第二百七十四話 菊と鬼灯 でござる その三
俺は、自らの尊厳を保つ事に成功した。
菊に抱きついてみせた俺を見て、ガキどもは沸き立った。
口々に「すげー、すげーよ兄ちゃん、本当だったのかっ」「えーっ。お姉ちゃん、お兄ちゃんに何かよわみでもにぎられてるの?」「にいちゃ、かえでもだっこ」と、俺を尊敬のまなざしで見つめた。
うん。尊敬のまなざしで見つめた。
なんか、ちょっとあれな言葉とかも聞こえたような気がしたが、気のせいだ。きっと、そうに違いない。
とりあえず、かえでちゃんを抱っこしてやる。
「きゃああ」
にぱあと笑うこの娘は天使のようだ。笑顔がどこか千賀に似ている。しかし、油断してはいけない。この幼女は、時に俺の思考を越えて致命の一撃を放ってくる。
「武殿っ、きちんと聞いていますかっ」
うん。やっぱ駄目か。
逃げられんかった。
抱っこに満足したかえでちゃんを下ろしてやったところで、待ちかまえていた菊からのお説教は続く。現実逃避しつつ、あわよくばそのまま誤魔化してしまおうと画策してみたのだが、菊はそれを許してくれない。
ずいぶんと収まってきているが、先ほどまで彼女は頬を真っ赤にしていた。ガキどもだけでなく、護衛で共をしてくれていた兵たちからも喝采が飛んだのが致命的だった。
おかげで俺がこんな目にあっている。
見れば、護衛の兵たちは、今もニヨニヨと生温かいとしか表現しようのない笑みをこちらに向けてきている。ガキどもよりも質が悪かった。
お前ら、後で覚えとけよ。
そんな事を考えながら睨んでみるが、さっきから親指を立てて良い笑顔が返ってくるだけだ。
だから、なんでお前等がサムズアップを知ってんだよ。
突っ込みたい。激しく突っ込みたい。しかし、
「武殿っ!」
「は、はいっ」
お冠な菊は、俺が他事をするのを許してくれんとです。
「きちんと、私の目を見て下さい」
「はい……」
「だから、抱きしめてくださるのは、その……私も嬉しいのですよ? しかし、やはり武殿には立場というものが――って、武殿っ!」
うきゃ。
「なんで、すぐに余所見をするのですかっ! まじめに話を聞いて下さい!」
「は、はいっ」
菊が怒るとです。バリ怖かとです……。
いや、まあねえ。言いたい事は分かるんだよ? でも、そこまで気にせんでもいいじゃないかと、俺あたりは思ってしまう訳で。
菊とイチャイチャしているところを誰に見られようと、恥入る所など一つもないわ。
……菊が言いたい事は、そういう事ではないんだろうけど。
なんにせよ、俺は声を大にして言いたい。
たかだか体裁の為に、この幸せを控える気になどなれようか、と。
今まで、大好きになった女の子とイチャイチャするのを、どれほど夢見てきたとお思いか。非モテを舐めちゃいかんよ。どれほどの妄想を重ねてきたと思ってんだ。
この幸せを手放すくらいなら、迷う事なく毎回菊に説教される方を選ぶわ。
沸き起こる本能の雄叫びに決意を新たにしつつ、まだ続いている菊のお説教を聞き流し続ける。もっと水島家の重臣としての威厳をうんぬんと菊は説いているが、こればかりは聞くつもりがない。
だって、そんな犬の餌にもならんもんより、菊とイチャイチャしたいじゃないか。
つか、朽木の町で出迎えた時にも往来のど真ん中で抱きしめ合ったのだし、今更だろう……菊の中では、あれは特別で、いつもしては駄目ですって事らしいが。
だいたいだ。
『いつもしては駄目です』って、どういう事だってばよ。いつもって、なんだ。いつもって。いつもじゃなければよしって事かい。
どう考えても、言うこと聞いて淡泊になりすぎたら、今度は拗ねる気満々だろ。女って難しい。
まあ、いいや。
とりあえずガキどもを納得させ撤退させる事には成功したので、俺、大勝利である。照れ隠しという名のお説教にくらい、喜んでつき合ってやろうぞ。
それからしばらくの間は、神妙な顔をして菊のお説教を拝聴していた。すると、ようやく菊の気も収まってきたらしい。
というか、聞き流しているのがバレたようだ。諦めたとみえる。どうあっても、俺に聞く気がないと悟ったらしい。熱弁を振るうのをやめた菊は、完全にあきれ顔だった。
今日の俺すごい。またもや大勝利である。鳴くのなら、止むまで待とうホトトギスってなもんだ。わはは。
まあ鬼灯が、
「はいはい、もうおしまい。あんたらもまだお役目中だろ。仕事に戻りな」
と、こちらもあきれ顔をしながらガキどもを追い払ってくれたおかげなんですけどね。それによって菊の燃料が絶たれた。しかし、我が勝利を高らかに謳う為には、ここは気にしちゃいけないところだろう。
何はともかく、やいのやいのと冷やかすチビどもがいなくなったおかげで、菊もようやく落ち着いてきた。
ふだん冷静な菊の、ちょっと変わった一面も見られて、俺的には大満足なイベントだった。
たまには、こういうのもいい。ガキどもには、あとでこっそり飴ちゃんでもやるとしよう。
やっと周りが静かになり、冬の山里らしい静けさが返ってきた。
しかし、である。ようやく事態が落ちついたとはいえ、菊はあきれ顔のままだった。
