幕 敦信(三) 国崩しの矢
父上は、二十五間(約四十五メートル)まで近づいてきて、病床に伏した身とは思えぬ、太く大きな声を張り上げる。
「金崎惟春は、忠義を尽くす我らの里に兵を向けた! 我らの誠は踏みにじられた! もはや、同じ母屋に眠る事適わず! 我らは惟春と道を違える事を決意した!」
利宗も、兵たちも固唾を呑んで、父上の口上に耳を傾けている。
やはり、そうなっていたのだ。紅葉の言葉を聞いても、朝矩様の言葉を思い返してみても、信じたくはなかった。だが、里に残っていた父上が出てきてそう言っている以上、もはや信じる信じないという話ではないだろう。もうすでに、現実の物となっていたのだ。
「我々も、郷里の為にと命を賭けてくれたお主らと刃を交えるのは心苦しい。……だがっ! 我らは三森の武士。真の武士である! その誇りにかける思いもあるだろう。故に、遠慮はいらぬ。お主らはお主らの思う通りにするがよい!」
思う通りにすればいいと言われても……無茶苦茶だ。これでは、そもそも選ぶ事など……ん? いや、待てよ。これでは選ぶ以前の問題だ。そんな事が分からぬ父上ではない。
そこまで思考が進んだ時、父上が俺の名を叫んだ。
「――――敦信っ!」
父上は、単騎前に出てきて、始めて俺のいる方をはっきりと見据えた。
俺は返事をする事ができなかった。だが父上は、そんな俺の状態を無視して話を進める。
父上は馬上にて長弓を構えた。そして、引き絞る。躊躇う事なく俺に向けた。
「儂の話は聞こえていたな。遠慮はいらぬ。『お前の武士道』を貫いてみせよっ!!」
そう叫ぶと、いきなり矢を放った。
矢は、病に冒された身で放ったとは思えない程の勢いで舞い上がり、微かな弧を描いて風を切って飛んでくる。
たった一本の矢。間も十分にある。本来ならば、脅威でもなんでもない。だが、この一矢に込められた父上の気迫が、俺に恐怖させた。
半歩。たった半歩ではあったが、半身になって思わず後ずさった。
そしてそこに、狙い過たず矢が降ってくる。俺の胴があったあたりを通り、地面に突き刺さった。
ぬぅ……。本気か、父上……ん?
見ると、地面に突き刺さった矢に紙が括り付けられていた。俺はあまりの事に動揺していたようだ。この程度の距離である。いつもならば、矢が放たれる前に気がついた筈だ。余程に、俺は動揺しているらしい。
しかし、気がついたら気がついたで、今度は別の問題を俺に突きつけてくる。
ぞわり……。
悪寒が走る。
決して、それを手に取ってはならないような気がした。
だが、そのままという訳にもいかなかった。俺は矢に括り付けられた紙片を解き、開く。そして、不幸にも己の感が当たってしまった事を悟った。
これは……。やはり、そういう事かっ。
不味い。
不味い、不味い、不味い、不味いっ!
頭の中が真っ白になる。そして、鳳凰紋の旗の下、馬上で笑みを浮かべる若い男の姿が脳裏に浮かんだ。
もう、迷っている時間もなくなった。
ここには、三森の里の兵だけではなく、朝矩様の所からお借りした兵もいる。俺は動揺し気づくが遅れたが、彼らの目には矢に括り付けられた文の存在がはっきりと見えていた筈だ。
「利宗っ!」
「お、おお!? どうした、敦信様?」
『文』を見ていた俺がいきなり顔を上げて呼びかけたら、そんな俺を見ていた利宗が驚き、目を見開いた。
俺はそんな利宗に構う事なく、ずかずかと大股で近寄り、その耳元で出来るだけ小さな声で呟く。
「利歳にも連絡して、三森の兵だけを集めろ。今すぐにだ。いいか? 三森の兵だけだぞ?」
朝矩様の兵は勿論の事、同影らとも道を違えるしかない。完全に後手に回ってしまった。もう俺には、他に選べる道はない。
「一体どうしたってんだ、敦信様。あの手紙にはなんて書いてあったんだ」
利宗も、父上のあの口上には心揺らいでいた筈だが、おそらくは顔面蒼白になっている俺の顔を見て少し冷静さを取り戻したようだ。いつもは押さえる側の俺が大慌てをしている様子に、逆に落ち着いてしまったとみえる。
「見ろ」
俺は矢に括り付けてあった『文』を、利宗に突き出す。
利宗は、その文を受け取り目を落とした。
「?? なんだ、これは? 何も書かれてねぇぞ」
