第二百五十三話 昨日と今日 でござる
ん~。あ~、眠ぃ~。
三時間ほどは寝られただろうか。
瞼を擦りながら寝床より這い出て、そのまま天幕の外に出てみると、東の空に夜明けのグラデーションが見えた。
昨晩は信吾との打ち合わせの後、今日の戦に備えて各種確認作業をし、一休みできるかと湯を沸かしたら、鬼灯が町に出した偵察からの報告をまとめてやってくる――という、ブラック企業の営業マンも真っ青な夜を送る事になった。
ただ、それでも習慣というものは恐ろしいもので、時間になるとこうして、きちんと目が覚めたりする。まあもっとも、藤ヶ崎の館にいる時には菊が起こしに来てくれるので、それにどっぷりと甘えていた訳だが。
これを責める奴は、間違いなく思考が足らない奴だ。そんな奴がいたら、声を大にして『お前、よく考えろよ?』と言いたい。
菊が起こしに来てくれるのに、その前に起きるなんて勿体ないにも程があるだろう。お前の股間にぶら下がっているのは、ただの飾りかと。
美少女が優しく起こしに来てくれるんだぞ。男なら、起きられても気合いと根性でもっぺん寝るだろ。常識的に考えて。
……って、ふわぁ~。
寝不足で、ちょっとハイになってるかな?
これから負けられない大事な戦だというのに、我ながら馬鹿な事を考えている。
とりあえず、水瓶に溜められた水を汲み顔を洗い、口をすすいだ。すると、少し気持ちがシャッキリとしてきた。
さて……と。
コキコキと首の関節を鳴らしながら、気持ちを徐々に今日の戦へと切り替えていく。
とりあえず、今日中に朽木は落とす。昨日までは無理ゲーだったが、今日からはイージーモードと言っても過言ではない。十分可能な筈だ。
すでに、この日の為の前振りも完了しているし問題ない。
町から少し離れた場所に決戦場を指定してやれば、おそらくもっとも簡単に朽木の町を落とす事が出来た筈だ。空の町を落とす事など造作もないのだから。
しかし、こちらから決戦を申し込んでおいてそれでは、流石に外聞が悪すぎるので、今回はこれを不採用とした。正直、そこまで切羽詰まった状況ではない。敦信が敵にいない今、それだけの余裕が俺たちにはある。
だから今回は、普通に戦う事を選択した訳だが……それが奴らにとって幸せな事かどうかは、また別の話となるだろう。
猫では虎には勝てないのだから。誘い出してやれば奴らにも逃げる自由が与えられたが、普通に戦えばその自由は失われる。
虎の本気の一噛みに、猫が耐えられるだろうかという話だ。
昨晩、川島朝矩らは、決戦の申し込みに意気揚々と気勢を上げた事だろう。翌日の決戦などという舐めた提案を簡単に受け入れたところからも、それが窺える。多少は頭の回る奴がいる事も想定していたというのに、まったくの無駄に終わってしまった程のスムーズさだった。
しかし、だからこそ確信できた。こちらがミスをしない限り、この戦の勝利はもう揺るぎない、と。あとは淡々と、勝利に向かって一手一手詰めていくだけでいい。
「おお、お早うございます。武殿も顔を洗いに来られたのですか?」
顔を洗って、ぼうっと朽木の町の方角を眺めていたら、後ろから声が掛けられた。
「おお、信吾。お早う……って、敦信も一緒だったか。お早う」
「お早うございます、武様」
「連れてきた者ともども、不便はないか?」
「はっ。有り難うございます。あの後、鳥居殿が色々と計らってくれまして、特に不便もなく過ごせております」
「そうか。ならいい。あと、今日の戦だけはお前たちを外す。後方にいる事になるが、これは受け入れてくれ」
はっきりと告げる。やむを得なかった。
敦信の投降が偽降だったりした場合に、取り返しがつかなくなってしまう――そういう局面であるというのも理由の一つではある。しかしそれ以上に大きな問題なのが、つい昨日まで真剣に命の取り合いをしていた相手との連携となると、兵たちにとってこれは極めて難しいという事である。いくら俺が同じように扱おうとしても、軍という『集団』がそれについて来るのは、どうしたって難しいのだ。それを無理に押し通そうとすると、綻びが生まれてしまう。
それは、戦という環境の中では致命的すぎるのだ。味方に不審を抱きながらでは、兵は存分に戦えないのである。
だから敦信たちを使うには、それなりの手順が必要になってくる。少なくとも、この朽木の町を巡る戦いでは彼らを使う訳にはいかなかった。
これを告げる事に不安がなかった訳ではない。敦信は、主の信頼を得る事が出来ずに苦い思いをし続けてきた人間だ。だから、今またようやく見つかった新天地でも同様の思いをする事に、心揺れないかと心配せずにはいられなかった。
しかし敦信は、俺の言葉に不快感を示すような事はなかった。むしろ、頷き同意してきた。
「当然でしょう。いくら武様が我々を信用して下さっていても、兵も同じではありません。武様のご信頼にお応えできないのは無念ではありますが、我々がこの戦にて出しゃばっても害の方が大きいでしょう。ですから、次以降の戦にて存分に働かせていただこうと思います」
「流石だね。すまん、そういう事だ。それに、お前たちが朽木を守っていないだけでも、助力としては十分すぎるよ。今の朽木は、もうすでに落ちたも同然だと思っている。それが分かっていないのは、先日までのお前の上司だけだ。お前たちもこれからは忙しくなるから、今回は降って湧いた休日ぐらいに思っていてくれればいい」
「はっ」
「朽木が落ちたら、すぐに動き始めるからな。お前が作っていた町の防衛施設も、もっと本格的に工事してもらわねばならないし、町の統治も藤ヶ崎や二水の町に倣って、今の水島家の統治方法に変えなければならない。その為には、ゴミ掃除も必要になってくるだろう」
「その事なのですが、本当に私を代官に任命なさるおつもりなのですか?」
「そのつもりだが……何か問題でも?」
「い、いえ。その……」
敦信は、口を開きかけるが止めて噤むといった動作を繰り返している。
もっと自信を持って良いのに――と、そう思わずにはいられなかった。よっぽど碌でもない扱いをされ続けていたようだなと、溜息が漏れそうになる。
そして、そう思ったのは俺だけではなかったらしい。
「敦信殿」
信吾が苦笑いを浮かべながら、敦信に声を掛けた。
「はあ」
「もっと自信を持たれよ。己の力量が分からぬお主ではあるまい。ここは金崎家ではないのだ。お主は無用な心配などせず、ただその力を存分に振るえば良い。武殿は金崎惟春ではないのだ」
「……犬上殿」
「信吾でいい」
「かたじけない……信吾殿」
「おう」
信吾は、糸目を更に細くして笑う。
「敦信」
「はっ」
声を掛けると、敦信はこちらを向いた。
「侍が主を変えるのは容易な事ではないだろう。対象が『アレ』でも、過去に誓った忠義を忘れる事など出来ないのは分かる。そんな軽いものではないからな。でも、敢えて言うぞ。忘れろ。そして、その力を存分に発揮して、俺を助けて欲しい」
「武様……」
「信吾が言った通りだ。俺は惟春じゃあない。お前が俺に遠慮する事よりも、その力を存分に発揮してくれる事の方が遥かに嬉しい。俺も楽が出来るからな、はっはっは」
敦信は俺の目をじっと見据えたまま固まっていた。
俺は、そんな敦信の胸に拳を当てて軽く小突いてやる。
「頼んだぜ。三森の麒麟児」