第二百七十九話 誓夜(せいや) でござる
本来ならば真っ暗である部屋。
行灯の薄明かりが襖の間から漏れていた。部屋の中に人がいる事も分かった。
でも、まさかこんな夜更けに菊が、それも肌着一枚の姿で待っているとは思わなかった。
「菊?」
「…………」
ぴくりと肩を震わせる菊。しかし次の瞬間――――。
さらり。
背中に流れる長い黒髪を零しながら、菊は深々と俺に頭を下げてきた。
「お帰りなさいませ。お待ちしておりました……」
そして、顔を上げる。真剣そのものだった。
そりゃあ、悪巫山戯で出来るような事ではないだろう。しかし、照れた仕草さえない。
言ってみれば今の菊は、世界が世界、時代が時代ならブラとショーツだけで俺の目の前にいるようなものなのだが……『あの』菊が顔を赤くしてさえいない。
キュッと下唇を噛むようにしながら、縋るような目を俺に向けてくる。
確かに俺は、女心の機微に精通している訳ではない。しかしこの状況で、菊が何をしに来たのかが分からない程に鈍くもない。
でも……何故と思わずにはいられなかった。
そりゃあ、菊も俺を愛してくれている……と信じている。抱かれたいと思ってくれているとも。
しかし、今俺がそうすれば、間違いなく爺さんの顔を潰してしまう事くらい、菊も分かっている筈だ。
だからこそ俺たちは、互いの想いをはっきりと認識していたにも関わらず、体の繋がりを持たずに来たのだ。
少なくとも俺はそのつもりだったし、菊もその事に不満を感じているようには見えなかった。
分からない。でも……。
もう一度、まじまじと菊を見つめるが、そんな俺を見つめ返してくる菊の目は、やはり真剣そのものだ。抱かれにきたのだとしか思えない。
混乱している頭を無理やり冷静にする必要があった。すばやく部屋の中に入って、そのまま後ろ手で襖を閉めた。そして、とりあえず一息をつく。
少し離れたところに見回りの巡回ルートがある。部屋の前に突っ立ったままだと、余計に事態がややこしくなってしまう。それは避けたかった。
襖を閉めると、部屋の中は俺と菊の二人だけになる。今日は、護衛もついていない。鬼灯らお庭番衆には別の仕事を頼んであるから、今日は本当に俺と菊しかいない。
さて……。
「そんな所で何を……なんて聞くのは野暮だろうね。でも、どうして?」
俺は菊の側まで進み、腕を伸ばさずとも手が届く位置に腰を下ろした。
菊は、今夜俺に抱かれに来た。それは、まず間違いない。
しかしながら、どうして急にそうしようと思ったのか。それが俺には分からなかった。人一倍生真面目なところがある菊が、道理を曲げてまでこんな事をするのは余程の考えがあっての事の筈なのだが、その考えが分からない。
彼女が何を考えて、こうしようと思ったのか。それがまったく想像できなかった。
目をまっすぐに見つめて問う俺に、菊は静かに語り出す。
「……今、私たちがどういう状況にあるのか。鬼灯より聞きました。貴方が、どれ程の決意をもってその戦いに赴かれようとしているのかも」
説明になっているようでなっていない説明だった。しかしその菊の説明で、俺にはおおよそ理解できた。
菊は不安なのだ。
水島の勝利が、ではなく俺が帰らぬ事が。
たぶん菊は、今のこの状況だろうが、どんな状況だろうが俺が何とかすると信じている。
そして、同時にこうも思っている。
その為ならば、あの人は何をするか分からない。最悪、簡単に命を捨てかねない、と。
これは多分に誤解がある。
俺はそこまで死にたがりじゃない。これは、もう何度も言葉を変えて菊には伝えてきた。
でも、駄目だったらしい。
菊は、俺の言葉と今までの行動を見ていて、その言葉だけは信じられないと結論したのだろう。
不甲斐ない話だった。
最愛の女をこんなに不安がらせていたのだから。
言葉では否定し続けてきたが、結局俺は、不安がっている彼女の心を抱きしめてやれなかったのだ。
菊を責める事なんて出来る訳がない。
彼女は俺の恋人だ。俺を心配する権利がないなどと、どうして言えようか。俺とて、もし菊に何かあれば、心配するなと言われて『はい、そうですか』なんて、とてもじゃないが言えない。全力で心配するに決まっている。
