幕 敦信(三) 神森武と三森敦信
まったくやってくれる。そう来たか。
「どうやら、お出迎えのようだな」
呟くと、利宗がこちらを振り向いた。
「どうする、敦信様」
そう尋ねる利宗の横で、利歳は前方を兵に固めさせようと慌てて指示を出している。
「利歳。よい」
俺は利宗に答えずに、先に利歳の方に声を掛けた。
「は? いや、敦信様。よいって……」
俺の言葉に戸惑いを見せる利歳。
「たった三人だ。それにあれは、多分俺たちを討ちに来たんじゃない。もし奴がその気なら、こんな場所で待ちはしないだろう」
奴らは、たった三人である。周りにも何もない。俺が堀を作っていた北門前の原っぱに、ただ悠々と立っているのだ。だまし討ちにしようというのなら、同じ待つにしても、もっと他に適切な場所がいくらでもある。
「敦信様、そうは言うが……」
だが、利歳は引かなかった。俺の身を案じてくれているのだろう。
「大丈夫だ。それにしても本当に怖いな、神森武ってのは」
ここまで手の平の上で良いようにされるとは、流石に思いもしなかった。完敗という言葉も生温いほどに、完敗だ。完全に読まれた。
今こうして敗北感を噛みしめている事も、もしかしたら神森武は読んでいるのかもしれない。
勝てない――そう認めざるを得なかった。
降るしかないだろう。
父上や里の者たち……今では、多くの同胞もあちらにいる。金崎家と袂を分かった以上、俺たちにとっても、それが最良の選択になるだろう。
そしておそらく、俺がそう考える事を見越しているからこそ、神森武もああして出迎えに出てきてくれたのだ……普通はやれんと思うが。
もし俺が気を狂わせて、後先考えずにあの者に襲いかかったら?
もし俺が命をかけて、己が誠を証明する道を選んだら?
見込みだけならば、ないとは言えない。それでもなお出てきたのは、俺を……『三森敦信』を信じたと、そういう事だろう。
なまなかな胆力ではない。
いくら父上があちらにいると言っても、俺はまだ敵なのだ。
「敦信様、どうする?」
影しか見えぬ神森武を真っ直ぐに見つめていると、再び利宗が尋ねてきた。
「どうするもこうするも、進むしかないだろう。わざわざ出迎えに出てきてくれているのだ。それに応えねば、礼を失する」
俺は腹にグッと力を込めながら、顔だけで利宗に笑みを作ってみせた。正直、俺も怖かった。これまでに何度も修羅場を潜ってきたつもりだが、ここまで敵が『怖い』と思った事は初めてだ。
「分かった。本当に良いんだな?」
利宗は、俺の言葉に異論を挟もうとはしなかった。その代わりに、これが最後とばかりに、俺の目を真っ直ぐに見て確認をしてくる。
「良い」
「……本気ですかい」
頷く俺を見て、利歳はゴクリと喉を鳴らした。
緊張する利宗と利歳に煽られるように、兵たちもピリピリとした雰囲気を醸しながら前進する。
周りは静かなものだった。
時折吹く風の音と、兵たちが大地を踏みしめる音しか聞こえない。他に音はなかった。
後方にある朽木の町の方も、昼とは違いすっかり静まりかえっている。まだ俺たちが出た事にも気づいていないようだ。
日が暮れてしばらくした頃、朝矩様の使いの者がやってきて御前に参上しろとの命が伝えられた。
やはり……と思わずにはいられなかった。
朝矩様より預かった兵のうちの誰かが気を利かせたのか、あるいは元々密命を帯びた兵が混じっていたのかは分からない。分かっているのは、父上からの矢文の件は滞りなく朝矩様へと伝えられたという事だけだ。
早急に準備をしておいて本当によかったと思う。おかげで俺は、里の者たちを連れて、こうして町を脱する事が出来たのだから。
使者には承知した旨を伝えて、俺はその命を無視した。当然だ。もし出向いていたら、里の皆の命もなかっただろう。
そろそろ、いつまでもやってこない俺に業を煮やした朝矩様が、再び使いを出す頃であろうか。そうすれば、俺と里の者がそっくりいなくなっている事に気がつくだろう。一騒動が起る筈だ。
しかし、今のところはそんな様子もない。『後ろ』は、静かなものだった。
さて……神森武。望み通りやってきたぞ。俺をどうする……。
頭を切り替え、そんな事を考えながら前へと進む。
ここの所の戦で、里から連れてきた兵の数は、傷兵までいれて百八十ほどまで減っている。とは言え、百八十だ。
たった三人をどうにかするには十分な数である。
しかし前方の三つの影は、ピリピリとした気配を発したまま近づく俺たちを前に微動だにしなかった。
見事というしかない腹の据わりようだった。
むぅ……。
思わず唸ってしまう。
これはなかなか出来るものではないだろう。神森武は、一軍の総大将である。もし首をとられたら、それで勝負ありとなってしまうのだ。余程の自信がないと、こんな真似は出来るものではない。