利宗は眉根を寄せて、その『何も書かれていない手紙』の中に文字を見出そうとしている。
だが、何度見たって何かが見つかる事はないだろう。元から何も書かれていないのだから。これは父上ではなく、神森武から放たれた必殺の矢なのだ。
「そうだ」
「どういう事だ?」
「父上から矢文が放たれたのは、兵たちも見ている。無論、朝矩様からお借りした兵たちも、だ。敵方から文がもたらされた。朝矩様に追求されたら、俺はどうすればいい。この白紙の手紙を出すのか? そんな事をしたら、俺は勿論の事、お前たちの命もまずないぞ。父上のあの口上と、この白紙の手紙……朝矩様は、俺が本物の手紙を隠したと考えるだろう。間違いなく内通を疑われる。そして俺が疑われれば、里から連れてきたお前たちも一緒に疑われる。俺たちは、弁明も許されずに殺される」
「なんてこった……」
小声のまま早口でした説明だったが、利宗は理解してくれたようだった。ただ、説明は分かったが、それだけに今の状況に唖然としてしまっている。
しかし、時間が迫っていた。
「分かったら、利歳にも伝えて、目立たないように迅速に兵を纏めてくれ。もう、ここにはいられない」
「わ、分かった」
利宗はごくりと一つ喉を鳴らすと、顔を引きつらせたまま平静を装って俺の前からゆっくりと離れていった。
矢の一本でここまで追い詰められるとは……。なんて事だ。
離れていく利宗を見送って、視線を父上の方へと戻す。父上は、俺と利宗が話すのを見届けた後、ゆっくりと馬首を返して自陣――神森武の元へと戻っていく。
父上のあまりと言えばあまりのなさりように、頭を抱えたい思いで一杯になった。とは言え、これを考えたのは父上ではないだろう。こんな事を考え出せるような人物は、そうはいない。いくら父上でも無理だ。
神森武……。
恐ろしい。他に言葉が見つからない。
目の前ではためく鳳凰旗が、心底恐ろしい。
この日、神森武らは目の前に止まったまま、それ以上何も仕掛けては来なかった。ただただ、睨み合うだけの時間が過ぎていった。
すっかり日が沈み辺りが暗くなった頃――俺は利宗・利歳ら里の者たちと共に、俺は北門を出た。雲も厚く、ひっそりと逃げ出すには最高の夜だった。
「まったく。なんで、こんな事になっちまったのか……」
「とは言え兄者。あのままじゃあ、敦信様の言う通り、朝矩の野郎に殺されちまうぞ」
「分かってらあ」
夜陰に乗じて移動する中、利宗と利歳が小声で交わしている会話が聞こえてくる。
『この状況では何があるか分からねぇからなあ。あの神森武に誘い出されたに等しい状況だし、後ろからもいつ襲いかかられるか分からねぇ。納得いかなくても、今回だけは言う事聞いて下せぇ。刃を交える中でならともかく、こんな情けない状況で敦信様に何かあったら、大殿に合わせる顔がねぇ』
そう言って利宗に説得され、情けなくも四方すべてを兵に守られての逃亡劇となっている。
踏みしめる地面がやけに冷たく感じる。この辺りは空堀が掘ってあった辺りだから、本来ならば移動など出来なかった場所だ。しかし、現に今俺たちは、その上を通っている。鳥居源太に埋められたからだ。
もう少しうまくやっていれば、こんな夜逃げをするような真似をせずに済んだのだろうか。
いや、それはないか。
遅かれ早かれ、三森はお取り潰しとなっていただろう。その決定が下されれば、我々としてもそれだけは受け入れられないから、反旗を翻さざるを得ない。
結果は変わらなかったという事か。
無力。
己の力のなさを痛感させられた。そして、そんな思いに打ちひしがれていると、前を歩いている兵が足を止めた。
「何事だっ!」
小声ながらも、叱責する勢いで利宗が前を歩いている兵に確認している。
だが周りの兵よりも頭一つ背が高い俺には、前の兵が何故止まったのかが分かった。俺の位置からでは、かなり注意深く見ないと分からないが、少し向こうに三人分の人影が見える。
三つの影が並んでいた。真ん中にいる人物は馬に乗っている。その両脇に立つ者らは大旗を掲げている。
「……神森武」
俺には、そこに誰がいるのかが分かった。
暗くてはっきりとは見えない。だが、黒旗に金糸で描かれた鳳凰が、そこにはためいている。
そう、確信できた。