第二百三十四話 天の時 でござる
あまり時間をかける訳にもいかない。かと言って、無茶な力攻めをしたらただでは済みそうにない。そんな状況に、俺は神楽の里を拠点として、北は笹島にいる兵を警戒しつつ、南西にある朽木の町を睨んでは天の時を待つ事にした。
伝七郎も三沢大橋を渡った先に敷設していた陣を引き払っている。すでに北上を済まし、朽木のある盆地の入り口近辺に再度陣を敷いて時を待っている。伝七郎らの北上にあたっては、三森敦信の度重なる奇襲に晒された様だが、なんとか大きな損失を出す事もなく無事に目的地に到着したとの報せがこないだあった。
これで現在俺たちは、南と北東から朽木を挟んでいる格好になっている。
そして俺と伝七郎は、とある日を待っている。
発端は、伝七郎から届いた書状だった。同影こと八島道永について書かれていた。予め鬼灯より話を聞いていた俺にとっては真新しい情報ではなかったが、信吾がすでに直接奴と出くわしたそうで、伝七郎はかなり驚いたようだった。
そのせいで、すぐに俺のところへ、追加の報せとして書状が届けられたのだ。
鬼灯よりも聞いていたが、俺はあのおっさんにそうとう恨まれているようだ。奴は信吾にも、俺がどこにいるのかとわざわざ尋ねたらしい。
道永自身は、野盗の様な騎馬の部隊を率いているという。鬼灯に確認をとった所、その部隊は惟春直々に道永に与えられたものだそうだ。実情は正規軍の問題児らを押しつけたのではという話だが、道永のおっさんはこいつらを手なずけてしまったとの事だった。俺への恨みが強すぎて、戦いで使えれば他の細かい事はどうでもよかったようで、逆に道永のそのスタイルが正規軍に合わなかった者たちにはジャストフィットしてしまったのだろう。結果としてあのおっさんは、ほとんど野盗もどきではあるものの、しっかりと腕の立つ俺を殺す為の兵隊を手に入れたのだ。
そんな訳で、念には念をと伝七郎は俺に警戒を呼びかけてきたのだ。
朽木の町は周囲が要塞化しており、そこに勇将・三森敦信がいる。そして、俺を心底恨むかつての水島の猛将がごろつき集団を率いて、遊軍よろしく俺の首を虎視眈々と狙っている。
まともに相手などしたくはなかった。面倒臭すぎる上に危険である。
そこで俺は一計を案じる事にした。
奴らを無力化し、こちらの被害を最小限にする為に。今俺たちは、それを可能にする『天の時』を待っているのである。
「そろそろかね……」
ここのところ雪がぱらつく日が多かったが、今日は少し雲が薄くなっている。蒼月の屋敷の縁側から、俺は空を見上げていた。こんな所からではなく庭に降りた方が空を見上げるにはよいのだが、如何せん身の安全が保証されない庭なので、必要もなくあまり降りたくはない。
「そう……ですね」
いつも側に控えてくれている鬼灯が、俺の呟きに答えた。彼女も空を見上げていた。
朽木は盆地に開けた土地である。そして今、季節は冬。
俺たちは、天然の煙幕ができる日を待っていた。霧である。
昔、厨二な病気に嵌まって使えない知識を溜めていた頃に読んだことがあるのだ。冬の晴れた日、熱の放射が起こり地面が冷える。それと水蒸気を多く含んだ空気が接すると、放射霧と呼ばれる霧が発生する。これは盆地などで起こりやすい。
戦で活用できれば、如何にも妖術っぽい。
当時の厨二力全開の俺は、これは絶対覚えておかないといけない知識だっしょーと、何も疑わなかった。実際の所、こんなどうでもいいニッチな知識よりも、教科書の文言の一つでも覚えた方が一般的には役立つ訳であるが、こうして極めて特殊な人生を送る事になる奴も現に存在している訳で、何が後に役に立つのかは、なかなかその時には分からないものである。
