第二百七十二話 菊と鬼灯 でござる その一
「貴女は……」
襖の向こうにいた鬼灯に、菊は驚いて目を見開く。俺の手が自分の両頬に添えられたままである事も忘れ、目を見開いていた。
いつもの彼女ならば、他人の目があるのに俺にくっついたままなんて事はない。基本、離れる。見送りの時や、今日の夕方みたいなのは、言ってみればスペシャルイベントみたいなもんだ。俺が抱きしめたがるからつき合ってくれているだけで、彼女の性格的には、人前でいちゃいちゃというのは得意ではない。
というか、そもそも普段の彼女ならば、今の今まで鬼灯に気づかないなんて事はなかっただろう。少なくとも鬼灯は、俺に分かるように気配を消さなかったのだから。
俺は、本当に幸せもんだ。
要するに、それだけ俺を本気で心配してくれていたという事なのだから。
だが今は、その事に感じ入っている場合ではない。状況は動いていた。
「……お久しゅうございます、菊姫様。神楽の鬼灯……以前葉月と名乗った、茶屋の女にございます……それ以前にもお会いしておりますが」
へ?
初耳だった。
たぶん馬鹿面を晒していると思うが、仕方ない。これを驚かずにいられる程、俺は無感動な人間ではない。
しかし菊は、じっと鬼灯の顔を見つめると、やはり……といった顔をした。
「……あの日、茶屋に武殿とご一緒した日、館に帰ってきてからずっと、どこかで見た顔だと思っていました。でも、分からなかった。今の今まで、繋がりませんでしたよ。見事なものです。以前、藤ヶ崎の館でも働いていましたね?」
なんですと?
「はい。武様に正体を見破られましたが」
「そう……武殿に……」
はいぃぃ??
落ち着け、俺。まずは落ち着け。
あー、もう今日はこればっかだな。菊もこちらを睨むな。俺は、それは知らん。
置き去りにされている感がハンパない。だが、まずは状況把握だ。
かといって、軽々しく割り込めるような空気じゃない。成り行きを見守ろう。今慌てて二人の間に割り込んでも、グダグダになる気しかしない。
二人の間の空気は、余人にもはっきりと分かるほどに張りつめている。まるで真剣を抜いて向き合っているかのようだ。怒声が飛び交うでもなく静かなものだが、どう取り繕っても穏やかとは言い難い。
さしあたっては、菊の出方を窺うしかないだろう。
どのみち鬼灯等を俺が受け入れるには、どこかの段階で菊を説得せねばならなかったしな。強引にやってやれない事はないが、菊は俺の妻になる人だ。相応な扱いというものがある。
……まあ、簡単にはいかないだろうけど。
だが菊の様子を見る限り、変な誤解をされる事『だけ』は避けられたようだ。
「……まったく。それはそれとして、鬼灯……と言いましたね」
「はい」
「ずいぶんと潔いですね。館の事は、貴女が言わなければ、ずっと気づかなかったかもしれませんよ?」
その言葉とは裏腹に、菊の目は氷点下だ。三森・笹島を攻略した時に苦しめられた雪山の大気よりも冷たい。
不味いな。変な誤解をされなかったのはラッキーだったが、このままじゃあ不味い。何かないか。
「隠し通せるとは思えませんでしたから。それに、もし今それをはぐらかして菊姫様が先に気がつけば、貴女様は、私が武様のお側にいる事を決してお許しにはならないでしょう」
鬼灯は、菊の発する冷気に負けずに、彼女を見つめ返してそう言う。こちらも、また強い。
「…………」
菊は何も答えない。しかし、その目は鬼灯の言葉を肯定していた。
しばらくして、
「……武殿が、なぜ貴女を側に置けるのか。理解に苦しみます。いつ寝首を掻かれるか分かったものではない」
と、菊は呟く。
高速で脳味噌を動かす。
話を聞いている限り、菊が問題視しているのは、『俺の側』に鬼灯等がいる事で一貫している。千賀の件ではない。もちろん、千賀の命を狙った件が強烈に嫌悪感を引き起こしているとは思うが、言っている事は俺の側に『信頼のおけない者』を置くのは危険……という事に尽きる。
