第二百六十二話 同影の行方 でござる
あの後しばらくの間、梅の木を眺めた後、半次の下へと向かった。
現在の半次は、神楽に止まっている蒼月の代わりに、ここ朽木で仕事に従事している忍びたちの統轄をしている。だから昼間は、俺や伝七郎も仕事部屋にしている広間で一緒に仕事をしている。藤ヶ崎に戻れば諜報部として一部屋用意される予定だが、現在は大広間に本部が仮設されており、そこに政・軍・諜が集められているのだ。
別れているのは、敦信が統轄しているこの町の政務機関だけである。
「おはよ」
広間の前まで行くと、部屋の前には護衛の者たちが待機しており、襖を開けてくれる。中に入ると、そこには顔を見知ったうちの軍務・政務の高官たちが忙しそうに各々の仕事に向き合っていた。俺の顔を見ると皆頭を下げて挨拶をしてくれる。
奥にいた伝七郎も、
「お早うございます」
と、こちらを振り向いた。俺はそれらに挨拶を返しながら、部屋の中にいる筈の半次の姿を探した。
すると、半次の方でも俺が来るのを待っていたようで、互いに目が合った。俺が半次の方へと歩き始めると彼の方もこちらに歩み寄ってきて、近くまで来たところで片膝をついて頭を垂れた。
「お早うございます、武様。いくつかご報告したい事がございます。少々お時間をいただきたいのですが」
「おはよ、半次。こちらも聞きたい事があるんだ」
「左様にございますか。では、さっそく部屋を移しましょう」
「そちらの話は込み入ったものなのか?」
「はい。出来れば、いくらかの書類や地図と照らし合わせながらご説明をいたしたく」
半次はそう言うと、すっくと立って、俺を誘導して部屋を出ようとする。
ここのところ、うちで暇をしている奴はいない。半次も例外ではなかった。おそらく、次の仕事が押しているのだろう。
もちろん、それは俺も他人の事を言えないので、それに乗った。俺の仕事机のある一角では、俺がやってくるのを待ち構えてきた軍部の事務方らが、俺が離れていくのを哀しそうに見送っている。気持ちはわかる。俺たちだけではない。皆、忙しいのだ。
俺はそんな彼らに申し訳ない気持ちになりながらも、「すぐに戻る」と一言残して部屋を出た。
部屋を出て、少し奥にある小さな部屋へと身を移した。
その部屋は庭に面しておらず、部屋の四方のうち二方向が窓のない土壁で閉じられている。残り二面は障子張り。部屋の外に人が立っても、中から気づきやすいようになっている。
何に使っていたのやらと勘ぐりたくなる隠し牢以外では、一番の機密性の高い部屋である。当然のように、何もない殺風景な部屋だ。
最初は、こんな部屋ではなく本部の横にある客間あたりに案内されるものと思っていた。しかし、部屋の外に出たところで半次が、「こちらで……」と言って、ここに俺を連れてきた。
そうして、二人で部屋に籠もると、すぐに半次は話を始めた。
その話はこうだ。
この期に及んで、なお自ら出陣しなかった惟春は、金崎家の宿将・鏡島典親に笹島の奪還を命じたらしい。神楽の掴んだ情報によると、鏡島典親はこれを不満としたそうだが、三森制圧を失敗した直後だけあって、代々金崎家に仕えてきた鏡島家といえど惟春の命を覆す事は出来なかったとか。そこで鏡島典親は、猛将……という事になっている鏡島丈通という一門衆の一人を送り出してきた。
もう上から下まで完全に腐りきっていて処置なしと言うしかない。この期に及んでも、どいつもこいつも自ら動く事を拒み、他人に鞭打つ事だけを考えている。
そして、その丈通とやらも、これまた金崎家重臣の一門衆だけの事はあった。
鏡島丈通は、笹島の目と鼻の先にある中之島の町までやってくると、無理矢理人を集め始めた。迷う事なく、周辺の里や村を脅しをかけたそうだ。
主である惟春と全く同じやりようである。
ただ、最前線だけあって、惟春が領内全域に出した『触れ』よりもずっと強圧的かつ過激に行われたとか。
それでも民らは従った。
しかし、いよいよ生きていけなくなるところまで追い込まれた中之島周辺の村落の民らは、いままでになかったような反応を見せたらしい。半次は草からの報告書を俺に見せながら説明した。
具体的には、三森を受け入れた俺たちに接触する手段を探っているフシがあるとの事だった。
俺の名は、継直領内では北の砦や東の砦での事もあって、それはもう悪し様に触れ回られている。結果、民たちにも恐れられている。
