幕 信吾(一) きよ その二
その後、戦から戻って妻に無事な姿の一つも見せないとはこれ何事かと、それはもう烈火のごとく怒られた。終いには泣かれ抱きつかれて、俺はその晩、陣へと戻れなかった。
確かに俺も迂闊だったし、反省するしかない。
ただ、色々有りすぎただけに少々情状酌量もしてもらいたかった。でもまあ、これは男の理屈だ。
いくら気が強くとも、根が優しく世話焼きのあいつが心配もせずにいられる訳がない。それを俺は誰よりもよく知っている。そして、知っているなら、それを考慮に入れておくべきだった。
与平に言われた時に素直に行っておけば、こんな事にもならなかったな、と少々反省せざるをえなかった。あの後の急展開と忙しさのせいで、こうなってしまったのだから。
ちなみに賭けは拳と言った兵の勝ちだ。腰の入ったいいのを一発もらい脳天が痺れた。
陣からそう遠くない森の中、大きな木の根元にあるうろで俺達は一晩を過ごした。枯草の床は快適とは言えないが、一夜の褥としては十分なものだった。
朝日が差し込み、その光で目が覚める。きよも横で閉じた瞼をぴくりぴくりとさせていた。
「おはよう。こんな寝床だが、よく眠れたか?」
「ん……あ。お前さん、おはようございます。ごめんなさい。私寝坊したみたいね」
さんざん怒って泣いて、抱き合って、気分がすっきりしたのか、きよの奴は朝方にはいつものあいつに戻っていた。むくりと体を起こすとそそくさと少々乱れた衣服を直している。
「いいさ。そういう事もある。気にするな」
「ごめんなさい。それに早く戻らないと。食事の支度もあるし」
きよは昇る朝日の高さを見て、そろそろ仲間の侍女たちが起きだす時間だと気づいたのだろう。慌てている様が、いつになく面白い。
「くっくっ。まあ、あからさまなのもなんだからな? 早く戻るといい。俺もしばらくしたら戻るから」
流石に一緒に帰ってそこを見られたら、ちょいとばかり体裁が悪い。
「もう。でも、慌ただしくてごめんなさい。それじゃあ、先に戻らせてもらうわね?」
「おう。距離はないが、気を付けていけよ?」
「ええ。お前さんも気を付けて戻ってきてね?」
「おう」
小走りで陣へと戻るきよを、手をひらひらと振って送り出してやる。
ふう。さて、こっちも戻る現場を見られる事だけは回避したいな。今更ではあっても、そのくらいの体裁は整えておきたい。
早いとこ俺も戻るか。
「よっ。おはようさん。信吾。ずいぶんと遅いお戻りで」
こっそりと陣に戻った筈なのだが、ここの所ねぐらにしていた場所に着くと同時に横から声がかかる。
与平の奴がにやにやと嫌な笑顔を浮かべながら体を起こし、そう声をかけてくる。どうやら、いきさつは源太から筒抜けのようだ。
「おかげさんでな。夫婦水入らずの時間と女房の右拳を手に入れる事が出来たよ」
「おおっ。今回は拳骨か。流石はおきよさん」
何が流石なのかと疑問が浮かぶ。しかし、これを口にしてはいけない。奴の顔を見れば、それは明らかだ。
獲物を狙う野犬のような顔をしている。いや、もとい、魚売りの籠の中身を狙う野良猫のような顔だ。
「……ふわぁああ。ああ、信吾戻ってきたのか。おはよう。昨日はすまなかったな」
「ちょっと参ったがな。まあ、仕方ない。一杯ただ酒が呑めるって事で、自分を慰めるしかないな」
与平と下らないやり取りをしていると、近くで寝ていた源太も目を覚ます。体を起こして座ったまま腕を天に突き上げている。そして、思いきり伸びをしながら、詫びを入れてきた。
まあ、元はと言えば俺が悪い話であり、源太はとばっちりを食った格好だ。
しかし、俺らの中でこれは別に理不尽でもなんでもない。なぜなら、こんなのただの理由づけだからだ。その時金持ってる奴に集る。それが俺らの常識だ。
「わかった、わかった。あ、そう言えば、おまえ帰ってこなかったから、まだ知らんだろう? この後、将軍の任命式やるらしいぞ。いつ始めるのかは、また連絡するとの事だったが。昨晩、伝七郎様から連絡された」
のびをしたそのままの格好で、源太は伝七郎様からの連絡を伝えてくる。
「そうか。やはり、本気でそうする気か……。いや、今更だけどな。武殿が我々にそう言った時、間違いなく本気だった。俺はそう感じた。そして、そう言われて作業の陣頭指揮も実際に執った。しかし、それでもなんか現実味がないのも事実だ。だって、農民の俺らが、いきなり武将だぞ?」
「ふわああ……、まあね。それは俺だって同じだよ。信吾だけじゃなくね。源太もそうだろ?」
「まあな。とは言え、戸惑うなと言う方が無理な人事だろ?」
胡坐をかいたまま、でかい欠伸をしつつ与平が同意する。源太もそれに続いた。
まあ、それはそうだろう。これで戸惑わないとか普通の神経ではない。逆に言えば、俺らの感覚は普通人という事だろう。
となると、あの武殿は何人になるんだ? 明らかに俺らより負担のかかる位置に突然配されたようなものなんだが、普通に馴染んでいる気がするな。それとも馴染んでいるように振る舞っているのか……。
どっちにしても普通じゃない事だけは確かなようだ。
「俺が言い出した話ではあるが、いつまでも悩んでいても仕様がないな。俺らも腹を括って、将として参戦するまでだ。顔洗って、飯食って、準備するぞ」
両の手で己の頬をばしばしと二度ほど強く叩き、喝を入れる。
「ま、そうだな。悩んでも仕方ない。やるまでだ、な」
源太は目を瞑り、軽く首を二度ほど振る。そして、ゆっくりと立ち上がると汲み置きの水がある方向に向かって、そのまま歩く。歩調を合わせて、俺もそれに続いた。
「おお、気合い入ってんね? 待てよ、信吾、源太。俺も行くよ」
そして、与平も跳び起きるように立ち上がると、小走りに俺たちの後を追ってくるのだった。
顔を洗い食事を摂った後、伝七郎様の口から全軍に、将の任命式を執り行うと正式に発表された。
もうすでに陣頭指揮をとったりしていたので内容は周知ではあるが、これが正式な発表となる。
食べ終わると、俺たちが罠を用意したあの谷道の入り口へ兵を移動するよう武殿より言われた。式の後、そのまま戦場に向かうので、そのように準備してくれとも。
俺たちはその指示内容に従い兵に戦闘準備をさせ、谷の入り口へと移動し、そこに整列させたまま待機させる。
そして、俺たち自身もそこで姫様らが到着なされるのを待っていた。