第二百六十九話 英雄たちの決断 でござる
「……なるほどね。爺さんが菊を寄越す訳だ。次郎右衛門殿らは爺さんとともに最前線だろうしな。かといって、こんな内容じゃあ、万が一があって話が漏れたら、内側から軍が……いや、国が崩壊しかねん」
じっくりと読んだ爺さんからの書状を再び外紙に包み、伝七郎へと返す。
「はい。父も、それを憂慮しておりました。そこで、私に行ってくれ、と」
「うん。それで正解だよ。……しかし、なあ」
「……こちらもよくない状況なのですか?」
しまった。
「あー…………」
こんな時に俺を裏切る俺の口。咄嗟の嘘をつけずに、口を噤んでしまった。自分の未熟さが嫌になる。
菊は、そんな俺を見て察してしまったようだ。ここに来て、初めて不安そうな表情を見せた。
たぶん、俺たち……いや俺を信じてくれていたのだろう。戦にも勝ち続けているし、よもやこんな事態になっているなどとは、露ほどにも考えていなかったに違いない。
「……本当は順調も順調だったのですよ。私たちは想像していたよりも遙かに円滑に計画を進めていました。……ただ、一人の人間の憎悪が水島を祟ったのです」
言葉に詰まってしまった俺の代わりに、伝七郎が菊に答えてくれた。出来た相棒だ。
それにしても祟り……ね。上手く言ったもんだな。確かにこれは、もう祟りだ。道永の生き霊が俺たちにもたらした祟りだ。
だが……。
「……ふん。上等だ。奴に二度目の幸運は訪れない。今度こそ片を付けてやる!」
生きながらに祟るような奴なんざ、今度こそきっちり地獄の入り口まで送り届けてやる。俺たちは……俺は、道永なんぞに蹴躓く訳にはいかんのだっ。
歯を食いしばり、知らず知らずに俯きかけていた顔を起こす。そして、不安そうに俺の顔をのぞき込んでいる菊の目を、まっすぐに見つめた。
「菊、そんな顔をするな。どんなに追い込まれようと、俺は必ずなんとかする。だからお前は……他の誰が信じなくても、お前だけは、こんな事を言う俺を信じていろ」
この言葉は俺の誓いだ。それを現実のものとする為に、口にする。こいつと……そして、こいつの為に。
仕舞った手紙を掴んで取り出し、中身を広げた。
『はようかえってきてたもう
ちか』
力強い元気な字で、紙いっぱいにそう書かれていた。
はは。
もう何度も見ている千賀の字だ。机を並べて字の練習をしていた時のままの……俺にドヤ顔をしていた時の千賀の字だ。
そして、『必ず自分を守ってくれる。自分の元へと帰ってきてくれる』――と、そう信じている。そんな信頼が伝わってくるような内容だ。
俺は……こんな所で負けられない。何がどうなろうと、絶対に負ける訳にはいかないんだ。
弱気になりかけていた心が滾ってくる。それが、弱気になりかけていた自分に蹴りくらわせた。
知らず知らず曲がりかけていた背中に、芯が入る。
俺は、再び菊へと視線を移す。そして、まっすぐにその目を見つめた。すると、
「……はい」
菊は、他に何も言わなかった。
吠えた俺に一瞬驚いたようだ。目を見開いていた。でも一拍の後、菊は黙ってにっこりと笑った。笑顔を俺に向けてくれた。
「……武殿の言う通りです。私たちは、何が何でも勝たなくてはならないんです」
伝七郎も、俺が菊と話をしている間に自分宛の千賀の手紙を開いて読んでいた。そして、そっと閉じて、宝物をしまうように、大事に懐へと戻している。
たぶん内容は同じだろう。なんてったって、アレの直筆なのだから。まだ、そんなに沢山の言葉を操れるとは思えない。
だが、俺と伝七郎に、絶対に勝たなくてはならない理由を思い出させるには十分なものだった。
「なあ、伝七郎……俺を信じられるか?」
真顔で伝七郎に問う。
伝七郎は、そんな俺の顔を見て笑みを浮かべる。
「……何を今更。私たちは、もうすでに一蓮托生ですよ」
「分かった。ならば伝七郎は、予定通りに今までの計画に沿った準備をして、笹島へと向かってくれ」
「予定通りでいいのですね?」
伝七郎は、突然の俺の言葉にもなぜと問わなかった。そんな伝七郎に最低限の説明だけをする。