そして俺は、この知識を今回使う事にした。
ただ、そう決めても大きな問題が一つあった。
ざっくりと放射霧と呼ばれる霧の発生メカニズムは覚えていたが、実際の戦に取り入れるには、もっとこの地の気象に詳しい人間が必要だったのだ。
だが、人間ツイている時はとことんツイているものである。
その人間は側にいたのだ。
神楽だった。彼、彼女らは忍びだけに、そういう土地の情報に精通していた。そこに俺の知識を合わせれば、こちらに『天の時』を呼び込む事も不可能ではなかったのだ。
最初、蒼月に相談に行って、『冬の霧』に関する話をした時には、ずいぶんと驚かれたものである。彼らは、その土地に根付いて暮らす中で感覚的に、『晴れる』『雨が降る』『嵐が来る』などといった事を察せるように訓練するのだそうだが、それを知識を背景としてピンポイントで尋ねられるとは思わなかったそうだ。
蒼月に唸られ、同席していた鬼灯にもやたらと感心され、少々小っ恥ずかしい思いをしたが、結果として神楽に頼ったのは大正解だった。
そろそろ来る筈だ――という、蒼月らの解答をもらえたのである。だから俺は、その旨を伝七郎にも連絡し、次の早朝霧が出た日に朽木を挟撃すると決めていた。
本隊こそはまだ拠点から動かしていないが、俺たちのところからも、すでに源太が出ている。伝七郎の所からは信吾が出ている筈だ。そして、それぞれ朽木の手前五里のところで陣を敷いて待機している。
信吾の方には千、源太の方は七百いる。陣敷設の為の第一陣としては十分な数だろう。
「明日はまだ雲が残りそうですが、明後日辺りは晴れ渡るでしょう。武様の話と合わせれば、そろそろ頃合いという事になるかと。また私どもの感も『そろそろ』と申しております」
鬼灯は空を眺めて注意深く思案した後、俺の方を向くと膝を折った。そして、頭を下げてそう答える。意外に律儀さんで、鬼灯はずっとこの態度である。そのうち直す等と言っていたのだが、なんとなくこれで落ち着いてしまいそうな気がしてならない。
まあ、本人がそれで楽ならば俺がどうこう言うべき事でもない。そもそも悪い訳ではないのだから、文句を言うのはお門違いというものである。
「そっか。信吾と源太の二人なら、うまく息を合わせてやってくれるだろう。俺たちも後詰めの準備をしておこう。伝七郎の方は、こちらよりは近いし目の前で信吾が開戦することになるから、それを見て動くだろうしな」
「はい」
「それにしても、三森敦信ってのは予想以上だな。信吾や源太が目の前に姿を見せてもぴくりともしねぇ。金崎の凡将どもなら、顔をまっ赤にして飛び出してくるのが普通だろうに。……もっとも、その筆頭格である今回の大将殿は、三沢大橋の大敗で逆にブルって引きこもっているようだが」
三森敦信にすべての責任を放り投げている川島朝矩。俺が奴を小馬鹿にして笑うと、鬼灯は真顔でこくりと頷いた。金崎家の間抜けな重臣どもに苦労させられた身としては、三森敦信の苦労が手に取る様に分かるのだろう。
まあ、当事者でなくとも誰にだって想像できるが。
おそらく川島朝矩は今頃、自身は奥に引っ込んだまま金崎家の武士の心得を説き、三森敦信に打って出て破れと喚いている筈である。俺自身も、そうなってくれればなお楽で良いと考えて、わざわざ信吾と源太に接近させて挑発しているのだから。
そして『川島朝矩』に仕掛けたその策は、しっかり成功しているようだ。外に張っている兵数に変化がないと源太から報告も来ているし、多分間違いないと思う。
だが、肝心要の『三森敦信』への策は、効果は発揮している様子はない。三森敦信は打って出てきていない。そんな命令に従えば大変な事になると、腹を決めて川島朝矩の命令を突っぱねているか、うまくのらりくらりと交わしているかしているかのどちらかだろう。
