第二百六十一話 金崎家の動き でござる
それから更に十日ほどが経った。
いよいよストレスで脳髄が焼き切れそうである。
ひと仕事を終え、次の仕事に向かう前に少し庭を眺めて心を整えていた。
このところ、たまに温かい日が混ざるようになってきていた。今日も、そんな日だ。まだまだ周囲の山々は勿論の事、町の至る所にも溶けきらぬ雪が残っているが、降り注ぐ日差しからは遠くない春を感じる。
そういや、梅も開花しかけていたっけ。
この花が完全に開く頃には金崎領への再侵攻を開始する。これまでクソ忙しい思いをしながらしていた準備が、きっと功を奏する事だろう。準備は万端だ。
惟春の奴は、予想通りの動きを見せている。
国境に更なる兵を集中させているのはいいとして、今も躍起になって兵を集めているというのは……まあ、奴らしいといえば奴らしいか。予想通りにうまくいっていないようだが。
民は打ち出の小槌ではないんだよ、惟春。要求しただけ無限に応えられるという訳ではないんだ。
現に安住と佐方の二大勢力は、この動きを受けて、逆に侵攻の意思を固めつつあるという話じゃないか。
金崎家にとって、これ以上に深刻な問題などないだろうに。
……気づいてないんだろうな。
中身のない卵のような金崎領の状態は、看破されつつあるのだろう。
おかげで、俺たちも急がなければならなくなった。
先を越されたら目も当てられない。今の俺たちが金崎から領土をぶんどる事は出来ても、安住や佐方の領土となった土地を奪う事は容易ではないのだから。
今日は午前中に、敦信と朽木の町の視察に行ってきた。もちろん、視察と言うからには仕事をさぼって遊んでいたのではない。本格的にこの町を都市化していく為にどう区画整理していくか、それを考える為に見てきたのだ。
実際に手をつけるのはまだまだ先になるが、現地で指揮を執る事になる敦信とのイメージの共有をしておく必要があったからだ。
そして屋敷に戻ってきて、ようやく一息つけているところだ。年寄りくさい気がしなくもないが、こうして庭の木々を眺めているだけでも、正直心が和む。たぶん、思っている以上に疲れているのだろう。
「そろそろですね。惟春の徴兵は、やはりうまくいっていないようです」
後ろから声がかけられる。鬼灯だ。
振り向くと、彼女も庭の縁に生えている梅の木を眺めていた。そして、同様の感想を抱いたようだ。
彼女は、俺の下に来て以降、ずっと俺を守ってくれている。少し前までは、この首を狙っていたのに、今では誰よりもこの首を守ってくれている。縁は奇なものというが、本当に縁だなあと思わずにはいられない。
「まあ、当然だろうなあ。税を更に課し、それが払えぬ村落に兵役を科しているんだって?」
「はい……」
鬼灯は、怒りを押し殺しきれなかったようだ。少し低い声で応えた。
きっと、神楽がやられた仕打ちを思い出しているのだろう。今回の惟春のやり様は、神楽がやられたそれと、よく似ている。
俺は、それには気づかないフリをして、再び梅の木に目を戻した。鬼灯ら神楽の者にとって、これは決して愉快な話ではないだろう。意味もなく胸の傷を抉るような真似をする必要はない。
「謀反の兆しは?」
「ありません」
やはり、金崎領の民は恐怖政治にならされすぎているのか……。
はぁ……。
思わずため息が漏れた。
今度こそ謀反の一つでも起らないかと期待していた。だが、どうやらそれは空振りに終わりそうだ。そうそう、うまくはいかないらしい。
だが、まあ、それはいい。この現・金崎領の民について憂慮すべき点は、金崎家を滅ぼした後だ。
この一見従順な民は、要するに気力を根こそぎ奪われている民である。謀反を起こさない代わりに、兵役中の戦闘力、平常時における生産性ともに最低の民だ。当然、そのままという訳にはいかない。
かといって、今までが今までだから、そこから解放するだけでは右往左往するだけになる。自発的に彼らが何かをし出すようになるとは、とても思えない。
それに、それだけならまだいい。
問題は、今までの反動が出る可能性が高いという事だ。人間の欲というのは、セーブする術を知らなければ天井を知らないからだ。
抑圧された状態しか知らない彼らがいきなり『与え』られたらどうなるか……想像に難くない。勘違いを促進させて要求を暴走させるようになれば、彼らは今以上に使えない民になってしまうだろう。
