第二百六十七話 己の器の小ささを知った だが、反省はしていない でござる
抱きしめる前よりも更に小さくなってしまった菊を連れて、俺たちが滞在している館へと向かう。
道中菊は輿に乗り、俺はその横を歩く。
何故か、俺の護衛たち、および菊を護衛してきてくれた者たちからは、先ほどから生温かい視線を向けられている。
気にしたら負けだ。
どうせ、うちの連中らには後で盛大に冷やかされるのだから、今更だ。そのくらいはもう覚悟できている。その程度の事で、菊との時間を無駄遣いする気にはならない。
おかげで、久しぶりの菊との会話を堪能できていた。実に満足だ。
――お怪我はありませんか。体調を崩してはいませんか。
開口一番で尋ねられたが。
……まるで千賀を見るような視線で、頭の先から足の先までチェックされたが。
これは、さすがに恥ずかしかった。でも、これが菊だ。
側についてくれるようになって、すぐに分かった事がある。
菊はとにかく情が深い。外見から受ける印象だと、大抵の人間は彼女にクールなイメージを持つと思うが、実際は違うのだ。
彼女は、近しい者の事は間違いなく全力で心配する。ただ、その気持ちを押しつけようとしないだけで。
そんな彼女だから、安心させてやりたかった。
でも、心配するなと言ったところで、彼女は心配せずにはいられないだろう。
だから、
「……ってな具合にさ。あいつら怒りやがってさ。ちょっと驚かせてやっただけだというのに」
と、二水の件で太助等にちょっとしたサプライズを用意してやった時の事をおもしろおかしく話してやる。
すると菊は、「まあ」と目を丸くして、上品に笑い出した。
「くすくす。そんな事をすれば、ふつう怒ります。太助殿らを、そんな風に困らせてはいけませんよ。貴方の大事な家臣ではありませんか」
そして、俺を諫めてくるのだ。
いかにも彼女らしい。
これでいい。どんな顔をしていても菊は綺麗だが、やはり不安顔なんかよりも笑顔の方がずっと綺麗だ。
しかし、あれだな。こうして改めて見ると、千賀のひまわりの笑顔もいいけど、菊の上品な笑みも本当にいい。どれだけ見ていても飽きそうにない。こんな娘を彼女に……否、嫁にもらえるとはな。先は分からんもんだ。世界を跳んだ俺が言うのも今更だが、ホント考えられなかった未来だ。
……って、それを言ったら、こうして国を動かすような立場にいる事の方があれか。
もう、俺の日々の中に『普通』なんて、わずかばかりも残っちゃいない。かつてあちらの高校生だった頃から考えると、非日常という言葉すらも超越した日々を送っている。
「どうしたのです、武殿。いきなり苦笑いなど浮かべて」
菊がきょとんとした表情で尋ねてきた。
こんな顔も魅力的だ。
「いや、なんでもないよ」
俺はそう言って、誤魔化す。菊は更に小首を傾げ、
「変な武殿」
と笑った。出会ったばかりの頃から比べると、本当にいろいろな表情を見せてくれるようになった。
「そうかな。あはは」
俺は笑ってうやむやにした。
特に菊には、あちらの世界の話をあまりしたくはない。
世界を跳んだ俺だ。俺自身の意図に関係なく、もう一度それが起こりうるのか……それが分からないから。
また別の世界に跳ぶのは論外として、仮に運良く元の世界に戻れても、親不孝をせずにすむという一点を除いては、あとは最悪としか言いようがない。その時には菊を置き去りにする事になるだろうし、俺自身も、もう元の世界に馴染める自信はない。この世界で生き残る為に、考え方が酷く血生臭くなっている自覚はある。
そんな俺の頭の中を菊が知るよしもなく、仕方がない人ねと言わんばかりに静かに微笑んだ。
その時、身に刺さる視線に気づいた。
なるべく自然体のまま、それとなく視線だけを周りに巡らす。すると、すぐにその正体に気づいた。
一瞬間者かなんかの視線かと思ったのだが、そうではなかった。
門から館に行く為には、当然町中を通らなければならない。つまり、今歩いている場所は町中の大通りだ。道の両脇には、庶人らが道をあけて面を伏せている。
そして今の菊は、俺と話をする為に輿の御簾をあげていた。
菊の顔を見てしまった若い男たちが、一人残らずチラチラ、チラチラと何度も盗み見しようとしていたのだ。そして、そんな彼女と仲睦まじく話す俺も一緒に見られていたのである。
おう……なんてこった。
ちょっと真面目に考え事をしていたら、これだ。お前ら、俺に真面目は似合わんと申すか。
「無礼者っ!」と切りかかる気はないが、少しは遠慮しろ!
っつーか、もっとはっきり言うと、これは俺のだからっ! 見るな! もし減ったらどうしてくれるっ!
率直に、そう思わずにはいられなかった。
自分でもちょっと格好悪いとは思うが、女に恵まれた人生を送ってきていない男など、きっと誰でもこんなものだ。そうに違いない。だから、俺は悪くない。
ただ、菊も菊だ。
まず、自分の容姿の特別さに、今一つ自覚が足りない。
俺が気づいているのだから、幼い頃から武芸を嗜んできた菊が男たちの視線に気づいていない訳がないのだ。それにも関わらず、本人まったく気にせずに、幸せそうに微笑んでいる。
御簾をおろしてくれれば、いくらかはマシになると思うのだが、そうする気はまったくないらしい。
菊を恋人にしたからには、これに慣れろってか……。
菊から目を離して、彼女を盗み見る男たちを控えめに威嚇しながらそんな事を考えていると、
「……仕方のない事なのかもしれませんが、やはり目を集めてしまっているのですね。母上、私は頑張ります」
と呟く声が横から聞こえてくる。
振り向けば彼女も、道脇の庶人たちの方を見ていた。どうやら若い娘さんたちも、こちらを盗み見ていたようだ。彼女はそちらを見ている。
だが、呟いたその言葉の意味はよく分からなかった。
いや、お前が頑張ってどーするよ。つーか、お前にこれ以上頑張られたら、俺の胃袋さんが大変だからな? やめて差し上げろ。
そう思わずにはいられなかった。
菊へと向けられる若い男たちの視線にウガーとなりながら町中を歩く事しばし、すぐに館へと到着した。
俺は彼女を連れて館の奥へと向かう。
無論、彼女がここまでやってきた理由――爺さんの使者としての仕事を全うさせる為だ。
話の内容が大っぴらにできないものになる事は分かっているので、先日半次と伝七郎とで話した部屋へと菊を案内し、そこに伝七郎を呼びつける。
公務で永倉平八郎の娘を迎えるならば、相応の場所を用意しそこで対面というのが本来なのだろうが、そのあたりは省略だ。俺たちも、そして菊もそんな事を気にするタイプじゃないし、何より時間の無駄だ。
部屋へと到着し、控えている者に白湯の用意を頼む。
そして、再び他愛のない雑談をしながら伝七郎がやってくるのを待った。