『千賀を襲った鬼灯が側にいる事』ではない。
ん~、って事はだ。
手は……あるな。
活路が見える。
「それは、武様が私たちを受け入れてくれたからです。私たちは――――」
鬼灯は菊の言葉に激する事なく、菊にきちんと説明しようとしていた。しかし、俺はそれを遮る。
「ああ、うん。鬼灯、ちょっと待って」
「……はっ」
鬼灯は一瞬何故という顔をしたが、すぐに従ってくれた。発言権を譲ってくれた。
俺はそんな鬼灯一つ頷き、菊をまっすぐに見た。
「うん。菊が俺を心配してくれている事は、よく分かった。俺は、てっきり千賀の件が引っかかるだろうなと思っていたよ」
「当然、それもあります! ですが今は――――」
「うん、分かってる。さっきからの菊の言葉を聞いていて、菊が言いたい事は、俺にはよく分かったよ」
「ならば!」
「ああ、うん。でも、少し待って欲しいんだ」
鬼灯は黙ったままだった。俺を信じ、黙ったまま俺と菊の会話を聞いている。
そして菊だが、俺と話している間ですら鬼灯から目を離さなかった。まっすぐに鬼灯を見据えたままだ。本当に警戒しているらしい。
ん~、よし。
「鬼灯」
「はい」
「さっき頼んだ件は?」
俺は、話をぶち切ってまったく違う話を振った。先ほど油を足しに来てくれた時に頼んだ遣いの件を持ち出して、鬼灯に尋ねる。
「え、えぇ? あ、申し訳ございません。こちらになります」
不意をつかれたらしく、鬼灯は素っ頓狂な声を上げた。しかしすぐに平静になり、先ほど預けた地図を一枚懐から取り出して、俺に返してくる。
俺は、受け取った地図を広げながら目の端で菊の様子を窺った。
うまくいったかな?
突然まったく違う話をし始めた俺に、菊はようやく鬼灯から目を離して、こちらを見ていた。
ん、よし。じゃあ、とりあえず……。
鬼灯より受け取った地図に目を落とす。その地図には、朱墨で道が付け足され、小さい字でびっしりとメモ書きが書かれていた。
やっぱり、聞いて正解だった。以前の話だけで全部とは思えなかったからな。
道永が占拠している狭間村は、そこそこ高い山の山裾にある。
北東と南西に山があり、その谷にあたる部分で集落を形成しているのだ。そして、北西と南東はそれぞれ街道へと繋がる道が通っている。
そこは元々は河だった。
狭間村は、南西の山を越えて更に三つほど山向こうに作られた『堤』によって、人が住めるようになった土地である。かつては、藤ヶ崎の東にある砦の近くや田島の南を流れる『荒川』の支流が流れていて、僅かばかりの水上の土地も、そのほとんどが湿地だった。
そんな土地にできた村だけに、村の両脇を険しい山によって守られており、出入り口は北西と南東の支道しかない。
つまり、軍単位での行動を考えるならば、『守るに難く攻めるに易い』土地と言える。今回は、人質もとられているからなおの事だ。道永の奴も、流石に考えてきていた。
だから、道永の件をずっと調査してくれていた半次に、狭間村周辺の地図に描かれていない細かい道について、朱入れをしてもらったのだ。
「……うん。やっぱ、思った通りだったな。よし、あとは蒼月との相談だ。菊っ」
再び、突然に菊に話を振る。
「は、はいっ」
いきなり名を呼ばれて、菊はびくりと肩を震わせていた。
はは、ごめん。
「明日一緒に神楽へ向かうぞ。ちょっと神楽の長に用事が出来た。それについてきて欲しいんだ」
「は、はあ……。いきなり何なんですか、もう……」
菊は、少し動揺していた。さっきから振り回しているせいで、少し困惑気味の様子だ。
「はは、ごめん。でも、一緒に来て欲しいんだ。菊に見てもらいたいものが、神楽にはあってね」
「私に見てもらいたいもの?」
「うん、そう。菊に見てもらいたいもの」
菊は、もう何がなんだか分からないといった感じだった。
そして、それは鬼灯も同じだった。何の事だろうとばかりに、ぽかんとした顔をしている。
俺は、そんな二人にニッコリと笑って見せた。