「ああ。重秀を呼び戻すから代わりがいるが、他に出す余裕もないからな。北征の本隊を押し出さないといけないところまでは変わらない。ただし、実際の動きは変わる。なんとか惟春の首をあげられるように計画を組み直してみるが、従来の計画ほどの余裕は絶対に持たせられない筈だ。身を切らせて骨を絶つ策になると思う。でも……その是非をお前と検討している暇は、今回はない。さっきも言った通り、早急に笹島へと行ってもらわないといけないからな。だから……」
だが伝七郎は、更に言葉を続けようとする俺を片手を上げて止めた。そして、静かに首を横に振る。
言いたい事は分かっていますと言わんばかりに。
そして、
「私は、予定通りに準備をして笹島へと向かいます」
と言う。
……ホント、こいつも大したタマだよ。
「……有り難う。道永を討ち取った後で連絡する。お前に連れて行ってもらった部隊を分けたり、一部を戻したりする事になると思う」
「分かりました」
伝七郎は、これにも二つ返事をしてくる。
「すまん」
「ふふ。国境の事は任せておいて下さい。……はやく来ないと、戦功を独り占めしてしまいますよ?」
伝七郎はクスリと笑うと、俺にそんな冗談を言った。その顔は、見事な若武者の顔だった。
俺も変わったと思うが、こいつも変わった。たまに、歳に見合わぬ風格を感じる事がある。やっぱり、こいつは本物だった……。
こんな奴だからこそ、俺も負けていられない。
だから、笑う。
「くっくっ、それはヤだな。なにせ、二水の件といい、俺も今は入り用でね。この戦では、稼がなくちゃいけないんだ。悪いが、お前に全部やる訳にはいかんよ」
「それは残念です。では、待っていますので早く来て下さいね」
「了解した」
俺と伝七郎は互いに右手を持ち上げると、パンと打ち合わせた。
そんな俺たちの横で菊がぽつりと呟く。
「……私は幸せな女ですね。英雄たちが生まれる所を、こんなに間近で見る事が出来るのですから」
彼女の方を向くと、何かを耐えるような目をしながら俺と伝七郎を見ていた。
爺さんさえなんとかすれば、あとはすり抜けて奥を狙える――――佐方の狙いは、そんな所だろう。
大国の余裕って奴だろうか。
今回のこれは、とりあえずやってみる程度の様子見に違いない。そうでなければ、もっと分化させた部隊を国境に押し進めてきている筈だ。国境に送られている軍の数が『二つ』というところに、それが表われている。佐方の思惑が見て取れる。
ただ、これをどうにかできないと、本格的に不味くなる事はまず間違いない。だからこそ爺さんは、自分たちだけで無理をせずに、俺たちに相談してきたのだから。
書状にあった佐方の部隊は南が千で、田島方面が千……こちらが守備側である事を考えると、爺さんならば無理をすれば相手できない事はない数だ。
ただし、そこでこちらに万が一あると、佐方は本腰を入れてくる。そうなると国の存亡に関わる事態へと一気に発展する。
だから、出向いてきている軍の規模は佐方にしては小規模なものだが、今回のこれは軽く考える訳にはいかない。戦の意味合い的には、ただの小競り合いなんかとは訳が違うのだ。それを真っ先に見抜いた爺さんは、やはり流石だ。
しかし……なあ。
いま一方面増えるというのは、本当に堪える。
ただ単純に千名の兵をとられるだけではない。それを指揮する将もいるし、その軍を支える為の兵站も整えないといけない。北征に持っている力を全振りをしていた俺たちには、これが非常に痛い。
今から変更をする労力は甚大だし、何より金崎領を征する速度が落ちる。単純計算で田島の与平とその部隊がまるっと使えなくなるようなものだ。まあ、与平の白虎隊と弓隊は北征に必要だから、実際に与平を田島に置きっぱなしにする訳にはいかないが。
って事は、代わり部隊を用意しないといけない。やってくる佐方の軍を追い払えるだけの実力を持った部隊を。
従来の計画のままに、田島の守備を爺さんに丸投げする訳にはいかない。いくら爺さんがスーパーな将でも、同時に二ヶ所の現場指揮はとれない。体は一つしかないのだから。
さあて、どうするか……。
三人での会談を終えた後、俺の頭の中はこの事だけで一杯になった。