものだが、これがいつまで続くかは神のみぞ知る話だ。
分かっている事は、今頃は熱のこもった『商談』でもしているだろうという事ぐらいである。
「それにしても、すごい数の罠ですね。よく、ここまで作ったものだ」
頷く俺から目を切りながら、八雲はたまらないなあと深いため息を吐いた。
「ぱっとみただけでも、どれだけの櫓があるんだ、これ。あっちの崖上に見える岩も不自然に並んでいるよな。あれ、たぶん落としてくるんだろうなあ……」
吉次も、渋い表情で八雲に続く。
「あっちの林にも柵のような物が見える。他にも、隠し矢の罠とか落とし穴とかも山ほどあるらしい。鬼灯さんが言ってた」
太助が、吉次が見ている方とは反対側の村の端を指して言った。
大したおもてなしな事で……。
戦の作法だ、卑怯だ言ってた頃の道永が実に恋しい。
もし未だに言っていてくれていたならば、こんなに楽な仕事もなかっただろうに。無駄に知恵をつけやがって。面倒くさい。
立場を忘れて激しく罵りながら、地面に唾を吐きたくなった。しかし、それはぐっと堪える。
「でも、武様。神楽が人質を無事助ける事に成功したとしても、あそこに強襲をかけるのは骨ですよ。あの分では、こちらも相応の被害を覚悟せざるを得ません。どうなさるおつもりですか?」
「なんの為に、このクソ急がしい最中に土袋担いだと思ってんだ」
「いや……でも、あの場所からここまで二里……いや、もっと離れていますよ? あんなところに作ったもので、一体何をするつもりですか」
「なんか神楽にも指示を出してたよな。何組かに分かれて出ろって」
俺が勿体ぶって余裕の笑みを見せて黙っていると、とりあえず八雲と太助があれこれ言い始めた。
「結構高く土積んで……ん? 武様、物見が走ってこっちにやってくるぞ」
話の輪に加わらずに未だ村の様子を眺めていた吉次が、小走りに側まで近づいてきて言う。
物見?
急いで馬を下りて、自分の目で見る。
少々緩やかながらも崖と呼べるような斜面を、白い服装で偽装した神楽の忍びが上がってくるのが見える。時々雪に足を取られていたが、その速度を緩めようとしない。少し慌てていた。
……いやな予感がするな。
自分で言うのもなんだが、俺の場合、こういう嫌な予感ってのはすこぶるよく当たるのだ。
心の準備をしておこう……。
「はあ?? 敵の数が増えているだあ??」
ごめん。それに動じないのは、流石に無理。
崖を駆け上がってきた物見の報告に、思わず大きな声が出てしまった。そんなつもりはなかったのだが、流石に平常心を保てなかった。
太助や吉次は互いに顔見合わせて、「まずいな……」と呟いている。重秀は、口を真一文字に引き結んだまま、目を鋭く細めた。
「何故、今の今まで分からなかったんだい!?」
鬼灯は、その物見をよく知っているらしく、素の言葉に戻って声を荒げている。
「我々も、まさか周辺の野武士どもが一斉に呼応するなどとは思っていなかったのだ。お前の話では、同影は余所者の筈だろう。誰が、ここらに顔が利くなどと思うんだ。まして、今の我々は常勝の水島家だぞ。野武士どもが危険を冒してまで我々と戦おうとする理由など、普通はないっ」
物見の男も、そんな鬼灯に苛立ちを隠さなかった。立ち上がると、鬼灯に食ってかかる。同郷の者同士だけに、素の感情でぶつかり合っていた。
そんな二人を見ていて、俺の頭は逆に冷静さを取り戻してくれる。
……チィ。安住あたりの横槍が入ったか。
心が落ち着きを取り戻すと、すぐにピンときた。
いくら顔が利いても、今の道永単体では野武士どもの協力を取り付けられる利は提供できない。金崎も、すでに道永の事など忘れているだろう。継直と未だに繋がっている……なんて事も、まずない筈だ。
となれば、他に協力者がいる。
そして道永は、自分が金崎を裏切る見返りとして安住と継直の同盟を『安住』に要求している。
『クサい』なんてもんじゃない。
大国・安住なら……、そりゃあ野武士を動かす餌の一つや二つは簡単に用意してくれただろう。
やられた。
協力を取り付けた野武士たちを合流させずに今の今まで引っ張ったのも、奴の策だ。
「鬼灯、いい。今は、その事は置いておけ。それより、まずいな。道永の奴め、俺たちがすでにすぐ側にいる事を掴んでいるぞ……」
「「「あっ」」」
それまで黙っていた八雲も、太助らと共に声を漏らした。
「……はっ」
鬼灯も俺の言葉に冷静さを取り戻し、半歩後ろに下がった。
流石に鬼灯は気づいていたようだ。多分鬼灯は、里の仲間たちが野武士の呼応に気づくのが遅れただけでなく、敵に気づかれていた事も把握できなかった事に、思わず声を荒げてしまったのだろう。
物見の男も、俺に小さく頭を下げてから同様に下がり、再び膝を着き頭を垂れた。
「村に行った者たちが心配ですな」
重秀が重々しい声で呟いた。
「ああ……。いくら神楽といえどもなあ。女を守りながら逃げてこられるかというと……」
少々苦しいと言わざるを得ない。
人買いに扮して村に向かわせた者たちは、みな神楽だ。それなりの心得のある者たちばかりである。だがこれは、どう見積もっても楽観できる状況ではなかった。
この報告が蒼月からもたらされずに、物見は直接俺の下にやってきた。
その事が、神楽の者らがどれ程泡喰っているのかを教えてくれる。蒼月は、今の正確な状況を掴む為に部下共々走り回っていた。
物見にその事を確認してはあったが、この状況に何もしないまま気付いていない振りを続けるというのも、本当に難儀だ。今慌ててヘタな動きをすれば、道永を無駄に刺激してしまうのでやむを得ないのだが、これならば、いっその事死ぬほど忙しい方がまだマシであるとさえ思えた。
コンコン――。
大天幕の中、周辺の地図を机に広げて見ているが、なかなか集中できない。気づくと、指示棒代わりに握る扇の要で机を叩いている自分に気づく。
今、天幕の中には俺一人だけとはいえ、大将が焦っているのは、やはりよろしくない。そう思って反省するが、しばらくすると再び同じ事をやっている。
先程から、それを繰り返していた。
俺は部屋の縁に行き、水差しを手に取ると茶碗に水を入れる。それを喉に通した。
雪こそ降っていないが、流石に冬山の中だけあって、夜になれば底冷えが激しい。それだけに水差しの水は大層冷たく、焦る心にも冷や水を浴びせてくれる。
踵を返し、再び地図に向き合った。
朱色の印がびっしりと描き込まれていた。何度見ても尋常じゃない数の罠だ。大掛かりなものから、草を編んだ足取りの罠のような細かい物まで、現在分かっている罠はすべて描き込まれている。
まったく……手こずらせやがって。
思わず愚痴が漏れかけた。
地図の上に映る俺の影が、苛立たしげに髪の毛を掻き上げている。
もう間もなく、蒼月からの連絡がある。しかしそれまでの間は、この拷問のような時間を耐えなければならない。