だが金崎領では、それ程でもなかった。
悪し様に触れ回られているのは継直の領内同様なのだが、それ以上に惟春が酷いので悪評の流布がうまくいっていないのだ。
継直の統治とて金崎家同様の恐怖政治ではあるのだが、時に優しさを装う事ぐらいはしている。より悪質になっているとも言えるが、惟春にはそれすらなかった。
だから、三森を受け入れたという事実をもって、戦いが起こる前に自分たちもその情けに縋れないかという考えを持っているらしいと、半次は俺に言ったのである。
なるほど。間諜には聞かせたくない話だった。
自分たちがどうやって情報を集めているのかを知っているだけに、可能な限り敵のそれを防ぎたかったのだと理解できた。たとえ敵が金崎家であったとしても、間者の可能性だけは残っているのだから。
それはそれとして、だ。
「惟春の奴、まだそんな事をやっているのか……」
これが、この話を聞いての率直な感想だった。
頭が痛い。敵が愚かなのは歓迎するところだが、愚かすぎるのも考えものだ。
安住や佐方は、惟春の金崎家のように温くはない。そう遠からず金崎領の実情に気づく筈。そうなれば、両国が動き出してしまう。俺たちは、そうなる前に片付けねばならない。佐方の方はまだいい。田島を落としてあるから牽制のしようがある。だが、もし安住が動き出したら、領地の配置的に俺たちには手の出しようがない。
現・金崎領のうち北部地域を多少削り取られるのは覚悟しているが、この分では計算している以上に削り取られる事にもなりかねない。
そうならない為には、次に動き出した時に北征を一気に完了する必要がある。
もともと、そういう計画ではあったが、今まで以上にその必要性が増したと言える。その点では、予想外に朽木・笹島を落とせて予定が狂ったが、結果オーライだったと言えるかもしれない。準備期間を得られたのは大きい。溜めが作れた。
半次の報告に、さまざまな思考が脳裏を走った。そんな俺を半次は黙って見ていたが、俺が手の平で自分の顔を乱暴になでたところで、次の報告をあげてきた。
「それと、調べておけと言われた同影の行方ですが……」
「見つかったのか?」
顔を持ち上げ、目の前に座っている半次に目をやる。目が合った半次は、小さく首を横に振った。
「いえ。行方が分からないままではあるのですが、三沢大橋も渡っていないようですし、街道から領外に出た形跡もございません」
「……漁民はなんて?」
現状、道永の奴には三つの選択肢がある。
朽木の西には藤ヶ崎も貫いている御神川が流れている。これを船に乗って河口近くまで下れば、金崎領本拠美和の町に逃れる事が出来る。前もって船を用意しておく必要があるが、これを選ばれていたら、今すぐには手が出せないところまで、すでに逃れているだろう。
俺たちにとっては一番面倒くさいパターンだ。
「流石にございますな。しかし……」
真っ先に漁民について確認した事に半次は満足そうにしながらも、首を横に振りながら俺の言葉を否定する。
「周辺の漁民に当たりましたが、見かけたという証言は得られませんでした。金品で買収されていないとは言い切れませんが、現状彼らが我々を謀って得をする事はありませんし、おそらくは事実だと思います。朝が早い彼らを含めて一切の目撃情報がないという事は、御神川を下った可能性は低いでしょう」
なるほど。絶対とは言い切れないが、確かに可能性はぐっと低くなる。
となると……。
「朽木の近辺にまだ潜んでいるか、あるいは田島へ向かったか……」
今この時期に北へと向かっても、天然の要害である雪深い連山が横たわっている。そこを無理に進んでも、山道の先は笹島だ。あの山道は、笹島の町に直結している。
北に向かえば身動きがとれなくなるから、まず行く訳がないのだ。そして、西を流れる御神川も可能性は低いという……。
となれば、潜伏か、いったん南に抜けてそれから東進するしかない。
それ故の言葉だった。
朽木を南に抜けて東進すれば、その先は田島だが、こちらは道中に小さな町も山里もある。笹島へ向かう山道と違って人が生活できる領域であるだけに、なんとでもなる。それだけに奴の逃走路として申し分ないだろう。
もしくは、未だこの近所に潜伏しているか……。
俺の問いに、今度は頷いてみせる半次。
「はい。その可能性が高くなってきたかと。そして、ここからが本題です。昨夜、田島近くの村が賊に襲われ潰されたという内容の報告が届きました」