第二百八十話 全方位最前線 でござる
しばらく菊と言葉を交わした後で床をあがり、俺は先に部屋を出た。菊が、寝乱れた姿を俺の目に入れる事を嫌がったせいだ。
もう、今更じゃね?
とか思ったが、菊曰く、「そういうものではありません!」との事だった。どうやら、俺はまだまだらしい。
さて……。
本来ならば、朝一で爺さんに挨拶をしに行きたいところだが、如何せん当人は南方で戦中、佐方を相手に奮戦中であり、それどころではない。
つまり今、藤ヶ崎はもぬけの空だ。誰もいない。
強いて言えば千賀がいるが、今あれに会ってどうしようという話だ。帰ってきたとぬか喜びさせるだけで可哀想だ。今回は予定外の帰還だから、こっそり出た方がいい。
藤ヶ崎に戻ってきた目的である作業を進めていく。
爺さんは、思いの外長くにらみ合いになっている。その為、本格的に北伐を開始する前に爺さんの支援体制を見直し、南方の守りを強化しておく事が、今回藤ヶ崎に戻ってきた目的だ。個人的には菊を送り届けたかったという気持ちもあったが、流石にそれだけが理由で、今この時期に藤ヶ崎まで戻ってきたりはしない。
だから、昨日に引き続き、その作業を行う。
そうして、刻々と出来上がる爺さん宛の書状の山。
水島家老中としての書状の他にも、ごくごく個人的な書状も一枚紛れ込ませた。
『菊を抱いた。彼女が欲しい。殴られる覚悟はしておくが、出来るだけの手加減を所望する。正式な挨拶は、改めて後日させていただきたい』
実際に筆をとってみれば、書いても書いても『お詫び状』になってしまい、今度は菊に申し訳ない事になってしまった。結果、こうなってしまったのだが……よかったのだろうか。大丈夫だと思いたい。
……って、いかんいかん。今は、それどころじゃねぇ。
ふとした拍子に頭の中が仕事から脱線するが、我に返り終わりが見えない仕事へと戻った。
四方の砦に兵の移動命令を出す。それでも足りなかったから、朽木からも兵を戻す。
藤ヶ崎に残している何人かの百人組長らは、本来のお役目である本拠の備え以外の後方支援に追われる事になっていた。爺さんも佐方が急に動き出したものだから、必要最低限の体勢しか整えられていない。
これでは、いかな爺さんでも十分には戦えないのは明白だった。だから、そこを真っ先に調整していった。
藤ヶ崎に爺さんをおいて南方ににらみを利かせていてこそ、北伐が可能になる。今のままでは、その前提から崩れてしまっている。俺たちとしても、このままでは北へと向かえないのだ。だから、これを早急に整え直さなくてはならなかった。
その指示を迅速に出していく。しかし、その作業を終えるのに結局三日ほどかかった。
その間、ほとんど菊にも会えなかった。
菊には、千賀に俺がここにいる事がバレないように頼んだから、いつも以上に千賀につきっきりになっていたというのもあるし、俺は俺で死ぬほど忙しい……というか死んでいる暇もないほど忙しかったせいでもある。
菊から話を聞いたおきよさんと咲ちゃんに、ちょいと冷やかされたりしていなければ、あの夜の事ですら夢だったのではないかと疑った事だろう。
洗いざらい吐かされたんだろうなあ……。その時の菊、可愛かっただろうなあ……。
そんな事を思いながら、とりあえず二人から冷やかしとも祝福ともとれる激励をもらって、あの夜が確かに存在したのだという事を再確認できた。
あまりに忙しすぎて菊に満タンにしてもらった気力が空になりかけていたのだが、いい感じに再びやる気がみなぎってきた。感謝だ。
今やらねばならない仕事は、これで終わりじゃない。一息すらつけるのはまだまだ先なのだ。
俺は、鬼灯と銀杏の二人だけを伴って、再び朽木へ向かうべく馬を駆った。
