幕 信吾(一) 任命式 その二
しばらく膝を着いたまま待機していると、姫様と武殿が上に着かれる。その後すぐにたえ様が、次いで伝七郎様が登ってこられた。
そして、皆様方が岩の上に上がり所定の位置に着くと、伝七郎様は厳かに開始の声を発した。
「犬上信吾、鳥居源太、三浦与平を足軽大将へ任命する。千賀姫様より、お言葉がある。者ども謹んで拝聴せよ」
風に乗って、下の兵たちが鎧を鳴らす音が聞こえる。おそらく身を正したのだろう。
併せて、それを待っていたかのような間合いで武殿が声を張り上げた。
「犬上信吾、鳥居源太、三浦与平。面を上げよ」
「「「はっ」」」
武殿の言葉に合わせて、我々は伏した顔を上げる。
真正面には姫様が、その左後ろにたえ様がおられる。
そして、その二人のさらに一歩後ろで二人を挟むように、右に伝七郎様が、左に武殿が仁王立ちをしていた。各々刀の鞘尻を岩に着け、その柄尻に両の手を乗せる格好で、胸を張り背筋を伸ばすように立っていた。
そして、たえ様に背中を押されるようにして、姫様が少しだけ前に歩いて出る。
伝七郎様たちに色々教えられてはいるだろうが、姫様は何をしてよいのか、いまいちよく理解してないご様子だ。
右を見て左を見て、そして、前にいる俺たちをご覧になっている。きょとんとした表情が実に愛らしいが、小首を傾げられてなにか困ったような顔をされていた。
そして、何かを思いついたのか、急にうれしそうな顔をされた。
「よろしくたのむのじゃーっ」
姫様はいきなり頭を深く頭を下げて、我々に向かってそうおっしゃられた。
これには流石に驚いた。伝七郎様という変わり種をよく見知ってはいても、よもや主人に頼まれるどころか、頭を下げられるような事態は想定してなかった。
横で、やはりというか源太も与平も目を丸くしている。そりゃあ、そうだよな。こんな経験を持つ臣下など、他にいるのか探すのは大事よ。
でも……、でもだ。この幼い姫の精一杯の気持ちがこれなのだ。
横の二人にしても、それを感じとれぬ奴らではない。
それはとても尊いもの。我らが主の中に育っている宝物。俺たちは臣下として、何よりもそれを大事にすべきであり、また敬意を払いたい。
たえ様は慌てて姫様に駆け寄り、その下げた頭を上げようとなさっている。
無礼があってはならぬと必死に耐えてはいるが、正直笑いを堪えるのが大変だ。
伝七郎様は全く体勢を崩さずに顔だけで苦笑されている。武殿も同様に全く動いてない。こちらも暖かい目で姫様を見ていた。
確かに主の振る舞いではなかったかもしれない。しかし、我々にとって、それはどうでもよい事。それ以上のものを頂けたと受け止めている。
その後は、特に何事もなく粛々と式は進んだ。
伝七郎様からも軍の大将としての祝辞を頂き、無事式は終わる。
つまり、今この時から、俺らは水島の将になったという事だ。
式も終わり、高台よりいったん全員降りる。
この後、すぐに合戦だからな。
姫様は上がってきた時同様、武殿が抱いて降りている。
伝七郎様はすでに降りて、登る時と同様、万が一の事態に備えていた。
梯子を下りる途中、姫様は武殿と何事か言葉を交わされている。不安そうな表情で武殿に何かを訴えているようだ。そんな姫様に、武殿は笑って何かを答えていた。
そして、下に降りると、武殿はとても優しい目をしながら姫様の頭に手をやって、少々乱暴に撫でていた。
姫様は止めろと言いながらも、うれしそうにはしゃいでいる。
ただ、武殿。たえ様の前ではやめた方がよいかもしれないと具申させていただきます。とても怖いです。
全員下に降りた所で、武殿、伝七郎様、そして、俺たちの三人は整列している兵たちの前に移動した。
姫様とたえ様は兵たちの横に固まって並んでいる侍女たちの方へと向かっている。
「では、三人ともおめでとさん。これで名実ともに将軍だ。気張ってくれよ?」
改めて武殿はそう我らに祝福をくれる。ただ、もうすでに武殿も伝七郎様も先程のような暖かい表情はしていない。きりりと引き締まり、視線もすでに鋭くなっている。明らかに戦う男の顔だ。
「「「はっ。必ずやご期待に応えて見せます」」」
俺も他の二人もそれを感じとり、所作を引き締め、将として応える。
「じゃあ、伝七郎。号令を……」
武殿は伝七郎様を振り返ると、大将として号令をかけるように促す。
しかし、伝七郎様は軽く笑い、首を横に振った。
「いえ、武殿。今回は貴方がかけるべきだ。貴方のこの水島での初陣です。見事果たされるがよろしいでしょう」
伝七郎様は、己の中における武殿の立ち位置を、もうすでに決定されたとみえる。総大将である己を支える唯一無二の相方。それは今の伝七郎様にできる最高の信頼の形だろう。
これは、武殿を認めた証。彼の名と地位を全軍に知らしめる行為。でも、それだけでもない。
これは兵を戦に駆り立てるという事を受けとめてくれという伝七郎様の願い。我が相方ならば、命を背負うという事を頭や心で知るばかりではなく、己のすべてで背負ってみせろという言葉なき薫陶。
そう言われた武殿も伝七郎様を一瞥すると一つ頷く。なぜを問わない。そして、丹田に力を込めるように、一つ大きく大気を吸い込むと声を張り上げた。
「ん。では、各々方っ。いざ参らん。我らが約束された勝利の為にっ。決定された敗北を奴らに告げる為にっ! 我らは修羅とならん。完全なる勝利を我らが主に捧げる為にっ!!」
「「「はっ!!」」」
俺たちは、彼の気迫に引きずられ、自然にそれに相応しく応じる事となった。
彼が分からなくなる。これはどうみても歴戦の将の風格だ。彼はどこかで将をやっていた経験でもあるのか?
いや、別に大した事ではない……か。しいて言えば、彼が本物である可能性が更に跳ね上がっただけだ。
それに伝七郎様が己の相方にと選ぶような方なのだ。むしろ、それでこそと言える。
兵たちもその号令に引きずられ、戦意を高めていく。
槍の石突で地面を叩き、足を踏み鳴らして、戦意を昇華させていく。
「えいえいっ」
武殿が最後の掛け声を放った。
「おおおおおおおおぉぉぉぉぉっっっ!!!!!!」
峡谷に水島の闘志が渦巻き轟く。
「出るぞっ!」
武殿の号令を合図に、俺達水島の軍は戦場に向かって移動を開始した。