第二百五十九話 商路と経済圏 でござる その一
「さて……、と。今やっておける事は他にあるかな……」
朝矩がいた屋敷を拠点に、俺たちは各々が各々の仕事に日々追われていた。そのおかげで、すべてが順調に進んでいる。
そんな中で、ほぼ唯一と言ってもいい傷が道永の件だった。
結局、道永を見つける事はできなかった。
それどころか、どのように消えたのかも分からずじまいだった。敦信が俺たちの元にやってきた後、奴の部下ごと消えているのである。
確かに検問を敷いていた訳ではないし、朝矩にも道永らへの関心がなかった事もあって、掻き消えたがごとくの現状も不可解と言えるほどではないかもしれない。
だが、不気味と言えば不気味だった。
奴らはほとんど賊徒同然だったと聞いているのに、金品の類いにはほとんど手をつけないまま、いくらかの武具と米だけを奪って消えているのだから。
とは言え、道永の存在の重要性を考えると、これをもって計画の進捗状況に問題ありとするのは無理がある。評価としては、極めて順調と言っても問題はない。
カタリ――。
書きかけの指示書を前に、手に持った筆を置いて少し背筋を伸ばす。
「ん~~~」
そして、今置いた筆に目をやる。
こちらに来たばかりの頃は、この筆も満足に使えなかったな……。
俺が使える筆記具を開発しようとか思ったっけ。そうする前に菊が手伝ってくれたけど。それから千賀にドヤ顔されながら一緒に練習をして、いつの間にやら、こうして当たり前に使えるようになっている。
感慨深かった。
何も筆に限った事ではない。最近自分が、随分とこの世界に馴染んだと感じる。もしかすると、いや、もしかしなくても、いま元の世界に戻ると逆に違和感を覚えるだろう。もしかすると馴染めなくなっているかも……そんな気さえする。
まあでも、おそらくはもう戻れないだろうから、これでよかったのかもしれない。
厨二全開で異世界トリップを妄想してた俺が本当にトリップしてしまったのは、神の悪戯なのか森羅万象の理のエラーなのか……。それは分からない。おそらく、この先も分からないままだろう。
だが、取り敢えずは望んでいた通りになって、苦労は絶えないがこうして日々生きている実感を得るに至っている。普通では歩めなかった筈の人生を歩めている。本来交わる事のなかった人と出会う事も出来た。不満はない。
唯一悔やまれるのは、親父やカアちゃんに不孝を働いてしまった事だけだ。この事だけは、どうしても忘れられない。厨二の妄想を全開にしていた時には、チラとも考えなかったのに、まったく勝手なものだとは思うが。
そんな事を考えていると――――。
ドダダダダ。
廊下を駆けてくる音が聞こえる。まず間違いなく太助である。どうやら二水から戻ってきたらしい。
どうやら、昔を懐かしむ時間も、そろそろ終わりらしい。
「武サマ、ちょっと話がある!」
バン!
いきなり襖が開けられた。
「騒々しい奴だな。つか、襖を開ける前にはせめて声ぐらい掛けろって、いつも言ってるだろうが!」
何度注意しても直らない。
こいつと千賀は、本当にいきなり開けやがるからな。後ろめたい事をやっていなくとも心臓に悪いのだ。
文句を言いながら、俺は太助が入ってきた方を振り返る。
だが、俺の勢いはそこまでだった。
机や座布団、箪笥や幾つかの葛籠といった質素な物しかない部屋の中は、現在書箱や書状、地図などがそこかしこに散らばっており、見るも無惨な惨状を呈している。菊一人いないだけでひどい有り様だ。
が、そこに更なる『物』がやってきたらしい。
開けられた襖の向こうには、ぐしゃぐしゃになった紙の束を抱えた太助が鬼のような顔をして立っていた。
心の中の俺は、滂沱の涙を流した。
若干顔の筋肉がぴくぴくと痙攣を起こしかけている。また仕事が増えるのかと。仕事を一つ片付けると二つ仕事が増えているとか、どんなオカルトだよと突っ込みたくなる。
折れかける心を気合いと根性で押さえつけた。そして、一応念の為に尋ねる。やはり、何事も確認は大事だからな。
「あ~、その、なんだ。あまり聞きたくないのだが、もしかしたらって事もあるかもしれないし、一応聞こうと思うんだ……それ何?」
爺さんが無節操に俺や伝七郎の功績を喧伝するものだから、俺ってば本当に名前が売れてきてしまっている。だから万に一つの可能性の話で、町の若い娘さんたちからファンレターが届く事も微粒子レベルで存在しなくもない。
