第二百五十八話 金崎領侵攻に向けて でござる その二
「……で、その間に、我々は本格的に金崎領を呑み込む準備を整える、と」
端正な顔に薄い笑みを浮かべながら、源太はそう言った。俺は、それに頷いてみせる。
「そういう事。すでに玄関も廊下も素通りできるんだから、あとは十分な手土産を持ってお伺いするだけってもんだ。雪解けまで、まだふた月からみ月はある。つまり、計画で見込めていた最長の準備期間よりも、ひと月からふた月の時間を俺たちは余分に使えるようになったって事だ」
「……なるほど」
「雪中行軍を続けるっても一つの手ではあるだろうが、計画では雪解けの時期と相まって一気呵成に攻められる点が肝だった。金崎領は殻だけで、中身がスカスカだからな。最初の戦に勝てば、通常の進軍速度ならば奴らが再び態勢を整え直す前にとどめを刺せる筈だった。だが予想外の大勝に、大きな利益を得たと同時に、俺たちはどうしたって惟春に時間を与える事になってしまったんだ。今すぐに進撃を開始しても、雪のせいでどうしたって足が遅くなる。成功ではなく、大成功した事により、俺たちの計画は狂ってしまったんだよ」
「むう……」
俺の説明に信吾が唸った。源太も、腕組みをして考え込んでいる。
「とは言え、だ。順調なのは間違いない。二人とも、そんな難しい顔をする必要はないさ。手法を修正しなくてはならなくなっただけで、経過はこれ以上なく順調なんだから。俺たちは、間違いなく勝利に向かってまっすぐに進んでいる」
俺は、計画に狂いが出て少し不安そうな二人に、少し明るい声で力強くそう言いきってみせる。
これは二人の不安を取り除く為の演技ではあった。二人に、自信を持って仕事に向かって欲しいという気持ちが俺にはあったから。ただ、語った言葉自体は間違いなく真実だった。
その後、俺たちは次の行動に向けて早々に動き始めた。戦勝気分は戦に勝った翌日までで終わりである。まだ最初の山場を越えただけに過ぎないのだから。いつまでも弛んでいる訳にはいかなかった。
伝七郎は、勝利の宴の晩に言った通りに動いた。すぐ塩の買い付けに向かったのである。そして、戻ってきた奴は、
「いやあ……予想していた通りとはいえ、ずいぶんと詰まっていたようです。この分ですと、国境で奪われた分もここに運び込まれていたのかもしれませんね」
などと、喜びと呆れの入り交じったなんとも複雑な笑みを見せた。
まだ始めたばかりで、すべてを把握できている訳ではないだろうが、それでも相当な量の備蓄がすでに確認されたらしい。朝矩の奴も、まさか自分が止めていた塩で己の首が塩漬けにされる事になろうなどとは、夢にも思っていなかった事だろう。
伝七郎はこの塩を完全に押さえて、闇市場で大きくなりつつある闇塩の商いを潰しにかかるつもりのようだ。同時に、大きくなっていく俺たちの領土においても重要拠点となりうるこの朽木の町の整理にも早々に着手すると言っている。大仕事だ。
でも俺も、そんな忙しそうな伝七郎を他人事のように見る事は出来ない。
侵攻計画の修正と、金崎領の更なる情報収集に追われる事になったからだ。おかげさまで、戦勝気分など一発で吹き飛んでいる。頭を切り換えなくてはいけないではなく、仕事に頭を切り換えられた格好だ。
まず最初に俺は、朽木にいる神楽の忍びの大半を一度神楽へと戻す事にした。本来は、今の俺の状況なら、まず真っ先に神楽の手を目一杯に借りたいところだが、俺は敢えてそうする事に決めた。
今回の朽木攻めでは、本来神楽に常駐しているべき者たちまですべて駆り出して戦に臨んでいたからだ。
笹島を落とした部隊は、神楽を守る為の最低限の要因を動員してのものだった。敵国との国境近くに位置している里の者たちに、それをやらせたのである。本当に危ない橋を渡らせたのだ。だから、いつまでも神楽だけに危ない橋を渡らせている訳にもいかなかったのである。
