幕 敦信(二) 前哨戦を終えて
朽木の町の北門に築いた柵――その内側に陣取り、戦場となっているだろう方角を眺めていた。
霧が晴れかけている……か。
小隊で釣り出して三森の槍隊で挟み、神森武の先遣隊を潰せたのは幸運だった。行方知れずになっていた鳥居源太が、いつの間にやら神森武と同流していたのには少し驚かされたが、こちらもうまく対処できた。
今日の霧は、奴らよりも俺たちの方に味方をしてくれた。その霧に紛れて、南の兵を北に持ってこられたし、何より地の利がこちらにあったので、それを遺憾なく発揮する事が出来た。なればこそ、霧に紛れて鳥居源太とその青龍隊をあの先遣隊からうまく引き離せたのだ。これが、先ほどの戦いの勝敗を決めたと言っていいだろう。
その霧も晴れようとしている。南には佐々木伝七郎の大部隊もいるし、北も次は神森武が直々にやってくるだろう。
次こそが本当に正念場となる。
あとは……。
考えまいと努力しているのだが、先ほどからうまくいかない。
立ちこめていた霧の向こう――それが晴れかけていたあの時、落とし罠を大量に作ったあの場所にいたあの影……間違いなく紅葉のものだった。
あの忍び装束は神楽のものだ。覆面もしていたが、あの体の線に見覚えがある。
その影は、真っ直ぐこちらを見ていた。
神楽の造反は聞いている。
あってはならぬ事だ。だが……、正直いつか起こったであろう事が、いま起こっただけだとも思う。
惟春様が、もう少し重臣以外の臣下や領民を顧みるお方であったならば、こんな事は起こらなかった筈だ。
まして、あの者たちは武士ではないのだ。『武士の本分』など元から持ち合わせていない。その事をよくよく理解しているべきだった。
あの影――紅葉は、おそらくこちらの偵察にやってきたのだと思う。
であれば、まず間違いなく俺がこちらにいる事にも気づいた筈だ。
紅葉は手練れだ。三森で初めて出会ったあの時も、俺に全く気取られずに俺を探り続けた程なのだから。霧で多少見づらくなっていようが、俺があいつの姿を確認できている以上、あいつの目には俺の姿などはっきり映っていたに決まっている。
一人二人と兵があいつの姿に気づきだし、こちらが騒がしくなった所で、あの影は晴れつつある霧に紛れるようにして姿を消したが、その時まであの影は、姿を隠そうともせずにただ霧の中で佇んでいた。まるで、自分に気づけと言わんばかりに。
あいつがあそこにいたとなると、おそらくは他にも神楽の者たちもあの霧の中に紛れていたに違いない。こちらが門前に大量の罠を仕掛けて待ち構えている事は、神森武に伝わってしまっただろう。
まあもっとも、南門で佐々木伝七郎を相手に、その先鋒を落とし罠にかけているので、神森武程の者が同じ罠にかかってくれるなどとは考えていなかったから、それは別に構わない。あの大量の罠は、堀や土塁、柵などと同様に、敵を少しでも長く弓兵の射撃に晒す為のもの。神森武あたりならば、それも読んでくるだろうが、こればかりはどうにもならないだろう。現に、そこにあるのだから。この町をとろうとするならば、身を矢に晒しながら町に取り付くしかない。
武士にあるまじき戦い方ではある。だが、南門と合わせれば三千ちかくなるような大軍を相手に二千足らずになってしまった我らが戦うには、こうするしかない。……実際に俺が使わせてもらえる兵はもっと少ない訳だしな。是非もなしだ。
そんな事を考えているうちに辺りを覆っていた霧はすっかり晴れ渡った。少し離れた所に、先ほど我々が打ち破った敵部隊の亡骸が街道上に折り重なるようにしてうち捨てられたままになっているのが見える。
そして、そんな敵の大量の亡骸を縫うようにして五十ほどの騎馬の一隊がこちらに駆けてくるのが見えた。
ん? 同影か? だが、なぜあちらから駆けてくるのだ?