それどころか、彼らは水島を恨み、それ以上に酷い扱いをされていた金崎の統治を美化し出すようになるかもしれない。
そうなったら目も当てられない。彼らは、そんなやっかいな状態の民たちなのだ。
「……そうか」
「何か気がかりな事でも?」
鬼灯は、俺の言葉の調子から鋭く察して尋ねてくる。
「いや、何でもないさ。それより、惟春の動きはどうなっている? この朽木を落とされてようやく重い腰をあげたのはいいが、あいかわらずフラフラしたままなのか?」
朽木が落ちてすぐ、美和から千ほどの軍が南下してきた。
今更な上に、数も中途半端ではあった。確かに美和にいるだろう兵の数の半分である。そこに、いくらか強制徴用された民が加算されて、半分弱を送ってきている計算にはなるだろう。
惟春にしては、なかなか思い切った数だと言えるかもしれない。
しかし、今現在笹島にはこちらの兵が千人いる。おまけに田島、神楽、朽木、三森……特に朽木のバックアップがある。
そんな笹島を、正面から落とせる数ではなかった。まして奴らは、相変わらず策を講じる事を卑怯とののしり続けているのだから。落とせる訳がなかった。
結果、笹島とその先にある中之島との間で、フラフラとし続けているのである。
笹島を守っている重秀は俺の命を厳守し、奴らにどれほど煽られようと馬耳東風を決め込んでいる。その代わりに、笹島の少し北に仮設した陣の攻撃範囲に敵が入ると、これを警告なく襲い、追い返している。
金崎の軍は、この対応にも「武士の誇りはないのか!」と罵ったが、重秀はまったく気にとめていないようだ。
先日届いた書状に、「先日も、武士の誇りを知らぬ者に誇りを説かれ申した」などと書いてあった。南下してきている軍を率いているのは、鶴見なにがしとかいう部将なのだそうだが、鬼灯によると川島朝矩と五十歩百歩の人物との事である。
『アレ』と同じでは、重秀がそう言うのも無理もなかった。
そんな状態が続いていたから、半次が国境に送り込んだ神楽の者たちから、何か新たな報せでも入っていないかと確認してみたのである。
「何も……ああ、そう言えば」
鬼灯は少し考えた後、思い出したように言う。
「何かあるのか?」
「いえ。笹島の話ではないのですが、北の安住が継直と接触しているらしいと、半次様がおっしゃっておりました」
「何? 継直と安住が? そんな話は聞いていないが」
もしそれが本当なら、これは大事である。笹島に来ている木っ端の事など気にしている場合ではない。
「はい。まだ報告はされていない筈です。美和の町中で、民らが話しているものを拾っただけの情報らしいですから。今確認を取っているところだとか。だから、まだ武様らのところまで上げられていないのでしょう」
「なるほど。だが、その報せはちょっと気になるな。分かった。有り難う。後で、半次に直接聞いてみるよ」
神楽を引き込んで、本当に良かったと思う。
こうも忙しくなってくると、なかなか細かいところまで目が届かなくなってくる。そういうところも、きめ細かくフォローしてくれているようだ。まだ、組織としてはきちんと出来上がっていないが、すでに諜報部としてしっかりと活動を始めてくれているようである。実に頼もしかった。
「はい。私がその話を聞いたのが三日ほど前ですので、もしかしたら続報が届いているかもしれませんね」
「分かった。それにしても、鬼灯ら神楽の者たちもそうだが、敦信ら三森の者たちも皆よくやってくれている。これを惟春に存分に使われていたらと思うと、ぞっとするよ」
俺は冗談めかして、そんな言葉で鬼灯たちを讃えた。が、実の所、心の中では冷や汗を掻いていた。
もし惟春が阿呆じゃなかったら……、俺たちは詰んでいた可能性が高いと言わざるを得ない。率直に、そう思うからだ。
「恐れ入ります。今後も、ご期待に応えてみせます。どんな事でもお申し付け下さい」
鬼灯は、真剣そのものといった目で俺の目を見つめた後、少し恥ずかしそうに小さく頭を下げてそう言った。どうやら俺は、本当に得がたいものを得たようだ。
「そっか……ありがとうな。俺も、お前たちの期待を裏切らないように精一杯精進しよう」
そう応えて再び梅の木に視線を移した時に、背中から呟いたような小さな声が聞こえた。
「私は絶対に……」
ただ、その声はあまりにも小さく、はっきりと最後までは聞きとれなかった。
でも俺は、聞き漏らしたまま問う事を諦めた。なんとなく、この言葉は聞き直してはいけないような気がしたからだ。