ただ、それでも五十人ぐらいは残って俺の手伝いをしてくれていた。戻った者たちも蒼月に再編されて、仕事をしにいくらかは再び戻ってくる手筈となっている。しばらくの辛抱だった。鬼灯ら神森家の忍びたちと、残った半次らに頑張ってもらうしかない。
敦信には、前もって伝えていた通りに朽木の代官としての仕事を命じた。
戦後の町の立て直しである。その為、おそらく俺たちの中でも一番忙しい思いをしている筈だ。朝早くから町に出て、それから伝七郎と連携をとって、すでにあれこれ話を詰め始めていると言っていた。
ただ本人は、すこぶる前向きにその忙しさと付き合っているようだ。
忙しそうにはしていたが、とてもイキイキと仕事に励んでくれている。伝七郎曰く、敦信を腐らせていた惟春はやはり大馬鹿者だとの事で、どうやら政務能力も相当高いらしい。俺たちは、本当に得がたい人材を思わぬところで拾ったらしかった。
そんな敦信を手伝って、紅葉の奴も忙しそうにしているようだ。こちらもすこぶるやる気に満ちているらしい。鬼灯が言っていた。俺の目には、割といつもと同じように見えたのだが、鬼灯の目には明確に違って見えるとか。ここのところ失われていた気力も充実し、精力的に仕事に励めているとの事である。紅葉ほどの美少女を敦信に盗られてしまったのは業腹だが、紅葉も幸せそうだし、まあよしとしておこうと思う。
どのみち敦信との連絡役も必要だったし、本人の仕事へのモチベーションは大変高いようなので、色々あったが終わりよければすべて良しとしておくべきだろう。
とりあえず、朽木を得た俺たち水島家は順風満帆――予定に狂いなしと言える状態だった。色々な意味で、見通しは明るい。
だから俺は、この朽木の敦信に連動させる為に、太助らの二水再建計画にも『更に』テコ入れをする事にした。
二水は、朽木から三沢の町を通って藤ヶ崎へと向かう途中にある町である。
だから、今までは二水で足場を固めた上で主な収益地を藤ヶ崎と見据えてきたが、今後は藤ヶ崎から朽木までを見据えた『街道』を収益圏と見なして修正するように命じたのである。
おそらくこの『商路』は、最終的に現・金崎領の美和や継直の富山にまで繋がるだろう。
その第一段階として、藤ヶ崎から朽木の間を見据えろと言ったのである。その為、三人とも一度二水へと戻っていった。近々、俺たちが抜けていた間の再建計画の進捗状況の報告を持って戻ってくる手筈である。
こうして改めて考えてみると、割とマジで死ねる仕事量だと思うが、現在俺に割り振られている本来の役割はまた別にあり……。
軍務である。
信吾や源太には、敦信配下の三森武士たちを水島家に組み込む作業を含めた軍の再編および、新兵の募集とその訓練に集中してもらっている。
今回は特に、新たに受け入れた兵の割合が高くなっている。神楽、三森……もっと言えば、与平が守ってくれている田島を含めて、一度整え直す必要があった。だから二人には、田島の与平と連絡を取り合ってもらい、これに当たってもらう事にしたのだ。
笹島へと向かわせた重秀の元へも、さらに追加で兵を送った。
あちらもあちらで、最前線として守りをガッチリと固めてくれている。流石に手も金も物も足りず、町の中に手を入れるのはもう少し先になる。しかし、当面の国境を維持するのに十分な守りを整え終わった。
これをもって、事実上惟春のチャンスタイムは終了したと言えるだろう。俺たちにあった隙は埋まった。以降惟春が攻めてきても、奴は相応の犠牲を払わねば笹島を取り戻す事は出来なくなったのだ。
俺たちにとっては順調そのもの、惟春にとっては厳しい状況が出来つつあると言える。仕事で死にそうな事以外には、問題らしい問題は何も見当たらなかった。
そして、それからひと月が経とうとしてた――――。