同影は青龍隊を追って西へと向かった筈である。打ち破られた味方をつれて逃げる鳥居源太を追ったのだから間違いない。
それが、北へ伸びている街道を通って戻ってくる……なんとも妙な話だった。
「……俺が直接出迎える。まだ北門は開けるなと伝えよ」
俺はすぐに、馬防柵の内側へと続く仮門の兵へと伝令を走らせた。おそらくはないと思うが、万が一の事もあるからだ。実際に、神森武は神楽を寝返らせているのだから。
「なぜ入れねぇんだ!」
いくらかの兵を連れて北門前に作った仮門の前まで出向くと、すでに同影の部隊は到着しており、門を閉じたままの門前の兵たちに向かって気色ばんでいた。
「……どういう事か説明してもらおう」
騒ぐ配下の騎兵たちの後ろから状況を見守っていた同影が、鋭い目つきで門の内側にいる兵たちに尋ねる。その口調は静かなものだったが、少々の怒気をはらんでいた。
長格の兵が、その迫力に怯みながらも応えた。
「は、はっ。申し訳ありません、同影様。先の戦のせいで、少々命令が前後しているのです。いま私どもは、何があろうと決して門を開いてはならぬとの命を受けており、それが解かれていないのです」
しどろもどろながらも、機転の利いた返答をする。兵が将を止めるなら、こう言うしかないだろう。……まあ、それが通じる者などごく少数だろうが、それでも開けない言い訳をするならば、これしかない。
朽木の町の門前は極めて重要な場所である為、三森の里から連れてきた兵を配している。だから、他の金崎家の兵たちよりもずっと忠実に俺の命を守ってくれているのだ。
兵の言葉を聞いた同影は、すうっと目を細めた。だが、それだけでそれ以上は無理強いをしようとはしなかった。
「……ふん。で、いつになったら、我々は中に入れるのだ?」
「はっ。敦信様がこちらにおいでになるとのお話しですので……」
必死で言い繕ってくれている。
俺はすぐに何食わぬ顔で、その場へと近づいていった。
「どうしたんだ?」
「あっ、敦信様」
後ろから突然声を掛けられた兵は、驚いてこちらを振り返った。
「…………」
同影の奴も、無言でこちらに視線を向けてくる。奴の配下たちも、暴言を吐いてくるような事こそないものの、例外なく不機嫌そうな顔で、黙ったまま成り行きを見守っていた。
「なんで門を閉じたままなのか?」
俺は惚けて、先ほど同影とやりとりをしていた長格の兵に尋ねた。
「はっ? あ、はい。先ほどの戦でいただいた『命があるまで絶対に門を開いてはならぬ』との命が解かれていなかった為、同影様のご帰還にも門が開けずにいたのでございます」
うまく察してくれと言わんばかりに、目で訴えてきた。
「なんと……」
なるべくわざとらしくならないように気をつけながら、俺は話を合わせる。
同影は、そんな俺たちをずっと無言のまま見つめていた。言葉通りに受け取ったとは思えないが、俺が出てきてそう言っている以上、少なくとも表面上はそういう事にするしかないと理解したらしい。
「……で、我らはもう入れていただけるのですかな?」
「お? おお、おお。勿論だとも。すまなかった。お主は鳥居源太を追って西に向かったと聞いていたのでな。『北』からこちらに向かう騎馬の一団があると聞いて、急いで確認の為にやってきたのだが……。いや、丁度良かった。確かに先ほどの戦で絶対に門を開けてはならぬと命じたまま忘れていた。俺の手落ちだ。許してほしい」
俺はそう言いながら手に握った槍を、同影に見せた。と、同時に同影とその手下たちの挙動に目を配る。どうやら杞憂だったようだ。
同影とその配下たちは、門が開くのを待つ間も不機嫌そうにしていたが、それだけだった。