……うん。分かってるよ、俺。これが現実逃避だって事は。つか、まだ菊あたりからの安否を気遣う手紙かなんかだって方が現実味があるよね。でも、もしそうなら、あんなに抱えるほどの紙の量にはなっていないと思うのよ。菊は手紙魔じゃないし、そもそも太助に抱えられた紙の束は全部剥き出しだ。
「あんたが急がせた『店』と『牧場』の計画書、その他だよ! ついこの間までは、もっと小さな規模だった筈だろ! なんで、急に話がこんなデカくなってんだよ! 俺に統轄させといて、直接二水に指示送りやがって……行ってみて吃驚だよ! 吉次の奴も信じらんねーって頭抱えてたぞ。八雲に至っては藁人形持ってどっか行こうとするし、大変だったんだからな!」
バサバサバサッ。
尋ねられた太助は、今の今まで溜め込んでいたらしい怒りを爆発させた。書類の束を俺の目の前にまき散らすと、怒濤の勢いで俺への文句が飛び出してくる。
まー、ごもっともな話だった。
戦況の変化を睨みながら、どこまでを経済圏として近々に整えるかを考えていた時に、戦中で皆が忙しいからと、二水の村で神森屋の開店や牧場の敷設計画に携わっている連中に直接指示を出したのだ。
つまり、トップダウンではなく、真ん中をすっ飛ばして直接現場に指示を送ったのである。
そのせいで、飛ばされた太助らは想定していた仕事量を遥かに超えるオーバーワークを強いられたのだろう。太助らのイメージと一致していたのは、製塩作業場に関する案件くらいだったのではなかろうか。
……で、である。
チラリと目の前にまき散らされた書類の山を見る。
太助の奴は考えた訳だ。仕返しに、三人で大量の仕事を処理して、俺の元へ大量の書類――報告書、図面、計画書、見積もり、予算申請書などなど山盛りに持参してやろうと。そして、「オウ、さっさとヤレや」と言いにきた……のだと思う。
太助の目をみれば一目瞭然だった。目は充血しており、隈もくっきりはっきりと見る事が出来る。何より目が据わっている。
とてもではないが、『俺も現実逃避というか息抜きがしたかったんだよ、ハハハ』などと言える雰囲気ではない。神楽、敦信と手強い敵との神経をすり減らすような戦いをしていた俺のちょっとした気晴らしも兼ねていたのだから許せなどと言ったら、間違いなくこいつは飛びかかってくるだろう。
テスト前には、突然部屋の掃除がしたくなるものなのだ。
ちょっと目先を変えたかったのである。それに、実際あちらも並行して進めていかなければ、かなりの時間を無駄にしてしまう事になるところだった。なにせ、十虎の策を始動させた今となっては、俺たちはしばらく戦漬けになるのだから。
なんとか自分を正当化する理由をひねり出し、太助に向かって口を開こうとする。しかし、太助に機先を制される。
「まだ立ち上がってもいないってのに、一体何考えてんだ! 藤ヶ崎から朽木までの街道を抑えるって、まだそんな段階じゃないだろ! いきなりそんな規模でやろうって正気かよ! 五倍以上になってるじゃないか!」
おや?
俺はその言葉を聞き、自分の勘違いを知った。自分らを飛ばして、山盛りの雑務だけをなすりつけられたと怒っているのではないと知ったのだ。
ごもっともである。太助の言い分は、十分以上に正しい。これは、俺も姿勢を正して説明する必要があった。
安全に話を進めたいなら、俺のやろうとしている事ははっきり言って少々邪道だ。負うリスクが半端ない。
だから、二水を確実に復興させたい太助らにとっては、そここそが許せなかったのだ。
だが、継直を倒せる前提で物事を整理すると、今この段階で現・継直領と現・金崎領を合わせた新・水島領の経済を支えられる骨組みを作っておかないといけなかったりする。これは事実だった。
それ故の行動だった。第一段階をスタートさせられる準備が予定よりも早く整った以上、少しでも早く手をつけておくに限る。そして、俺の息抜きを兼ねていたのも事実だが、目の前の戦に集中させたい太助らをすっ飛ばしたのも、それが理由である。
十虎の策を献策した時点では、今この段階でそんな計画をスタートさせる時間的余裕はない筈だったのだ。
しかし、こんなに早くから朽木どころか笹島まで勢力圏が伸びた。領内にある街道が、早々に繋がったのである。やらない手はなかった。
主要な町と町、そして領外とが一本で繋がる――これは、経済を発展させていく為の背骨を得たに等しい。『刻』を察したが故の修正だった。