第二百七十八話 菊 でござる
神楽で一泊して、蒼月と対道永戦の為の依頼および、打ち合わせを行った。
とりあえず、次の作戦では神楽に残っている炸砂を使うが、その前に硝石――硝砂を作らなければならない。大量に作る必要はないが、確かにその方法で硝砂が得られると、蒼月に証明してみせる必要があるのだ。
俺は一度朽木に帰って戦支度があるから、実際に材料を集めて作るのは蒼月らになるが、その指示をしておかなくては貴重な時間を無駄にしてしまう。
神楽近郊の山里から便所周りの土を集め、そこから硝酸カリウムを抽出する。もちろん硝酸塩だカリウムだなんて言っても通じる訳がないので、実際にどう作業するのかを指示しなくては意味がない。
その辺りを踏まえて指示書を作成する。ブツを一番早く揃える方法は、これしかない。
継直を殺るまでは、これでいい。本格的に硝石を生産するのはそれからでも十分だ。
当てもあるし。
それなりの量の硝石を生産をする為に必要な物を、俺たちはすでに持っているからな。二水の地に。
肉が食いたい。
牧場を作ったのは、勿論それが一番の理由だ。
しかし、牧場を作る事により手に入るようになるものは、なにも肉や卵だけではない。
畜産をすれば畜糞も出るし、家畜を解体して肉にすれば、内臓や骨も出る。
これらを有効利用しない手はない。経済だけではなく、すべては『輪』なのだ。
現に、畜糞を使って『床』を作る事に成功すれば、そこから安定的に硝石の元である硝酸塩が手に入るようになる。
この方法で硝石を手に入れられる事は、向こうの歴史が保証してくれている。そして、俺はその結果を知っている。
他勢力からすれば非道いチートだろうな。
汚いなんてものじゃない。俺たちが火薬を使う事により、いずれ戦は変わる。この世界も火薬が戦の勝敗を分ける時代へと向かっていくだろう。
そうなると、今からこれを計画していれば、生まれる優位は計り知れないものになる。それは、間違いなく水島家の地位を押し上げてくれるだろう。
これを卑怯と言わずに、何を卑怯と言うのか。
……もっとも、自重する気はこれっぽっちもないが。
ズルい。
その通りだね。でも覇権を争っている以上、綺麗でなどいられる訳がないだろう。そこで躊躇う奴から退場する事になる。
もう俺たちは、汚泥の中に生きて、汚れたまま死ぬしかない生き物なのだ。その覚悟が必要なのである。引く事すら出来ない場所まで、もうやってきているのだから。
だから、俺たちはただ走ればいい。
まして今回は、走りきった先にゴールがある事だけは分かっているのだから。完走するのにどれだけの時間がかかるか分からないだけで。
後はトライアンドエラーをすればいい。ただ、それだけだ。
それ故に、俺は自信を持って蒼月に頑張れと言えた。そして、ゆっくりやれとも。
硝石を生む床が出来上がるまでに数年かかると書かれていた。つまり、いきなりすべてが成功しても、それだけの時間が最低かかるのだ。焦る必要などまったくない。
今回の金崎領攻略はもちろんの事、継直との決着にも間に合わないのは確実なのだから。それだけの時間を使ってしまったら、火薬どうこう以前に国力という地力の差で滅ぼされてしまうだろう。
だから継直あたりまでは、古民家や便所近くの土から硝石を得る『古土法』で得られるいくらかの硝石を、大事に使っていけばいい。佐方や安住らと本格的に張り合う頃までに間に合えば御の字だ。
蒼月……涙を流していたな。
短期的計画と長期的計画――。
話を聞き終わった蒼月は男泣きをしていた。半ば以上諦めていたのだろう。だが二通りもの硝石――硝砂の製造方法を知る事になったのだ。
気持ちは分かる……などと安易に言うのは礼を失するだろうが、ただ理解は出来た。この話は本当にwin-winだった。そう思う。
色々と指示を残す必要があり、その準備に時間がかかって、気がついたらすべての作業が終わったのは夜中過ぎだった。
菊は、俺の仕事が終わった頃にはもう寝ていた……一悶着あったようだが。
自分たちの為に俺が働いてくれているのに、その自分が先に休めるかと言って聞かなかったらしい。俺が戻ってくるまで待つと言って、菊はずっと待ってくれていたようだ。しかし俺がいつまでも戻らないものだから、鬼灯等が必死に説得してくれたのだとか。ファインプレーだ。
それにより、不承不承ながらも菊は先に休んでくれたようだ。
菊を里に連れてきた流れで、頭だけとはいえ蒼月との話合いの席に参加させてしまったのは、俺が軽率だったと言わざるを得ない。そこで、誘っている危険な敵を相手にする為に秘技中の秘技を使うの使わないのとやっていたのだから、そりゃあ菊も尋ねずにはいられなかったろう。どうなっているのかと。菊が知っているのは俺がまだ藤ヶ崎にいた頃の情報で、一変して緊迫した戦況になっている『今』の話はまったく知らなかったのだから。俺たちの邪魔をすまいと口こそ挟んでこなかったが、菊にとって俺と蒼月の話は寝耳に水もいいところだったのだ。
それ故に鬼灯は、あの時部屋を出てすぐに、菊から現在の戦況についての説明を求められる事になった。蒼月との話に同席していた時に聞いた話から、俺たちが良くない状況にある事を知った菊は、その詳細の説明を俺と共に戦場にいる鬼灯に求めたのだ。
鬼灯も、他の人間ならば適当にあしらったに違いない。
しかし主の妻と認めた菊が相手では、それは出来なかったようだ。当たり障りのない話で誤魔化す事もできなかったと謝っていた。だから、例え主の妻と言えども話せないという部分を除いて、ざっくりと現況の説明をする事にしたそうだ。
そしてその結果菊がしようとした事が、俺を待つ事だったらしい。共に戦えないのなら、せめてそのくらいはというのが、菊の言い分だったのだとか。
まったくもって、俺のミスだったというしかない。
ただ少々の言い訳をするならば、流石に昨日の俺には、そこまでの気を使うだけの余裕がなかったのだ。
まあでも、ただの言い訳だ。あいつがこういう娘なのは分かっていたのだから、俺が言っておくべきだった。言っておかなければならなかった。本当に真面目で、いつも真剣な娘だから。
この失敗は今後に生かしたいと思う。
しかし、そんな事を言っていられたのも、ここまでだった。
朝起こしに来てくれた時の菊は、なんか少し固いかなと思った程度だったのだが、神楽から藤ヶ崎へと帰る道中、どこか上の空だった。話しかければ応えてくれるものの、すぐに黙ってしまう。
何かを考えているようでもあり、心を整理しているようでもあり。
それが藤ヶ崎に到着するまでずっと続いたのだ。いや、藤ヶ崎に近づくほど、その度合いは酷くなっていったように思う。
正直、俺はこのとき菊が何を思って……いや心に決めていたのか。まったく分からなかった。
この時の菊が何を考えていたのかを理解できたのは、つい先程の事である。
流石の俺でも、すぐに分かったよ。
藤ヶ崎に戻って以降も時間を惜しんで戦支度を続け、そして自室へと戻ると、綺麗に整えられた床の上に、白の襦袢一枚を着ただけの菊が三つ指をついていたのだから。