第二百七十五話 裂天の術 でござる その一
菊が、とりあえずでも鬼灯を認めた。
たぶん菊は、鬼灯が俺たちを裏切る日が来るまで、もう二度と刃を交わした日のことを口にするつもりはないだろう。
それほどに菊が鬼灯に送った言葉は強く、重かった。まさか、ここまで鬼灯の事を許してくれるとは俺も考えていなかった。
鬼灯も馬鹿じゃない。
あの菊の言葉に込められた思いの重さは、十分に理解できているだろう。現に今も、菊の言葉を噛みしめるように深く頭を垂れている。
そんな二人を眺めていたら、菊はこちらを振り向いた……鬼灯に背中を見せて。
「……という事です。これが、私にできる最大限の譲歩です」
「有り難う。十分だよ。菊の気持ちは、鬼灯にも十分伝わっただろう。もちろん俺にもね」
「ならば、ようございました。それと、この大事に、私どもの為に時間を使わせてしまって申し訳ありません。貴方の方のご用事は大丈夫なのですか?」
菊は静かに頭を下げてくる。その後ろで、鬼灯もようやく面を上げた。銀杏も、こちらに視線を向けてくる。
「ん? ああ、鬼灯」
「はっ」
「蒼月のところに走ってくれるか」
「はっ」
鬼灯は、俺の言葉を受けてすぐに立ち上がると、蒼月の屋敷へと走っていった。その場を去る前に、菊にもう一度小さく頭を下げて。
鬼灯の方でも、菊を認めたらしい。菊が俺の妻になったあかつきには、多分主の妻として、菊にもきちんと仕えてくれるだろう。
そんな鬼灯の、走り去る背中を見ながら俺は菊に説明する。
「如何せん、ここは忍の里だからな。ぱっと見はそうは見えないが、下手に動くといろいろ危ないんだ」
菊は怪訝な顔をしていた。
ふつう連絡に人を走らせるならば、村に着く少し前だからだ。村に入ってから連絡にやるというのは、有り体に言って変なので、それを説明してやったのだ。
「そうなのですか? 私には普通の里のように見えますが……」
菊は俺を見て、可愛らしく小首を傾げた。
思わず笑みが漏れる。
「そうなのですよ。あのガキどもも、普通に走り回っているが、あれでちゃんと危ないところは避けてるんだぜ」
少し離れた場所で、遊びながら『任務』についているさっき集まってきた子供たちを指さして、菊に教えてやる。
「まあ……」
菊は目を丸くした。
「こちらです。武様、菊姫様」
鬼灯に走ってもらった後、銀杏に案内をしてもらいながら、俺たちはゆっくりと蒼月の屋敷へと向かった。
「足下が滑りますので、お気をつけて」
竹林の中にある長の屋敷は、すっかり雪化粧が施されていた。植木と菱格子の竹の柵も真っ白だ。
門の前はいくらか雪がどけられており、そのせいか、ところどころ溶けた雪が凍っている。確かに、簡単につるりといきそうだ。
俺は、菊に手を差し伸べる。
とはいえ、正直武人でもある菊に必要だとは思えない。転けるとしたら、俺の方だろう。
でも俺は、彼女の手を取った。菊も、素直に俺の手を握ってくる。少し嬉しそうだ。
やはり、要、不要じゃないらしい。
もっとも、菊が喜んでくれるなら、俺にとってもそれ以上の理由はいらないが。
「気をつけて……って、まあ、ここはまだいいんだけどね」
「ここは?」
菊は俺の手を握ったまま、またもやコテリと小首を傾げる。
ほんと、性格はまったく違うというのに、ちょっとした仕草が千賀とかぶる。まず間違いなく、千賀に似ているのではなく、千賀が似たのだろうが。
俺は、そんな事を思いながら説明を続ける。
忍者の里ってのは、マジで危ないからな。命を取りに来る仕掛けが山ほどある。そんなもので、もし菊が怪我でもしたら後悔してもしきれない。転ばぬ先の杖って奴だ。
「特に、この屋敷の中は危ないんだ。まあ、菊が一人でここに来る事はないだろうけどね。でも、万が一って事もあるから、覚えといて。もし来ることがあったら絶対に一人で動かずに、必ず里の者に案内させる事」
菊はきょとんとした顔で俺を見つめた。そして、その後で笑い出した。
「くすくす。はい、分かりました」
分かったと言ってくれたものの、菊は本当に可笑しそうに笑っている。
忍者の里……とりわけこの場所は、ホントに危ないから大真面目に話したつもりなのだが……なぜだ。
今度は、俺の方が訳が分からなくなる。
そんな俺を見て、菊は喜びと呆れがない交ぜになったような複雑な表情で、更に苦笑し続けた。
「な、なんだよ」
「くすくす。ごめんなさい。だって、気が早いのですもの。武殿、貴方が心配して下さっているのは、どんな私ですか? 貴方の恋人ですか? それとも……貴方の妻ですか?」
へ?