その自信が、自分たちの『力』に対するものなのか、それとも『読み』に対するものなのか。それは分からない。
ただいずれにせよ、その器の大きさが計り知れないとだけ分かる。言葉を換えると、これは己の部下に対する信頼か、読んだ俺という人物への信頼かという話に他ならないのだから。
こんな将の元で戦っているのだ。藤ヶ崎の軍が強い訳である。常勝している事にも納得がいった。
この器の十分の一でもお館様にあったならば、俺はもう少し戦えたかもしれぬ……。
思わず、そんな詮ない考えさえも脳裏をよぎる。
己の女々しさに嫌気が差してくる。どうやら、俺も大分参っているようだった。
そして、胸中が己への呆れで満ちた頃、周りの兵たちの歩みが止まった。もうここまで近づくと、辺りが暗くとも三人の姿も旗も、はっきりと見る事ができた。
思った通りに、そこには黒旗に描かれた金糸の鳳凰がはためいていた。暗闇の中、本当に鳳凰が飛んでいるかのように見える。
その旗を持っているのは、まだ十五ほどの、成人したばかりと思われる二人の若い男だ。二人とも体格は比較的立派だが、共にまだ幼さの残る顔を引きつらせている。無理もない。恐ろしくて堪らないのだろう。よく堪えていると思う。
一方……。
そんな二人に挟まれて、不敵な笑みを浮かべる若武者がいた。やはり神森武だった。
あらためて見ると、かなり若い。十七、八といったところか。
背丈は割とあるようだが、体の線は比較的細い。しかし、その体を真っ直ぐに伸ばして挑発的な笑みを浮かべたまま、こちらを見据えている。
あきらかに、歳に見合わぬ雰囲気を纏っていた。
そんな三人の前まで来ると、利宗と利歳は兵を止めた。そして、俺の為に兵を割ってくれる。神森武の前まで続く道を作ってくれたのだ。
俺はそこを通って、敵将の前まで進んでいく。ここまで来て気後れなどしていられない。そんな事をしては、勇猛で名を売る三森武士の名に泥を塗ってしまう。そんな事はできなかった。
俺と神森武の間が二、三間まで縮まった所で、歩みを止めた。そんな俺に、向こうから声が掛けられる。
「我が名は神森武。三森敦信殿、貴公がやってくるのを待っていた」
「三森敦信にござる」
万一に備えて三間近くの間を置き、俺は神森武に対峙した。神森武は、そんな俺を、静かに馬上から見下ろしてくる。
俺も、そんな神森武の目をじっと見つめ返した。俺たちは、しばらく無言のまま、ただ視線を交差させた。
しかし、神森武がおもむろに口を開いた。
「どうした?」
神森武は静かに尋ねてきた。ただ、その意味が分からない。
「どうしたとは?」
尋ね返す。
「何を怯えているのだ? 三森敦信ほどの猛将が」
怯えている? 俺が?
俺は、確かにお主を恐れてはいる。それは認めよう。が、今の俺の振る舞いのどこが怯えているというのか。
「……どういう事か?」
「もっと近づいてこればよいだろう。見ての通り、ここには俺たち三人しかいないぞ。お主の後ろには百を超える味方もいるではないか」
「…………」
「敦信殿。お主がその気になれば、いつでもこの首とれような。後ろに控えている味方もいらん。お主一人だけでも十分だろう。その手の朱槍を一振りするだけで事足りる」
そう言いながら、神森武は馬上から俺の右手を指さした。そこには、確かに我が愛槍が握られている。だが……。
「……一体、何を言いたいのだ」
苛立ちを覚える。神森武が、何を意図して俺を煽ろうとしているのかが読めない。
しかし神森武は、俺の問いには答えずに言葉を続けた。
「振らぬのか? その槍を一振りするだけで、お主は意気揚々と朽木の町に戻れるぞ。俺に、個人の武でお主に抗えるだけの力はない」
そういう事か。
「戻ってどうする。父が……三森の里が、お主に降った以上、もうあそこには我らの居場所はない」
「……そうかな? 里を捨てさえすれば、一時の立場くらいは保証されよう」
親や郷里を捨ててお館様を選んでさえ『一時』という事まで分かっていて、そう言うか……。
神森武は、俺の決断を探っているらしい。俺がどこまで腹を括ったのか。それを知ろうとしているのだろう。
ならば、これでどうだ。
俺は神森武を凝視したまま、手の中の愛槍を後ろ手で後方へと放った。
ドシャ――。
水気のある大地は、俺の槍を転がす事なく抱きとめてくれた。その音を聞き、俺は数歩、神森武へと近づく。
俺が槍を動かす仕草を見せた刹那、神森武の両脇に控える者らは、更に顔を強ばらせ、俺が近づくに至っては慌てながらも腰を落とそうとした。
しかし神森武は、ホウと微かに声を漏らす。そして、