「まったく……」
「そんなにあきれるなよ」
「もう、いいです。確かに、貴方が私に見せたかったものも見せていただきました。そして、貴方が『世に名高き』鳳雛だという事も、よ~く理解する事ができましたっ」
少し恨みがましく、菊が膨れている。そんな彼女のほっぺたも、その態度同様に可愛らしく膨らんでいた。さすがは千賀のお姉ちゃんだ。
こんな表情をすれば、いかに菊でも美しさより可愛らしさの方が際だつ。ごちそうさまです。
「そんなに怒るなよ」
私こと神森武。反省など一ミリもしておりませんが。
「別に怒ってなどおりませんっ。ただ、ずるいと思っているだけですっ」
菊も、そんな俺の腹の中などすっかり見通しているようで、口を尖らせたまま文句の言い通しだ。
でも、俺は最高に幸せな気分だった。
信じていた通りに、何も説明しなくても理解してくれた菊。
嬉しかった。それは、彼女が本当に心の温かい女である証しだったから。
「俺は、菊がそう思ってくれる事が何よりも嬉しいんだけどな」
「知りません」
菊は不満顔だ。
鬼灯たちが何を守りたくて、その為にどんな思いで戦っていたのか。
菊には、それが分かってしまう。
たった一人の幼い女の子の為に、彼女自身が何をしたのか。何をしてきたのか。……どんな思いで、その女の子を抱きしめ続けたのか。
菊は、生涯忘れないだろう。
まして、ついこの間の事だ。もっと言えば、今もなお続いている話である。
彼女が忘れている訳がない。忘れられる訳がない。
だから、菊は俺をずるいと言っている。
あの子供らを見せられたら、菊は鬼灯を憎むに憎めなくなってしまうから。
憎みたくとも、菊には鬼灯がどんな思いで戦っていたのかを容易に理解できてしまうから。
菊は俺を見ながらもう一度深いため息を吐く。そして、キッと目元を引き締め直して鬼灯に向き直った。
それを見た鬼灯は、ただ黙ってその場に片膝を着いた。それを見た銀杏も、すぐに鬼灯に習って片膝を着き頭を垂れる。
俺は黙ったまま見守る事に決める。どう見ても、俺の出る幕じゃなかった。
「……鬼灯」
「はい」
「私は、武殿にまんまと嵌められました。もちろん、それでも今尚思うところもあります」
「はい……」
「ただ、もう憎みきれない……」
「…………」
女二人の間に、深く重い沈黙が降りる。
銀杏は、少し落ち着かないようだった。端から見ていると、片膝を着いているその体が少し強ばっているのが見て取れる。
しかし、そんな可哀相な少女横で、女二人の話は続いた。
「ですが」
「……はい」
「もし貴女が武殿を裏切るような事があれば……、その時は、理由がどうあれ貴女を許さない。貴女の想いを汲んで受け入れた武殿の優しさをも踏みにじるというならば……」
「…………」
菊……。
「貴女を殺します……私のこの手で」
なっ!?
その言葉は静かに放たれた。恐ろしく研ぎ澄まされた剣気と共に。
気だけで人が殺せそうだった。それほどに、鋭く尖った『意志』だった。
鬼灯の横で、銀杏がびくりと体を震わせている。無理もない。あれは、ちょっと尋常じゃなかった。
そういや、菊は長刀の名手だったっけ……。
最近の甘々な関係に、すっかり忘れていた。
だが、肌を貫かんばかりの殺意に驚きながらも、俺は喜びを覚えずにはいられなかった。
昔の俺ならば、言葉の重さと強さに怯んだかもしれないが、この世界に溶け込みつつある今ならば、菊の言葉の意味が、想いが理解できる。
これは、いわゆる『仇討ち』のようなものだ。その宣言だ。
つまり、それ程に菊は俺を想ってくれているという事に他ならない。鬼灯へと向けられた言葉も、殺意も、すべては俺への愛情の深さ故なのだ。女経験の浅い俺でも、ここまではっきりと示されれば、流石に理解できる。
正直、ここまで愛されているとは考えてなかった。いろんな意味で、驚かずにはいられない言葉だった。
だが俺や銀杏と異なり、その菊の意志を直接叩きつけられた鬼灯は、まったく動揺していなかった。
「承知いたしました」
静かに、しかしはっきりとした声で菊に応える。そしてゆっくりと顔を上げ、菊を見つめた。
鬼灯すげー……。あれに、まったく動じないのか……って、ん? いや……違う……な。
顔を上げた鬼灯は、覚悟と決意をその顔に浮かべていた。
そういう事か……。
俺は、彼女たちどちらの事も軽々に考えていた訳ではない。だが、それでもまだ、彼女らが胸に抱いているものを理解できていなかったと教えられた。
菊と鬼灯が黙って見つめ合うその姿は、まるで二人だけの儀式のようだった。
この場に二人しかいないような、そんな錯覚さえ覚える。
当事者の一人といえる俺でさえも、その場にいる事を許されないような、そんな神聖さだった。
枯れ木に雪が積もっている。
村の入り口では、掻かれた雪が道脇に山積みにされている。
そして、その近くで女二人が話し込んでいる。
ただそれだけの光景……。
しかし俺には、目の前にある光景に対して、荘厳という感想しか浮かばなかった。