第二百七十一話 菊の想い でござる
部屋を薄暗く照らす油皿の明かり――――
ゆらりゆらりと揺れる炎に照らされている菊の笑顔は相変わらず綺麗だが、今この時だけは、どこか詰問する女監吏を思わせる。
……やっべ。俺ってば、ちょっとピンチかも?
まだまだ空気は冬のそれだというのに、額に汗が浮かんだ。
うなれ俺の脳みそ。こういう時こそ、主の役に立ってみせろ!
現実逃避ぎみなのは、自分でも理解している。しかし、突然予想外のつっこみが来て、言い訳をまったく用意していなかった俺は、もうどうしようもなかった。
「あ~、それはその~、だな……」
今、必死で菊を納得させる理由を探す。
軍略的に合理的な説明をするのは簡単だ。だけど、菊が聞きたいのは、そういうものではないだろう。菊とのつき合いももう一年以上だ。そのぐらいは分かる。
どう考えても、今の菊は『感情』でものを言っている。そして、菊自身もそれは承知しているだろう。なにせ出来た女だから。
要するに、水島家の神森武ではなく、ただの神森武としての言葉をよこせ……と、そういう事なんだと思う。
『私と貴方との間の言葉』で、納得のいく回答をよこしなさい、と。
くっ、ままよ。
俺は腹を括った。
「あー、それはその、だな」
「はい」
あ、やっぱり嘘。
菊の真顔がおっかないです。
美人さんは、こういう時に妙な迫力があるから困る。とは言え、ここで押される訳にはいかない。『菊が』不安になる。
男として、それだけは避けてやらねばなるまい。
一つ大きく息を吸って、吐く。
よし、始めるか。
「うん、それはね。間者の専門家が欲しかったから、まるっと水島に取り込む事にしたんだよ。ちなみに、例の茶屋にいた者たちが神楽ではなく、あれは神楽の一部隊だ。そして、茶屋にいた彼女らだけど、俺の……つまり神森家のお庭番に抜擢した」
一番隠したかった部分は、もちろん鬼灯の事。
しかし、菊を嫁にもらう以上、どうやっても隠し通せる訳がない。直球勝負をして、この場で説得しきるしかない。だから、もういきなりそのまま切り込んでみた。
どうだ?
菊の目をまっすぐに見つめる。
その俺の視線から、菊も目を逸らさなかった。俺たちの間に、ここのところ毛ほども存在しなかった緊張した空気が満ちていった。
「あの茶屋のって、あのくの一らの事ですか? ……姫様の首を狙った」
菊の目がすうっと細まった。
ひいぃ。
男らしく、かっこよく決めようと思ったけど……けど……ごめんなさい。
もう泣きたい。甘々な雰囲気のまま、菊の手料理で空腹を満たせる筈だったのに、なんてこった……。
でも、泣き言言っても始まらんしなあ……。
「あ、あー、まあそうなんだけどね……」
とはいえ、どう言っていいか良い案が浮かばない。
そして菊は、そんな煮え切らない俺の態度に、一度目をつぶるとカッと見開いた。
「武殿っ!」
「は、はいっ」
そんなに大声だった訳でもないのに、俺の背筋はぴんと延びる。美人の大喝は迫力があるとです。
「いったい、何を考えておいでなのですかっ! 藤ヶ崎から田島に呼び寄せておられたので、某かの形で取り込むことにしたのではと思っておりましたが……よりもによって、お庭番なんて……正気の人間がする事とは思えませんっ」
おおう。いつになく激しく怒ってはる……。
菊は、千賀を背に鬼灯と直接刃を交えているしなあ……。
一応、言い訳を試みるか。
「いや、茶屋の者らは俺のうちのお庭番だよ?」
……この様子では、実は千賀のお庭番も神楽をつけるつもりだなんて、とても言えやしない。時期尚早なんてレベルじゃない。どう考えても、言った途端にこの話が一時間延びる可能性大だ。
「……それなら良いと、私が言うとお思いですか! 見損なわないで下さいっ。なぜ、貴方自身の事も、もう少し気にして下さらないんですかっ! これでは、どれだけ心配してもしたりないではございませんかっ!」
菊は、更に目をつり上げた。今日の菊は真剣だった……いつも真剣だけどさ。でも、いつもの比じゃない。
「そもそも貴方だって、もう水島の重臣なんですよっ。もし、その身に何かあったならば、どうなさるおつもりですかっ!」
「いや、どうなさるもこうなさるも……」