俺の甲斐性が足らなかったのだ。
「そっか。聞いたんだ」
「はい」
「……ちゃんと帰ってくるつもりだよ?」
「信じるべきだとは理解しています」
後ろめたい気持ちを持ったまま言い訳をしてみれば、菊は儚げな笑みを浮かべた。
やはりか……。
「どうしたら信じてくれる?」
俺は菊の頬に手を伸ばす。そっと撫でると、菊は目を閉じた。そして、ぽろりと一滴の涙を零す。
「武士の妻になろうという女が、こんな事ではいけない。それも理解しています。夫が心おきなく戦えるように送り出してこそ、武士の妻だと……」
菊……。
「……母は、父を送り出す時に、いつもこんな思いでいたのですね。幼かった私には、母が父を送り出した後で、なぜあのように辛そうな顔をしているのか分かりませんでした。でも、母は強い女性だったのですね……。少なくとも、私などよりはずっと強かった……」
菊のお母さんか……。
確か菊がまだ小さい頃に亡くなっているんだっけ。爺さんもかなりの愛妻家だったみたいだし、たぶん良い夫婦だったんだろうな……。
そういやウチも、いつも母ちゃんに怒られていたポンコツ親父だけど、ここ一番って時、母ちゃんは必ず親父を立てていたな……。黙って、親父を信じていたっけ……。そして親父も、そんな妻にはきっちり応えていた。
男の強さ、女の強さ……か。
静かに語る菊の言葉に思いを巡らせていたら、
「私の呪いを受け入れて下さい」
突然、菊が呟くように言った。
「呪い? ずいぶんと物騒だな」
「はい……貴方が死ねなくなる呪いです」
「俺は死ねなくなるの?」
「はい」
菊は、頬を濡らしたまま微笑み続ける。
「貴方は、普段いいかげんな振りをしていますが、誰よりも責任感が強い。何より貴方は、私を愛して下さっています。だから……私を抱いた貴方は、私を残して死ねなくなる……」
そういう事か……。
「なるほど……」
俺がそう言うと、菊はとうとう我慢できなくなったのか、体を震わせて顔を伏せてしまった。
ぽたり。ぽたり――――。
真っ白な敷き布の上に、菊の心が広がっていく。
「女の浅知恵と笑って下さい。でも、でも、私はっ。それでも貴方に帰ってきて欲しいのです!」
菊は布団の敷き布を握りしめた。強く、強く。その想いが皺となって、敷き布に刻まれている。
多分菊は、俺への心配が止まらなくなっているのだろう。また、それと同時に、そんな自分を戒めようとして道理と感情を喧嘩させてしまっている。
そして、そんな自分が情けなくて仕方がない……。
真面目な性格が災いしているのだ。
俺を責められれば楽になれるだろうに、全部自分へと向けてしまっている。
生まれてこの方、これ程に強い他人の想いを浴びた事はなかった。
俺は……ホント駄目な奴だな。自分の愛した女を、これ程に不安にさせて。世間では、やれ鳳雛だ賢人だと噂されているようだが、あきらかに愚か者だよ……。
俺も自己嫌悪に陥りそうだった。
だが、なんとか踏みとどまる。馬鹿な自分を殴るのは後でいい。
今大事にしてやるべきは、『こいつ』だ。
少しでもその不安を取り除いてやるのは、男としての責務というものだろう。
心が決まる。
爺さん、すまん。俺、あんたの顔に泥を塗るよ。爺さんの『男』も大事だが、菊の『女』だって大事なんだ。
大いに世話になっている未来の義父の顔を心に浮かべながら、一言詫びる。そして俺は、目の前で肩を震わせている菊をそっと抱き寄せた。
不安よ消えてなくなれと願いながら、彼女の目元に唇を寄せる。俺の唇は、彼女の涙で熱く濡れた。
式とか、家長の許可とか……今はいらない。今必要なものは、俺と菊二人の誓いだけだ。
俺たちだけが分かっていれば、それでいい。
「いいよ。俺たちは、今日夫婦となろう。俺は、神森武は、今日この日、この名に誓う。永倉菊を妻とし、その生涯『を』添い遂げる」
菊の耳元で、そう囁く。そして俺は、彼女を強く強く抱きしめた。