あ……ああ、なるほど。こりゃ、確かに可笑しいわ。
菊に指摘されて気づく。
菊を妻に迎えなければならないからと色々考えていたせいで、俺はすっかり菊を妻として見ていた。祝言どころか、まだ爺さんの許可ももらっていないというのにだ。
菊が言う通り、気が早いにも程がある。ちょっぴり恥ずかしかった。
頭を掻いて誤魔化してみる……が、駄目だった。
俺の心中など、完全に見透かされているらしい。
菊は、とても楽しそうに、幸せそうに、微笑むだけだった。
「長。武様と菊姫様をご案内いたしました」
鬼灯は、囲炉裏のある部屋まで案内してくれた鬼灯が、閉じられた障子の向こうに声をかける。
「ご苦労。お通ししてくれ」
「はっ」
蒼月の返事を受けて、鬼灯と銀杏が部屋の障子を大きく開く。そして、自身らはその脇に控えて片膝を着いた。
すると、ほぼそれと同時に、奥から腰をあげて蒼月が出迎えに出てきてくれた。
「ようこそおいで下さりました。外は寒うございましたでしょう。ささ、奥へどうぞ。火に当たって下され」
蒼月に促され、俺たちは囲炉裏を囲う。
蒼月は、今まで座っていた上座を俺に譲った。そして自分は、俺から見て左側に座る。女三人はその対面――俺から見て右側だ。
「いきなりで悪かったね」
「なんの。我らは、貴方様に下ったのです。そのような気遣いは無用です」
「すまんね。どうしても直接聞きたいことがあってさ」
「私に、でございますか?」
蒼月は勝手にやってきた事は、
「ああ。鬼灯や半次から、ちらっとだけは聞いたんだけど、細かい事は分からないようだったからね。これは直接聞くしかないと思ってさ」
「はあ……」
蒼月は、訳が分からないといった顔をしていた。そりゃあそうだ。俺はまだ、聞きたいと言っているだけで、何を聞きたいのかを言っていないのだから。
「『裂天の術』……」
もってまわった言い方をせず、単刀直入に尋ねる。
鬼灯は、神楽の長だけに伝えられるこの術の存在を俺に教えてくれた。それだけに、驚いている様子はない。菊は、こういう所で出しゃばるタイプじゃないから、いつも通りに静観の姿勢を貫いている。
しかし銀杏は、口こそ挟んでこなかったが、ずいぶんと好奇心をくすぐられたようだ。話を聞く姿勢が若干前のめりになっていた。術と言っているので、忍術の話だろうとは分かっているのだろうが、年の若すぎる銀杏は、まだこの術の存在を耳にした事がないに違いない。
「……鬼灯より聞いたのですか?」
蒼月は一度目をつぶると、片目だけを開けて尋ねてくる。
「ああ。代々神楽の長だけが詳細を知る里の秘技だと聞いている。鬼灯から聞いた後で半次にも話を聞いたけど、肝心な部分が今一分からなかったんだ。それでね」
俺は正直に答えた。
「なるほど……」
蒼月は頷くが、俺が『裂天の術』という単語を出して以降、その顔から笑みを消していた。
大げさでもなんでもなく、本当に里の秘技だったようだ。その態度から確信した。
蒼月は、俺から鬼灯へと視線を移す。鬼灯は、その長の視線を真っ正面から受け止め、深く頭を下げた。
「長、お力添えを。長もご存じの通り、八島道永こと同影は、狭間村にて武様を待ちかまえております。そして武様は、これを無視する事をよしとしておりません。取られた人質を救出しつつ彼の者を討とうとお考えです。しかし……」
そんな鬼灯の様子を見て、蒼月は小さく一つ頷いた。
「確実に罠がある。そこに飛び込めば、ただでは済まぬ……か」
「はい。正面からまっとうに戦っても、この戦は我々の勝ちでしょう。しかしそれでは、こちらも相応に損耗してしまいます。そしてそれは、これからの計画に必ずや悪い影響を及ぼすでしょう。道永は、それも計算に入れているに違いありません。ここでは、兵も時間も失えないのです。ですから、長。力をお貸しください」
「それで、裂天の術を思い出したか……どうやらお前は、よい主を見つけられたようだのう」
鬼灯の釈明を聞いていた蒼月は、話が見えてきたとばかりに、ようやく笑った。
確かに、里の秘技の話をいきなりされたら、蒼月も警戒せざるをえないだろう。秘技とは、その言葉通りに秘密の技なのだから。
「…………」
少し冷やかされたような格好になった鬼灯は、珍しく顔を赤くした。
今度は俺が助け船を出す番だな。
「ん。まあ、それはそれとしてだ。鬼灯は元々詳しくは知らなかったようだし、半次の方もまだ自分は長ではないから知らない部分も多いし、知っていても自分の判断で話せる事も限られてくるとの事だった。だから、蒼月に直接会いにきたんだよ。二人の話から、ある程度は想像がついたんだがな。だが、使ってもらえるのかと、また今回の状況で本当に使えるのかの判断は、俺には分からなかった」
俺は、そう説明しながら、襟元に入れていた紙の束を蒼月に渡す。そして、それを読むように蒼月を促した。
「これは……」
「二人の話から俺が想像した裂天の術に関して書いてある。里の長だけに伝えられる神楽の秘技という話だったからな。二人だけで話すようにしたとしても、壁に耳あり障子に目あり、肝の部分を声に出したら悪いと思ってね。書いて持ってきたんだ」
今は菊、鬼灯、銀杏までいるし、準備をしてきて良かったと思う。
蚊帳の外に置かれた女三人は、ただ黙して話を聞いているだけだが、さすがに里の秘技の詳細に関する話まで聞かせる訳にはいかない。それは、蒼月に悪すぎる。
そして、文字にしてきて正解だったと、目の前の蒼月は言っていた。俺の書いたものに目を通していった蒼月は、動揺を隠しきれずに大きく目を見開くと、その体をかすかに震わせていた。