幕 信吾(一) もう一つの戦場 その二
「野郎ども。待たせたな。存分にやれっ!」
「「「おおおぉぉぉぉっっ!!」」」
溜めに溜めた戦意を解き放つように兵たちが咆哮した。草玉に油をかけて、火をつける。そして、そのまま谷底に向かって蹴り落としていく。
「な、なんだ、なんだ?」
「ひ、火ぃ?」
「おいっ、どけっっ! 邪魔だっ!」
いくつもの剥き出しの岩肌が見られる斜面を転がる草玉は、途中で全体に炎がまわり谷底に着く頃には完全な炎の玉となっていた。それにより谷底の道に炎の間仕切りが作られる。そして、敵の先頭と最後尾辺りの兵が一部その火球に巻き込まれ悲鳴を上げた。
愕然とその様を見上げる者、仲間を蹴り飛ばし、殴り飛ばしても難を逃れようとする者など様々いるが、敵全体に共通しているのはすでに恐慌に陥っている点だ。
敵足軽隊のほとんどは無傷である。
しかし、突然の太鼓の音。そして、それに続く突然の出来事。完全に混乱しきっていた。
それでも生き物としての生存本能のなせる業か。奴らは炎に挟まれた前後を避けるように檻の中央に集まってくる。狭い道が更に狭くなって身動きが取れなくなってきているが、それに気が付いている様子は全くない。
……見事なものだ。完全に敵の動きを読み切っている。本当に奴らが武殿の掌の上で踊っているかのようだ。そして、これは紛う事なき好機っ。
「よしっ。次に行くぞ。石を落せっ」
「「「おお~っす」」」
兵たちは塚を作っている石を一つずつ抱え、次々と身動きとれぬ敵兵目掛けて投げ落としていった。
「今度はなんだよっ!」
「た、助けてくれっ。死にたくないぃっ」
「じょ、冗談じゃねぶぐっ……」
狭い道で押し合いへし合いしている奴らにとって、崖の上から振り降ろすように小岩と呼んで差支えない程の石を投げ落されるなど、まさに悪夢であったろう。満足に避ける事もままならずに死んでいく。
それでも、なんとか身が動く兵たちは道の脇へと身を隠そうとする。谷底の道の両脇には藪があり、身を隠せる低木がいくらかあるからだ。
でも、それも武殿の想定通りだ。
「更に行くぞっ。油を撒けっ。松明を落すんだっ!」
「「「っしゃぁああ」」」
谷底より届く怒号と悲鳴の大きさに負けぬように張り上げる俺の指示に従い、兵たちは即座に三手に分かれた。
一隊は油の入った壺を抱えて、柄杓で広く散らすように撒いていく。もう一隊は用意してあった小さな火種を大きくし、それを使って火をつけた松明を次々と道脇の藪へと投げ入れていった。そして、残った一つは淡々と投石を続けた。
谷を吹き上がる風に煽られて、油の撒かれた藪は瞬く間に炎の海と化す。そこに隠れる人間ごと。そして、それを逃れても、新たにそこにできた炎の壁により、谷底にいる者は一人の例外もなく炎の檻に閉じ込められる事になった。
そして、その檻の中央部。数少ない炎のない場所には上から石が投げ落とされ続けている。そこは、まさに決して死から逃れる事の出来ない処刑場のような場所となった。
「嫌だ、嫌だっ。死にたくないっ」
「助けてくれぇっ」
「もう嫌だっ! なぜ俺たちがぁ……」
谷底から心折れた敵兵の慟哭が聞こえ始める。
お前らに罪はないかもしれんが、ついた先が悪かったな。だがしかし、おまえらとて殺しに来たのだから、殺されても文句は言えまい。残念ではあるが、此度の投降は許されん。死んでくれ。
「投石手を休めるなよ。壺持ちはもっと広範囲に撒けっ。炎の檻を作るんだ。松明ももっと広くっ。広く広く、広くだっ! 炎の壁にむらを作るなっ」
しかし、それにしても、だ。兵の指揮ってのはこんなに大変なのか? 伝七郎様、今までよく一人でやっておられたものだ……。
俺が判断する限り、策とやらはうまくいっていると思う。
武殿、すごいな……。それ以外に言葉が見つからん。
これ程兵力差があるのに、これ程圧倒的に戦を運ぶなど尋常ではない。俺たちは確かにこれを武殿に期待した。でも、これ程までに巧みに、そして、あっさりと期待に応えてしまうとは。目の前の現実を見ているのに、まだどこかお伽噺を聞いているかのようだ。
その時、谷から風が強く吹き上げた。その風に乗って火の粉が投石している兵たちにも降り注いだ。
「あ、あちっ。あちゃっ」
そこかしこで、兵たちが火の粉を被る。
少々油を撒きすぎたのか、それとも、与平の奴が気合いを入れて燃料を運び込み過ぎたのか。命のやり取りをしている戦場の事。それを思えば大した事はないのだが、少々激しぎるのも確かだった。
