第二百六十六話 菊の来訪 でござる
その後、すぐに笹島の重秀の元に使いをやった。伝七郎の到着と同時に朱雀隊を連れて戻れるように準備しておいてくれと伝える為だ。
さて、道永の野郎どうしてくれようか……。
隙あらば増殖する仕事を片づけて、やっとの一息をつくと、頭の中をそんな言葉がよぎる。
館内はバタバタと駆け回る者が多くいて、少々落ち着かなくはある。伝七郎らが笹島へ向かう準備をしているので、その配下の者たちが忙しそうにしているのだ。
だが俺は、重秀と朱雀隊の到着待ちなので、準備といってもたかがしれていた。少なくとも伝七郎らと比べれば暇をしていた。おかげで、こうして一服できているのである。
ドタドタドタ――
まあ、あくまでも『めっちゃ忙しい』と『とても忙しい』の比較でしかないが。
「武様、探しましたよっ」
自室で休もうと部屋へと戻る途中で、ちょっと立ち止まって庭を眺めていたら、これだ。マジで、そろそろ死ぬかもしれない。菊、助けて……。
つか、俺が希望していたのは異世界スローライフだった筈なんだが、どうしてこうなった?
振り向くと、廊下の曲がり角のところに吉次がいた。
俺の姿を見つけて廊下を走るのをやめた吉次が、早足でこちらに近づいてくる。
「武様、あのですね……って、なに泣いてるんです?」
「泣いてない。泣いてないよ? で、何なんだよ。もういいよ。俺は二十四時間戦う狂戦士なんだよ!」
今日、戦死かもしれんがなっ!
「にじゅうよじかん? よく分かりませんが、今日もいい感じに荒れているのはよく分かりました」
荒ぶる俺の魂の叫びを、吉次の奴はさらっと受け流しやがった。
最近は、本当に忙しかったからなあ。毎日のようにブチ切れていたのがマズかったらしい。新鮮味に欠けると、そういう事のようだ。
「……お前ら、ホント逞しくなったよね」
「俺も、武様のおかげですんごく忙しいので助かります」
吉次の奴はそう言いながら、じっとりとした視線を刺してくる。
おおう……ホントに逞しくなったよね……。
これ以上駄々をこねると、さらに立場が悪くなりそうだった。さらばだ。俺の休憩時間。
「で、どうしたんだ?」
「先触れの使者が着きました。菊様がいらっしゃるそうです」
……は?
「なんで?」
そう尋ねずにはいられない。
そりゃそうだ。千賀の侍女である菊が、こんな戦場になんの用事があろうというのか。あの出会った時のようなのっぴきならない事情など、今はないだろうに。
「なんでと俺に聞かれても困りますが……。先ほど佐々木様より武様に伝えるように言われて探していただけですから」
いや、まあ、そりゃあそうだろうが……。
ここは最前線と言えどもバックアップ施設のようなものだ。朽木を陥落したその瞬間から、そうなった。
しかし、藤ヶ崎ほどに安全とは言い難い。
菊に武芸の心得があろうと、護衛の兵がついていようと、重臣の姫である彼女が軽々にやってきていい場所ではない事には間違いない。
「伝七郎の奴は、他に何か言ってなかったか?」
「到着は今日の夕刻前だろうとの事です。細かい理由の説明はありませんでしたが、わざわざ菊様が使者にたったという事は、そういう事なのでは?」
どうやら、本当に菊が来るとしか聞いていないらしい。俺が尋ねるのを待って、吉次は己の見解を口にした。
重臣の姫である彼女がわざわざ使者になるような話……。
ありがちなのは、相手の格に合わせてというケースだが、今回はこれに該当しないだろう。となると、次の可能性としては重要な話や極めて機密性の高い話という事になる。それならば、場合によっては菊が駆り出される事もありえる。
出し手は、当然爺さんだろう。となると、次郎右衛門殿や高俊らあたりでなく菊という人選に至ったという事は、彼らの手が埋まっていたって事になる。
「やっぱ、そう思うか……イヤな予感がするなあ」
爺さんが意図したところを察して、俺も言葉を濁して口にした。不穏な空気を感じ取って、吉次ですら廊下の真ん中で具体的な言葉を避けたというのに、俺が間抜けな事をする訳にはいかない。
早駆けの伝令兵を使わなかったという事は、その内容は家中でも知る者を限定させたいという事……。たぶん、佐方がらみだ。
その日の夕刻――――
「武殿っ!」
俺は菊の一行を出迎えるべく、町の入り口で待っていた。
久しぶりに菊と会えるとなれば、なんのかんので気もそぞろになり仕事どころではない。それじゃあいかんのは分かっているんだが。
「久しぶり。元気そうだね」
菊は到着するなり輿から出てきて、俺の元へと小走りに駆け寄ってくる。少し恥ずかしそうにしながらも、その顔にははにかんだような笑みが浮かんでいた。
いや、菊お前……ただでさえ綺麗な顔をしているのに、それは反則だろう……。
部下の前でデレッとならないようにするのに、死ぬほど苦労させられた。
しかしまあ、こうして久しぶりに会うと、よくこんな美少女を恋人にできたものだと我が事ながら感心してしまう。元の世界にいた頃の俺では考えられない事だ。
それほどに綺麗な俺の恋人は、俺がこんな事を考えているなどとはまったく思っていないのだろう。
ただただ嬉しそうに、そして恥ずかしそうに、上目遣いでちらちらと俺の顔を見ながら微笑みを送ってくる。
もうね、可愛すぎ。どうでもいいや。
俺は威厳を保つ事をあきらめた。
だって、もう無理。人間、我慢には限界があるんだよ。
俺は、目の前で気持ち肩を寄せるようにしてもじもじとしている菊をそっと抱きしめる。
「た、武殿!?」
菊は、はじめこそ多くの兵たちの前でTPOをわきまえない行為に出た俺に驚いたようだったが、すぐにその体に籠もった力を抜いてくれた。
俺に身を任せてくれた……耳を真っ赤にしながら。
あかん。ますます可愛えーわ。
なんというか、このままだと俺のブレーキが効かなくなりそうだった。下半身に来る興奮ではなく、満足感というか、高揚感というか……そういう沸き起こる何かが理性を爆ぜさせようとしている。
すると、彼女のうなじから彼女がいつも使っている香の香りが流れてきた。
その香りは、俺の中にさらなる衝動を呼び起こしつつ、一方で安心感のようなものを与えてくれた。
ここ一年ずっと一緒にいてくれて、そしてずっと俺を助けてくれた香りだったからかもしれない。
「ああ、やっぱり菊だね。すごく心が落ち着く……」
彼女を抱きしめる俺の口から、そんな言葉が無意識に漏れた。やはり、俺も疲れていたのかもしれない。
すると菊は、耳をさらに赤くしながらも黙って俺の好きなようさせてくれた。
五拍か十拍か……少しの間、菊の柔らかさと温かさを堪能してから彼女を解放する。
「……武殿、恥ずかしいです」
黙って好きにさせてくれた彼女だが、彼女の性格からして、往来のど真ん中で抱きしめられるのは、やはり相当にアレだったようだ。
菊ごめん。でも、お前が可愛すぎるのが悪いんだ。