幕 敦信(一) 佐々木伝七郎への奇襲 その三
俺が叫ぶその傍ら、同影が笑う。顔を頭巾に隠している為、実際にその表情を見る事はできない。しかし、その目だけで分かる。あの者は今、確かに笑っている。
「ふん。この声に聞き覚えはないか」
「……八島道永……なのか?」
ここまで冷静に俺を追い詰めていた犬上信吾に、微かな動揺が走った。だが、こちらも動けない。一瞬できた隙ではあったが、俺自身も犬上信吾の言葉に微かながらも狼狽えてしまったせいだ。
八島道永……。かつて水島継高に仕えていた将の一人だ。その弟である継直が謀反を起こして現在の状態になった時に、主を裏切って弟の方についていたと記憶している。
その後の事は知らなかったが、あのような、まるで野盗のごとき姿になって惟春様に仕えていたとは、流石に思ってもいなかった。
犬上信吾はこちらを警戒しながらも同影の方も無視できず、同影と俺の間に視線を彷徨わせている。
「貴様ごときに呼び捨てられるところまで儂は落ちぶれたか……。ふふ。まあよい。言え、あの糞生意気な小僧はどこにいる?」
「糞生意気な小僧?」
犬上信吾はこちらを警戒しながらも、同影と言葉を交わし続けている。その顔には焦燥がありありと見てとれる。槍を握る手も先ほどまでと違い、どことなく落ち着きがない。
しかし同影は、そんな犬上信吾の様子を気にしてもいなかった。状況の優勢に慢心している様子でもなく、かといって犬上信吾を倒すべき敵として警戒している様子でもない。ただ淡々と犬上信吾に語りかけている。
その目は笑ったままだった。だが、同時に狂気の炎を灯してもいた。
「あの小僧だけは、この儂自らその首をもぎ取ってくれなければ気が済まぬ。言え。神森武はどこだ?」
神森武――水島の鳳雛に遺恨あり……か。
俺の知らぬ話が次々と出てくる。もっとも、同影が俺の下についたのはつい最近の事ではあるし当然と言えば当然の事なのかもしれない。惟春様直筆の書状をもって朽木にやってきた為、追い返す訳にもいかずに受け入れただけなのだから。
惟春様は同影の素性をご存じなのだろうか。
……直筆の書状をもたせている以上ご存じではあろうな。それにしても、ずいぶんと思い切った真似をする。建前としては、我らと水島継直は同盟関係だというのに。
俺と同影を警戒しつつ同影と話す犬上信吾。その犬上信吾に、他の事などどうでもよいとばかりに問い続ける同影。犬上信吾を牽制しながら、黙って二人の話を聞いている俺。
俺たちは、この戦場で完全に浮いていた。
周りでは、相も変わらず兵たちが命のやりとりを続けている。断末魔、憤怒の咆哮……それらで満ちていた。
こちらの兵たちは、俺の指示に従い皆森の中へと後退し始めている。だから、それをさせまいとする犬上信吾の玄武隊との駆け引きで戦場は激しく動いていた。
だがそんな最中にも関わらず、俺を含めた犬上信吾と同影の周りは酷く静寂に満ちていた。耳から入る喧騒が頭に残らない。雑音にすらならずに俺たちを通り過ぎていく。
「……神森武はどこだ?」
答えぬ犬上信吾に、同影は更に声を低くして繰り返し尋ねた。
「なるほど。富山からの撤退戦の時の恨みが忘れられず……という事か。それにしても金崎の使いっ走りとはな。お館様を裏切っただけでは飽き足らず、継直もか。つくづく度しがたい男だな、道永」
「どうとでも言え。それで、あの小僧はどこにいる?」
「……ここにはおらぬよっ!」
それまで静かに言葉を交わしていた犬上信吾が突然動いた。その手の槍で、馬上の同影の胸を狙う。
だが同影は、面倒くさそうに手の槍を横に薙ぎ払った。犬山信吾の豪槍を弾く。
……驚いた。あの者の槍をいなせる程とは。
同影の力量はある程度見抜いていたつもりだが、俺が想像していたよりもずっと出来るようだった。
思わず目を見開き見てしまう。同影は簡単に払ってみせたが、犬上信吾の槍は単なる野盗ごときにいなせる程ぬるくはない。もう何度もやり合っているから間違いない。
となると……やはり同影は、本当に八島道永らしい。八島道永は武名に優れた武将だった。同影の正体が彼の者だというならば、目の前のこれも納得がいく。
そんな事を思う俺をよそに、二人の会話は続いていた。
同影は犬上信吾の槍を払った後、
「そうか。なら、神森武の前にお前を片付けてやろう。お前らやあの青瓢箪にも礼をせねばならぬからな」
と、一方的に告げた。馬の手綱を引き絞り馬首を巡らす。そして、