ふむ。少し火勢が収まるのを待つか。今のうちに減った石を補給しておくのも悪くない。
「よし。投石している奴らは下がって休め。他の奴らは、後ろの石置き場から石を運んで積み直してくれ」
そう新たに指示を出し直す。
その指示を受け、兵たちは後方に下がっていった。
そして、それを見届けると、俺自身が下の奴らの動きを見張る為に崖の縁近くに立とうとしたのだが、まさにその瞬間それが起こった。
一瞬何が起こったのかわからなかった。
足の裏から激しく伝わってくる振動。鼓膜を突き破らんばかりに轟く破裂音。そして続く、何かが崩れようとする音。
咄嗟に本能に任せて後ろに跳んだ。頭から地面に突っ込み、ぶつけて転がった。
額の打撲とすり傷をいくらかこさえたが、それを気にしてる場合じゃなかった。すばやく起き上がり、後ろを振り向く。
すると、さっきまで自分がいた場所に目の前で亀裂が入り、陥没し、滑り落ちるように視界から消えた。
眼は丸く開きっぱなしになり、喉はかすれ声すら出すのを拒絶した。
どれ程その状態で固まっていたのだろうか。ただ己が九死に一生を得たのだけは理解できた。
それが理解できた瞬間、ぞくっと背中を何かが走る。
そして、心臓が高鳴り、止め処なく冷や汗が湧き出してきた。
正直、これは洩らさなかっただけでも、自分を褒めてやりたいぞ。
「す、すごいな。いや、すごいという言葉を超越している……」
後ろにいる兵たちもあまりの出来事に理解が追いついていない様だ。
ぽかんと口を開けてその現場を見ている者、唇を戦慄かせて目を大きく見開いたまま固まっている者、それぞれがそれぞれの表情を見せている。ただ、共通しているのは、どいつこいつもが『なんだよ、これは?』と無言の声を発していた。
しかし、当然と言えば当然だ。
先程まで俺がいた場所は、ごっそりと崩れて谷底に落ちている。
幸いにも深く崩れているのではなく、谷に沿って横に広く崩れている為、俺は助かっただけだ。もし、これが逆だったら、今頃俺は生きていなかっただろう。運が良くても、大怪我を負って意識不明といった所か。
そして、その崩れた崖がどこに行ったか?
当然谷底に落ちた。
そして、谷底に何があった、いや、いたのかというと、だ。
立ち上る土煙が収まった時、そこにいたはずの二百ほどの敵の足軽は、そのほぼすべてが土砂の下に消えていた。
つまり、この時点で俺たちは勝ってしまったという事になる。
「は、はははっ。これで勝ちか。これが策か」
未だこの身を支配する恐怖を塗り直していくかのように、驚愕と歓喜のないまぜになった思いが体中に広がっていく。
こちらに遥かに勝る数の敵がいた。その敵が武殿の智によって、一瞬で溶けて消えた。
そんな事が出来るのが策なのか。そして、それを用いる戦い方もあるのか。
驚愕が勝り、己の目で見ている物が信じられない。でも、何度見直してもそれが事実であり、我々の勝利は決定していた。
俺たちの戦い方が全く間違っていたとは思わない。
戦いに身を投じた一人の男として、今これを目の前にしても、それだけははっきりと言える。己の力だけを頼りに誇りをかけて、誰にも恥ずる事のないよう雄々しく戦う……それもまた戦い一つの形ではある。
でも、戦いはそれがすべてではなかった。一つであってすべてではなかった。
今回のように誇りよりも、何よりも優先したいものがあったら? ただただ勝利と言う結果だけが欲しかったら? 他の何をおいても味方の被害を最小限にしたかったら? いくらでも戦いには条件が付く可能性があるのだ。
そのすべてを、一つの戦いの形で押し通そうとしてた事が間違いだったのだ。
そして、それを理解しない者が、それを理解する者と戦うとどうなるのか?
こうなるのだ。
先程とは違うものがぞくりと背中を走る。先程走ったのは恐怖。そして、今走るのは期待。
面白い。面白すぎるぞ。
俺たちは継直と戦える。それを武殿ははっきりと証明してみせた。
逃げおおせるばかりか、奴の首を挙げ、水島のすべてを姫様の手に取り戻す。
それすらも可能にするのではないのか。
それすらも期待できるのではないのか。
今の今は無理かもしれない。でも、武殿と伝七郎様がおられ、そして、僅かばかりの力ではあるかもしれぬが俺たちの力も使ってもらえれば、きっとそれを成し遂げてくれるに違いない。
俺は今日、戦の勝ち方は言うに及ばず、水島の未来を見た。
そんな気がした。