三森敦信が、戦だけの将ではなさそうだというのが、このあたりからも見て取れる。
「はい。ですから重々に用心下さいませ。それに、彼の者の他にも今回は同影――八島道永が武様の首を狙っております」
「そうだな。気を引き締めてかかろう。プロポーズだけして、そのまま死ぬ訳にもいかんしな。あんな爺に俺の幸せ計画を邪魔はさせん!」
思わずに作ってしまった握り拳を、彼女の顔の前に突き出して見せる。ここまで力説するつもりもなかったが、やってみたら存外力が入りすぎてしまった。
そんな俺を見て、鬼灯は笑みを浮かべながら尋ねてくる。
「ぷろぽーずとはなんなのです?」
「婚約の申し込みだよ。菊にね。出撃する前にね、嫁になってくれと申し込んだんだよ」
「それはまた、ずいぶんと庶民的な事をなさったのですね。菊姫様ほどのお方ならば、父親である永倉様の所に申し込まれればよろしかったのでは? 武様ならば、断られる事はまずないと思いますが」
俺の返答に、鬼灯、少し驚いた様な顔をして言う。
「それはそうなんだけどさ、まあなんて言うか俺のこだわりっつーの? 俺のものになって下さいってのだけは、直接本人に言いたかったっつーか……」
ポリポリ……。
改めて口にすると、少々気恥ずかしかった。
俺から見ると鬼灯は、年齢的には年の離れた姉ちゃんみたいなものである。そのせいかは分からないが、思いの外するっと本音が口からこぼれてしまっていた。
で、その結果なのだが。
それを聞いた鬼灯は、一瞬目を丸くしたと思ったらプッと吹き出しおった。
笑われた。大笑いされた。
思わず、カーッと頬が熱くなる。
な、なんで? 確かにちょっとあれだとは思うけど、そんなに変だったか?
心に動揺が走る。
「ぷ。くくっ。……も、申し訳ありません」
はっきりと動揺してしまった俺を見て鬼灯は謝ってくるが、目の端に涙を浮かべて肩を震わせたままでは説得力がない。
「……そんなに笑わなくてもいいじゃないか」
俺は抗議する。が、どうしてもいじけた響きを含んでしまい、言葉に迫力がない。そんな力のない言葉で、他人が言う事を聞いてくれる訳がない。
はあ……。俺もまだまだだね。
ここまで笑われるとは思わなかったから、俺自身正直かなり狼狽えていた。特に鬼灯は美人のお姉さんだ。そんなお姉さんに大笑いされたせいで、かつての対女経験値ゼロの頃の自分が久しぶりに目覚めていた。
菊のおかげで以前よりはマシになったつもりだったのだが、やっぱり女はよく分からん。昔から妙に心引かれはするものの、謎生命体である。
そして、それは今も同じであるらしい。それを再認識させられた。
「ふ、ふふふ。申し訳ありません。武様ほどのお方が、ずいぶんと可愛らしい事をおっしゃるもので、つい」
なんとか発作は治まっているものの、鬼灯はまだ目の端に涙を浮かべたままだった。
「ふん。もう、いいよ。とりあえずそんな訳で、俺はこんなところで死ぬ訳にはいかんのだ。うちのチビ姫様も、まだまだ放っておけんしな」
仕方がないので強引に話を元に戻した。このままでは、どうにも不利な気がしてならなかったからだ。やむを得なかった。
「ふふ。はい、それは本当にその通りにございますよ?」
鬼灯は優しく微笑む。そしてゆっくりと、深く頭を下げてきた。
「……武様は、水島のお家にとって替えのきかないお方。もちろん、今では私ども神楽にとっても同様です。ですから、どうかご自愛下さいませ。私どもも、命に代えてもお守いたします故」
そして再び顔を上げた時には、今までよりも温かい――というか親近感を感じる目で、俺を見ていたのだった。