「お前ら! 一旦離れるぞ! この者らを突き崩す!」
と叫んだ。
何だと? まずい。このままでは、こちらも巻き込まれかねん。かと言って、あの調子では止めろという命令だけは聞かないだろう。
どうする……。いや、待てよ。幸い、俺の兵たちはそのほとんどがすでに林の中……。あとは、俺自身も下がれば、この場はなんとかなるか。
巡る思考に結論を出すと、俺は迷わず叫んだ。
「同影! こちらは下がるぞ! そちらもひと当てした後は、そのまま下がれ! すぐに佐々木伝七郎の部隊が到着する!」
「はっ! 承知いたした!」
同影は素直にそう答えた。そしてそのまま部下たちを連れて、乱戦になっている戦場を一旦離れていく。
こちらも、ここらが引き時だった。
「犬上信吾! この勝負は預けておく! このまま朽木に来るというなら来るがいい。その時こそ、その首もらい受けようぞ!」
犬上信吾が離れていく同影に気をとられているうちに、こちらも迅速に下がる。
奴は思わず、しまったという顔をした。だが、もう遅い。こちらの兵が下がった林の中に、俺を追って飛び込んでくるような愚は犯さないだろう。つまり、こちらの撤退を奴は指を咥えてみているしかない。
そして、実際にそうなった。流石に鳳龍の名と共に名が売れている水島の三本旗である。間抜けではなかった。
すでに林の中に引いていた兵たちをかき集め、俺は朽木に戻る事を決めた。
ぎりぎりまで粘り、少し離れて場所から戦況を観察していたが、突撃を敢行した同影らが無事撤退し、その直後に佐々木伝七郎が到着したところで、その場を離れる事にしたのだ。
今回の奇襲と同影の突撃は、それなりに彼奴らにも打撃を与える事ができたと思われる。彼我の戦力差を考えれば、上出来な部類と言える戦果だろう。
犬上信吾は同影の突撃を受けたが、それを何とか受け止めていた。突き破られたりなどせず、きっちり受け止めたのは流石だと思う。だが、当然無傷などという事はなく、同影はそれなりの成果を上げる事はできていた。
……もっとも、犬上信吾直卒の部隊と思われる一隊は、同影の突撃の前に密集して、突撃してきた同影の部下たちを逆に屠っていたが。こちらが削れたのは、ほとんどが足軽の長槍部隊だった。
それでも、まずまずの成果と言っていいだろう。敵兵も俄に浮き足立っていたのだから、彼奴の突撃は本物だったと言える。
しかし、それとほぼ同時に佐々木伝七郎と思われる部隊が南から突っ込んできた。それによりこちらの優位は崩れた。
だが、ここでの同影の判断はなかなかに見事だった。突撃も突き込むようなものではなく敵の表面を削るような一撃離脱を選んでいた事もあり、ここが潮時とばかりにさっさと馬首を巡らした。部隊を転進させてしまったのだ。
突っ込んできた佐々木伝七郎の部隊はそれを追おうとしたが、彼奴の部隊は急にその行動を止め、そのまま同影を行かせる事を選らんだ。その結果、同影らは無事離脱する事になった。
どちらも、なかなか見事な戦いぶりだった。
その結果に、幸不幸を同時に感じずにはいられない。
幸の一つは、同影が思ったよりも使えそうである事。左足を引きずるあのみすぼらしい姿からは想像も出来ない見事な用兵と戦いぶりだった。確かに、そこそこ腕は立つであろうという気配はあったが、あれ程に部隊を率いる事が出来る程の器だった事は嬉しい誤算だった。
その一方で、この度重なる奇襲で知った佐々木伝七郎や犬上信吾の強さには頭を抱えずにはいられない。不幸である。あの見事な兵の統率と判断力……佐々木伝七郎の力は、さすがに神森武と共に称えられているだけの事はあった。神森武がこちらに来ていないと聞いて、いくらか与しやすいかと考えていたが、そう甘くはなさそうだ。
犬上信吾も、今まで名を聞いた事がなかった将なのに、すこぶる腕が立つ。東の砦でぶつかって以降、もう何度も槍を交えている。その力には疑う余地はない。気を抜けば、俺とてあっという間に討ち取られてしまうだろう。
難しい……。
恥を忍んで、今回朽木には奴らと戦う為の準備がしてあるが、やっておいてよかったと心底思う。まともにぶつかろうとしても、あの将らとこの戦力差では、まともに戦わせてすらもらえないだろう。
曇天の空は、再び雪をまき散らそうとしている。林を裏から抜け、獣道に近い裏の山道を降る。
次こそは勝つ。勝ってみせる。
そんな思いを胸に、俺は朽木の町へと急いだ。