「控えめに言っても、今貴方に何かあれば、水島の家はただでは済みません。それに、話はそれ以前の問題です。もし貴方に何かあれば、姫様がどれ程に悲しまれるとお思いですかっ。私だって……」
いつにない剣幕でまくし立ててくる。気が高ぶりすぎているのか、最後は涙声になっていた。
流石に、これには参った。まさか泣かれるとは思わなかった。
菊が思っているほど自分を粗末にしているつもりはない。が、菊には俺の行動がそう見えているらしい。
つか、たぶん、これは今回だけの事で言ってるのではないのだろうな。以前、源太にももっと名前を大事にしろと言われたし。
まだまだ自覚が足らなかったのかもしれない。
反省しよう。
だが、神楽に関する見立て、およびどう遇するかに関する結論は間違っていない。自信がある。神楽の仕事ぶりから言っても、あの時出した結論で間違っていない筈だ。
うん、そうだな……。よし。
心配して怒ってくれている菊に、俺はニコリと笑う。
そして、五十センチくらい離れて座っている菊にそっと寄る。彼女の頬に手の平を当てる。
菊は、黙ったまままっすぐに俺を見ていた。
頬を撫でながら彼女の目の端に親指を走らせると、指先が濡れた。
……ホント、いい女だなあ。
心の底から、そう思った。
「俺は大丈夫だから。お前たちを置いてくたばる気は、まったくないよ。だから、泣かないで。俺は、自分を粗末になんかしていない。ちゃんと、信じるに足ると見たからこそ、彼らを、彼女らを受け入れたんだ。そして神楽の者たちは、俺のそんな信頼にきちんと応えてくれている。だから、菊が心配しているような事は起こらない」
彼女の頬を右手で撫で続ける。安心していいんだよと、言葉でなく、この手から彼女に伝わるように。
「……それでも心配です。現に、あの者らは惟春を裏切りました」
菊は、上目遣いで呟いた。
「そうだね。でも、それに関しては誤解がある」
「誤解?」
菊が尋ねてくる。
が、その時、部屋の外に人の気配を感じた。よく知った気配だった。だから、ひとまず置いておく事にする。
今は、菊に集中するべきだ。
「うん、そう。彼らが惟春を裏切ったんじゃない。惟春が、彼らを裏切ったんだ。そして俺たちは、彼らを裏切るつもりはないよ?」
だから、彼らも俺たちを裏切らない。
そう、言外に伝える。
ここまでの彼らを見ていて、これには絶対に近い自信がある。
自分が信じていれば他人は絶対裏切らない……なんて事はある訳ない。そんな因果関係が成立するのは、夢の中の世界だけだ。
しかし神楽と三森……特に敦信あたりは、こちらが扱いを間違えない限り、決して俺たちを裏切らない。彼らは持っている信条や行動原理は異なるが、どちらも人間の芯の部分が実直すぎるという点では一緒だから。
神楽なんかは、忍びらしからぬとしか言いようがない。俺などより、よほど真っ直ぐだ。
だから俺たちは、彼らに関しては警戒ではなく、ただ信頼して大事にしてやるだけでいい。彼らは、それに応えてくれる。そういうタイプだ。
ただ、感情の話をしている菊に、これを説明しても納得はしないだろう。
出来ないのではなく、しない。
菊は菊で、俺を心から心配してくれているだけなのだから。
でも。だからこそ、そんな彼女には、こう言えばいい。
「菊は彼らを知らないから、こう言っても信じられないかもしれない。でも、俺を……俺の目を信じてはくれないか? 自信があるんだ」
これだけでいい。他に余計な言葉はいらない。
「貴方は、そればかりです……」
菊は少し口を尖らせながら、そう言った。
「ごめん。でも、菊は信じてくれるのだろう?」
「ひどい人……」
「一応、自覚はあるよ」
菊の唇に自分の唇を重ねる。彼女は、静かに目を閉じてくれた。
一拍、二拍。
名残惜しいが、唇を離した。
菊は閉じていた目を開き、俺の目をまっすぐに見つめてくる。
「……本当に大丈夫なのですね?」
「うん、大丈夫」
言い切る。そして、
「だろ? 入ってきていいぞ」
俺は、菊の背にある部屋の入り口に向かって声をかけた。そこには彼女がいる筈だから。
「はっ」
俺が声をかけると、すぐに返事があった。そして、襖が開かれる。
「……失礼します」
思った通りの人物……鬼灯がそこにいた。
5/13 内容は変えていませんが、後になって読み返したら読みにくかったので、文章を整えました。すみません。