第二百三十八話 読み読まれ でござる
「奇襲があるかもしれぬ。周囲への警戒は常に怠るな! 足下にも注意しろ! 崩れ落ちるかもしれぬぞ!」
重秀が、先ほどから朱雀隊の皆に注意を喚起し続けている。
半次とその配下に道案内をさせ罠を警戒しながら、俺は三輪と榊の百人組二組のいる場所へと急いだ。先ほどの報告では、こちらが押しているという事ではあった。しかし、その後の連絡が来ていない。本当に押しているならば、もう次の局面の報せが届いていても不思議ではない頃なのである。
もう間もなく夜明けを迎えようとしている。
だが、未だ霧が深い。もう少しの間は、こちらの姿を隠してくれるだろう。それはつまり、敵の姿も隠してしまう事にもなる訳だが、不意打ちに適した条件である事には違いない。
「重秀。そろそろ音に気をつけろよ。周りが静かである分、思いの外遠くまで届くぞ。兵たちにも徹底させてくれ。音で気づかれたら、折角の奇襲も台無しだ」
「はっ! 者ども、極力音を立てない様に移動しろ! 勿論、私語は厳禁だ! 以降の指示は、五人組単位で伝達するから、各組の組長の指示に従え」
俺の言葉を受けて、重秀は即座に指示を出す。その重秀の声がデカかったりするのはご愛敬だ。だが朱雀隊の者たちは、その指示に首肯することで了解を示し、以降は再び早朝の静寂が辺りを満たした。
俺は、後ろに控えている四組の百人組にも同様の命令を与えるべく、伝令を走らせる。
そして俺たちは、そのまま深い霧の中を街道に沿って南下していった。しかし、朽木まであと半里――二キロほどとなったところで鬼灯が異変に気づく。
「……これは。武様、隊を止めて下さい」
俺にそう言うと、彼女は耳に手を当てて遠くの音を聞き分ける様な仕草をした。
「お? おう。全軍停止せよ」
「全軍停止」
重秀が俺の命令を部隊に伝播させると、隊が止まる。
すると、より静かになり、俺の耳にも微かな戦の喧騒が届き始めた。
それは怒声と――悲鳴。
白く閉ざされた視界の向こうから、想定外の味方の声が上がっていたのだ。確か先ほどの報告では、三輪・榊の部隊は押していたのではなかったのか。それが、どうして押されている?
ただ、俺の耳ではそんな気がするという程度にしか聞き分けられない。だから、もしかしたら俺の勘違いかもしれない。
素直に鬼灯に尋ねる事にした。
「これは悲鳴……であってるか?」
彼女は、視力も勿論だが聴力も常人とは違う。俺と比べれば、こちらの一般人でもはるかに上だろうが、忍びとしての修練を積んだ鬼灯は、そんな肉体チートどもと比べても更に上だ。俺には悲鳴の様な気がするという程度の音でも、はっきりと声として聞き取れているかもしれない。そう思って聞いたのである。
「……ですね。お味方は逃げ惑っているようです。それに縦横無尽に駆けるらしい馬蹄の音も混じっています。おそらく同影でしょう。確認されている騎馬の部隊は、あの者の率いるごろつき共のみですから」
あのオッサンか。確かに、部隊としての騎馬隊は奴の部隊しか確認されていない。
となると、マズイな。道永は、元はそれなりの地位にいた人間だ。同じ将と言っても、百人組の組長たちでは奴の相手は荷が重すぎる。
「っちい。助けにいかんとまずいな」
思わず舌が鳴り、そう呟いた俺に八雲が進言してきた。
「ですが、この霧では下手に突っ込むのは危険です。罠があっても避けられず、仮になくても馬が縦横無尽に走る音がするという事は、そういう場所での戦闘になっているという事になります。源太さんの青龍隊か、武様の朱雀隊でなければ、走力で負けてしまうでしょう。かといって、この状況のはっきりしない状態で精兵部隊を突っ込ませては、何かあった場合、後々の影響は甚大です」
目の前にいる八雲の顔すら、はっきりと像を結んでいない様な霧の中である。夜の帳が振り払われる時間になりつつはあるが、視界の確保は絶望的と言えるだろう。当然だ。奇襲をかける為に、そういう時間帯と状況をわざわざ選んでやってきたのだから。
裏目った……。
そんな苦々しい思いがこみ上げてくる。
だがそれと同時に、ちょっとした嬉しさも沸き起こった。八雲の成長が嬉しかった。うちでは貴重な、智将の卵である。嬉しくない訳がなかった。
少しずつ頼もしくなっている。心配そうな表情をしながらも真剣に進言してくる八雲を見て、心からそう思った。
二水の頃と比べると雲泥の差だった。
部隊を率いる経験を積ませたのは間違っていなかったらしい。この八雲にしろ、吉次にしろ、太助のおまけでくっついてきただけの人間の筈だった。にも関わらず、二人とも、いや太助を含めれば三人というべきだが、本当に輝きを放ち始めている。今なら、皆ダイヤの原石だと確信できる。
俺はそんな密かな喜びに胸を熱くしながらも、馬上の俺を見上げてくる八雲に向かって涼しい顔をしたまま言った。
「だが、なんの手も打たずに、ただ指を咥えて見ている訳にもいくまい。兵に死ねと命じるのは将の務めだが、兵を犬死にさせるのは将の恥ってものだろう」
「それはそうですが……」
八雲とて、味方を見捨てる事をよしとしている訳ではない。それは聞かずとも分かる。この状況で闇雲に突っ込んだら、流石にまずくないかと懸念しているだけだ。そして、それは正しい。
「なあ……姐さん。どんなんなってるんだ?」
眉根に皺を寄せながら聞き耳を立てている鬼灯に、太助が尋ねる。こいつもこいつで、本当に肝っ玉が据わってきたというか、以前ほど狼狽えたりしなくなっている。
「……あまり良くないね。――――武様っ」
目を閉じて耳を澄ましていた鬼灯は太助の言葉にカッと目を開くと、すぐに俺を振り返った。
「どうだった?」
「どうやらお味方は一方的にやられている様子です。声だけからの判断になりますが、すでに部隊としての体裁はなく騎馬の部隊に各個追い立てられているように思えます」
……すでに壊走。バラバラで狩られている状態。今そうなっていては、もう流石に間に合わん。一応救援に行くとしても、部隊としては死んだものとして考えないとマズイか。
軍師としての俺がものを考え始める。頭の中で、人が人ではなくなっていく。人の心を失い、何もかもが数字になる。損得勘定を含めた『計算』が、迅速に脳裏を駆け巡る。
「……そうか」
俺はただ一言だけを口にし頷いてみせたが、鬼灯は少し自信がなさそうに言い淀みながらも、更に言葉を足してきた。
「それと――――」
「ん?」
「三森敦信がこちらに出てきているようです」