「……流石よな。流石は三森敦信。そうでなくてはな」
と、先ほどまでの挑発するような笑みではなく、ごく自然な笑みを見せた。
……本当に怖い男だ。
心に冷や汗が流れた。目の前の男は、どう見ても歳は二十を超えていない筈だ。それでこれなのか……と。
「それで、我々をどうしたいのだ、お主は」
「分かっているのだろう?」
「いや、分からぬ」
即座に返す。もちろん、降れと言いにきた事は分かっている。だが、このままでは本当に良いようにされてしまう。なんとか、流れを引き寄せたかった。
そんな俺を見て神森武は、口の端を大きく上げてみせた。
そして、
「ふっ、そうか。分かった。では、答えよう。俺は、新たな『仲間』を迎えに出てきたのだ。だから、この通り。身軽なままで出てきたのだよ。仲間を出迎えるのに、刀や槍はいらんからな」
と、馬上で両腕を広げて見せる。
仲間を迎えにきた――――。
まだ降ってもいない者の前に、そう言って出てくる。
この男は、馬鹿か、大馬鹿かのどちらかだと確信した。
夜闇に浮かぶ三つの影を見た時から、神森武が俺たちを引き入れるべく動いたと察してはいた。だが、まさか神森武本人がこれほどに無防備なまま出てくるとは思ってもいなかった。
己の謀への自信、読みへの自信、そして、それを信じ抜く胆力。
この男は、俺を信じたのだ。己が読んだ俺を信じたのだ。
とんでもない胆力だった。信じる強さが計り知れない。
気圧されずにはいられなかった。それを取り繕い隠すだけで精一杯だった。
そんな俺の様子を見て神森武は、
「さあ、陣へと案内しよう。そこにもお主を待っている者がいる。太助、吉次。行くぞ」
と言って、神森武は俺の返事も聞かずにさっさと馬首を返した。両脇を固めていた二人は、慌ててその後を追う。こちらの様子を気にしながら。
武士の情け……か。
ゆっくりと馬の歩みを進める神森武の背中に、何かが見えた気がした。
「……っ。敦信様っ」
ふと気がつけば、駆け寄ってきた利宗が肩を掴み揺すっていた。
「お、おお」
神森武は、まだ二十間も進んでいない。惚けていたのは、ほんの一時だったようだ。
「で、どうすんだ? ついていくのか?」
利宗が率直に尋ねてくる。その横では、利歳も黙って俺の返事を待っていた。その手には、先ほど俺が放った朱槍が握られている。
「ん、あ、ああ。ついていく。父上もあちらにつくと決めたようだしな。ついていくしかないだろう」
俺はそう答えながら槍を受け取ると、皆を率いて、離れていく神森武の後を小走りで追った。
神森武は、本当に散歩にでも出たような気軽さで、俺たちを率いたままゆらりゆらりと陣へと向かった。
そしてしばらく歩き、進んでいた道のずっと先の方に篝火の光が見えだした頃、俺たちの……いや、俺たちの前をいく神森武の前に、陣の方から騎馬の集団が駆けてきた。
鳥居源太とその麾下の青龍隊だった。
鳥居源太は、近づく俺たちに横目をくれホッと一息をつくと、
「命には反しましたが、少々お帰りが遅かったので、信吾と相談して出てきてしまいました。申し訳ありません」
と、神森武に説明をしている。
気持ちはよく分かった。大将がこんな真似をしているのだから、そりゃあ配下としては気が気ではなかっただろう。この場にはいないようだが、犬上信吾とて飛び出してきたかった筈だ。
神森武は、そんな鳥居源太に、
「あ-、心配かけてしまったな。すまん。だが、この通りだ。俺たちは……っつーか、紅葉は賭けに勝ったよ。女の情念の勝利だね。さ、清信も心配している事だろうし、はやく戻るとしよう」
などと答えている。
紅葉……。この件には、あいつも絡んでいるのか。
突然、神森武の口から知った名前が漏れ心を揺らされた。
いきなり、戦まっただ中の敵陣中までやってきた紅葉。その後も、どうやら何かと世話を焼いてくれていたらしい。でなければ、俺の事で神森武の口からあいつの名前が出てくる訳がない。
あいつも、これと決めると頑固だからなあ。
税のごまかしを調査に来た時の事を思い出す。あの時も、出来る事ならば黙っていて欲しいと頼んだ俺に、それでは見つかりますよと工作を手伝ってくれた。そこまでしてくれなくてもいいと言っても、駄目だと言って工作してしまった。
そのおかげで俺は助かった訳だが、あの時だって紅葉はとんでもなく危ない橋を渡っているのだ。
多分、同じような事をしてくれたのだろう。
有り難い事だ。だが、こんな事をしていたら、いつかは命を落とす。現に、神森武には見通されている。
それを思うと、嬉しい反面、不安でならない。
これは、何とかしないといけないだろう。
俺は、話を終えて陣へと進み始めた神森武らを後ろから眺めながら、そう心に決めた。