朽木に着くと、すでに伝七郎も信吾ら三本旗の面々も、そして半次ら神楽の面々も、すべて笹島へと発っていた。
残っていたのは、三森親子が率いる三森衆、そして戻ってきた重秀ら朱雀隊である。俺の指示通りだった。
俺は、町に着いてすぐに敦信を探した。藤ヶ崎で行なった調整で、爺さんならば南の佐方の軍勢は多分押さえてくれると思う。
しかし、いくら多少は支えが利くように後ろを整え直してきたといっても、更に南西から侵攻してくる佐方のもう一隊までは爺さんも捌ききれない筈だ。佐方はそんなに甘い相手じゃない。
かといって、後方で待機させている百人組長らでは荷が重すぎる。だから、その辺りも調整し直さねばならなかった。
だが、俺はツイている。
兵の数はともかく、この役目を託せる才能をすでに手に入れているのだから。
町の政務を司る奉行所の一つに顔を出してみれば、ラッキーなことに一発目で当たりを引いた。
俺が入り口に到着すると、番の者たちが慌てだして、奥から彼らの上役とおぼしき者等が何人か飛び出してきた。そして三森敦信はこちらいるかと聞いた俺を、下に置かぬ扱いで奥に案内しようとした。
ついつい、藤ヶ崎の感覚で来ちまったが、まずかったらしい。
あちらは、少なくとも上級役人たちだから、まだなんとかスムーズに対応してくれるが、こちらだと役職差がありすぎて、無用な緊張感を与えてしまったようだった。
が、あまり悠長な事をやっている暇もないので、我慢してもらう事にする。大丈夫だからと彼らを落ち着かせて、奥へと一人で向かった。
敦信は、町の役人たちに何やら細かな指示を出しているところだった。その側には、久しぶりにみた紅葉の顔もあり、敦信の数歩後ろで静かに控えていた。その紅葉は、廊下の角を回ったばかりの俺にすぐに気づき、頭を下げて待っている。
「よ、ちょっと失礼するよ」
声をかけると、敦信も気づきこちらを向いた。部下らに指示を出すのに集中していたらしい。こちらに早足で近づいてきた。
「これはこれは、武様。お出迎えせずに、申し訳ありません」
「いや、いいよ。俺がいきなり来たんだし。それに、それだけ仕事に打ち込んでくれているのに文句なんかある訳がない」
「恐縮です」
「紅葉も元気なようだね」
「はっ。武様のご配慮にはどう感謝をしてよいのかも分からぬ程です」
そう言って片膝をついたまま、紅葉は顔を上げる。
あ……なんてこった……。
紅葉の奴、めっちゃ可愛くなってやがる。
忍びという仕事柄もあったと思うし、俺が知っている紅葉の顔は基本追いつめられていた時のものだったから、当然そういう時の彼女の顔しか見ていないのは間違いない。
だが、いま目の前にはすこぶる美少女な巨乳ちゃんがいる。くの一故に、そうあからさまではないものの、それでもきっちり恋する乙女の顔をしていて、男ならば目を見張らずにはいられない。
つか、菊もそうだったけど、この手の娘が変わると破壊力すげぇな。
勿体なかったか……なんて思うが、これは間違いなく敦信の側にいられるからこそのもの。他の男には手に入らないものなのだ。っていうか、こんな馬鹿な事を考えているのがバレたら、確実に菊は拗ねるだろう。男の本能とはいえ、気をつけねば。
なんにせよ、紅葉も幸せそうで安心した。あの判断で間違ってはいなかったと確信できる。
「ん、うまくやっているなら、それでいい。そのまま、敦信を助けてやってくれ」
「はい」
そして、少し気恥ずかしそうに、はにかんだ笑みを漏らす。
……やっぱ、勿体なかったか。
「それで、武様。本日はどのような」
「あ? ああ、そうそう。そうだよ。ちょっと大事な話があってさ。それで探してたんだよ」
俺は、碌でもない事を考えていた気配はつゆほども出さずに、迅速に気持ちを切り替え敦信に向き直った。