朝、鳥の囀りさえ聞こえない薄闇の中、目が覚めた。行灯の油も切れており、ほとんど視界がきかない。
でも、俺の腕に頭を乗せている菊の顔ははっきりと見える。
菊は、もう目を覚ましていた。目を覚まして、そのまま俺の寝顔をずっと見ていたらしい。
「……ずっと見ていたの?」
「はい」
昨日とは打って変わって、憑きものが落ちたような良い顔で笑った。
その時、布団が隠しきれないむき出しの肩の上を、彼女の髪が流れる。目に入る真っ白な首筋に、赤い跡が残っているのが見えた。
彼女の体に残した『俺』だ。
菊の首筋を見つめていると、何を見ているのかを察した彼女が頬を染めた。そして、首筋を手の平で隠してしまう。
「そんなにじっと見ないで下さい……」
「ごめん」
少々間抜けな会話を交わす事になった。
互いに照れてぎこちない笑みを作る。
それからもしばらくの間、二人で見つめ合っては、意味もなく笑みを交わした。たぶん、傍目からすれば馬鹿丸出しなのだろうが、その時間、俺は最高の幸せを感じる事ができた。
おそらくは、菊もそうだったのではないだろうか。
菊と想いを確認しあって、これまでにも彼女の幸せそうな顔は沢山見せてもらった。でも、今日の菊の顔は、その中でも特別だったと思う。俺は生涯忘れられないだろう。
俺の左腕は、昨晩からずっと菊の枕になっていた。おかげで、もう完全に痺れきっている。が、今はそれも心地いい。俺は、そのまま彼女の体をもう一度抱きしめた。
「ん……」
菊は小さく声を漏らしたが、すぐに体の力を抜いて俺の好きなようにさせてくれた。そんな彼女を抱きしめ続ける。ただただ愛おしくて、少しでも近くに彼女を置きたかった。
なんというか、従兄弟の兄ちゃんから『童貞の卒業なんて割とあっさりしたものだぞ』と聞いていたのだが、強烈すぎるインパクトがあったと言わざるを得ない。まあ、そこまでの流れも流れだったから、そのせいもあるが。
腕の中の温もりが、鼻をくすぐる彼女の香りが、俺の心を今もなお熱くさせた。その一方で、気持ちが浮つくどころか、何故か静かに落ち着いてくる。
不思議な感覚だった。
「ん~。確かにこれは『呪い』なのかもしれないね」
俺が笑いながら呟くと、菊は上目遣いに俺を見上げてくる。
「嫌ですか?」
「全然。むしろドンと来い?」
戯けて言う俺に、菊は上品な笑い声を漏らした。
そんな菊の額に頬を押し当てる。そして俺は、菊の心に一粒の種を植えた。
「愛している」
菊は幸せそうに微笑むと、俺の胸に頬を押し当ててきた。そして、スッと目を瞑る。
「私も、貴方を愛しています」
熱い吐息と共に吐き出された言葉は、その吐息以上に熱い。
「私は待っています。……貴方を待ち続けます」
菊……。
「なあ、菊。それだけは……」
考え直せ。
そう言いたかった。でも俺は、その先の言葉を口に出来ない。
その言葉を言う資格を持つ者は、自惚れではなく俺だけだと思う。だが……俺はその言葉を封じられている。菊が身も心も……文字通りにすべてをかけて、俺を『嵌めた』せいで。
――――死ねなくなるのだから、帰って来られるでしょう。
単なる言葉遊びではある。
だが菊は、すべてをかけてその言葉遊びにすがったのだ。俺が、それを否定する事など出来る訳がない。
「生涯を添い遂げて下さるのですよね?」
「そう約束したな」
「ならば、私の一生において、夫となる殿方は貴方だけで何も問題はありません。違いますか?」
菊は、俺が言いたい事など分かっている。でも、それだけは絶対に聞かぬと、そう言っている。
「違わ……ないな」
「それならば、その先の言葉だけは口にしないで下さい」
「……分かった」
「貴方が帰ってくるまで、私は待っております。ずっと、ずっと……」
やはり、どうあっても考えを変える気はないらしい。腕の中の彼女は、幸せそうに微笑みながら、救いのない言葉を口にし続ける。
そして、俺に聞かせるのだ。俺が死ねないように。俺が帰ってくるように。
死んでも勝つは、もう許されない。勝って、そして何が何でも生きて帰らねばならない。
菊の言う通り、確かにこれは『呪い』だった。