幕 敦信(一) 佐々木伝七郎への奇襲 その二
降った雪が凍り、油断をすると足を滑らせてしまう地面に両足を踏ん張り、犬上信吾との『一騎打ち』に集中する。
他の兵たちは、敵も味方も近寄ってこない。激しすぎる槍の打ち合いに巻き込まれては堪らぬとばかりに、兵は兵同士で戦っている。その結果、一騎打ちとして始めた戦いでもないのに、結果的に一騎打ちになってしまっていた。
「三森様っ! 南の方が騒がしくなってきています。佐々木伝七郎が動き始めたかと」
ちぃ。もう何度も襲っているからなあ。だが、それにしても対応が早い。
正直、もう少し待ってもらいたかった。
本命の一撃を食らわせるには、この位置ではまだ早すぎるのだ。だから、この次の奇襲時に、今までと異なった動きをして敵の隊列を分断しておいて、その分断した隊に同影に突撃させ大打撃を与えるつもりだったのである。
だが、どうもそれは無理そうだ。
おそらく同影も、それは分かっているだろう。それだけに、俺の指示通りに待つとも思えない。そんなタマではない筈だ。
そんな、己でも奇妙と思える信頼を胸に、目の前で同じくこちらの一挙手一投足に集中している犬上信吾を睨みつける。
真冬の戦であるにも関わらず、額から顎に汗が伝う。
ぬう……遅い。おそらくは、俺が焦っているだけなのだろうが、まだかまだかとその時を待つのはなかなかに辛い。時間の経つのが酷く遅く感じる。
じりじりと胸を焦がす思いに耐えながら、犬上信吾の背後――朽木の町へと伸びる街道の方に目を遣ると、待っていたものがようやく到着した。
横っ腹を俺に突かれ全軍こちらを向いて戦っていた犬上信吾の部隊に、街道を北から駆けてきた同影の騎馬隊が迷う事なく突っ込んでいったのだ。そして犬上信吾は、再度の横撃を受ける形になったのである。計画していた挟撃の形ではないが、今可能な最善手だった。敵兵はどよめき、慌てふためいている。
好機到来だった。
「今だ! 一気に畳みかけよ! 間もなく佐々木伝七郎がやってくるぞ! その前に一人でも倒すのだ!」
俺は目の前の犬上信吾を見据えたまま、腹の底から大声で叫ぶ。目の前の敵は、軽くいなしながら指揮も執れるほど緩い相手ではない。目を離す事など出来る訳がなかった。
しかし、それは敵も同じ事である。
犬上信吾は目に見えて分かるほど、焦っていた。それはそうだ。こちらも佐々木伝七郎の到着を警戒しなければならず安心できる状況ではないが、あちらは、すでに同影によって指揮下の部隊が混乱させられている。一手分だけ、こちらが有利な戦況だった。
「おおおおおっ!」
その状況を打開しようというのだろう。犬上信吾は俺を真っ直ぐに見据えたまま吠えて、手に握った豪槍を叩きつけてきた。そして、叫んだ。
「お前ら、落ち着けぇ――――ッ!!」
ビリビリビリ――――。
真冬の風よりも、張り詰めた気迫が山の気を震わせた。この身にも叩きつけられる。
ちらりと横目で周囲の様子を確認する。
……むう。
思わず感心してしまう。犬上信吾の咆哮は、浮き足立っていた奴の部隊の兵たちに正気を取り戻させていた。
自然と口元が緩む。それを感じる。
流石だ。
こちらにとっては最悪の展開だが、そうでなくてはな――――と、嬉しく思えて仕方なかった。
混乱が収まりつつある敵兵の様子を見ながら、俺は間違いなく焦っている。だが同時に、心の内で歓喜の声を上げている己も自覚せずにはいられなかった。
別に狂った訳ではない。この気持ちに心当たりもある。
これまでは、俺とまともに競える者がいなかった。だから俺は、たぶん目の前の男を純粋に歓迎しているのだろう。
将としての俺は目の前の状況に舌打ちをし、その一方で武士としての俺は喜んでもいる。
おそらくは、そういう事なのだ。
だが、いつまでもこのまま放っておく訳にもいかぬ。このままでは盛り返されてしまう。ここに佐々木伝七郎でも到着したら、強敵と戦う喜びも糞もない。こちらの敗北が決定する事になる。現に、同影の奇襲から立ち直った敵兵の反撃に、今ではこちらの兵の方が浮き足立ちつつあるのだ。
即座に対応せねば、逆にこちらがマズい。
「慌てるな! 未だこちらが優勢ぞ! 落ち着いて事に当たれ! さすれば我らが勝利は揺るがぬ!」
ビュッ。
「くっ」
――カンッ!
目の前の男は、俺が自軍を立て直そうとするのを黙って眺めていてくれる程に呑気ではなかった。兵を見渡す為に視線を切れば、その隙を逃さず攻撃を仕掛けてくる。大人しく待ってくれなどしない
まずい事になっている。俺は、犬上信吾の相手で手一杯である。しかし、こちらの兵たちの動揺は収まる気配がない。
……ちいい。どうするか。
もうこの分では一旦引くしかないが、計画に則った一撃離脱と異なり、今この状態で下がれば敵に押されて甚大な被害を出す事になるだろう。せめて俺自身に自由があれば、兵らを建て直す事も出来ようが、今のままではそれも叶わない。
正直、非常にマズイ状態だった。軍も、そして俺自身も。
この状況では、平常心を保つのは流石に難しい。このような腕利きと槍を交えていられるのは楽しいが、兵の動揺が気になって、それが次第に胸の中で大きくなってくる。これ程の男との戦いでは、これは危険すぎた。このまま行けば、焦った俺が自滅する事になるのは目に見えている。
なんとかしなくてはならなかった。
しかし、目の前の男はそれを許してくれる程に甘くない。
「大人しく我らが軍門に降れ、三森敦信。お主の軍才も大したものだが、伝七郎様には及ばぬ。潔く負けを認めよ。見苦しい真似をすればするだけ、お主の名が泣くぞ」
犬上信吾は槍先をこちらに向け、俺の目をまっすぐに見つめたまま静かに語りかけてきた。
だが、そんな言葉に乗れる訳がなかった。乗ったら最後、俺自身はともかく三森の里の者たちも裏切り者の烙印を押されてしまう。惟春様は、俺だけでなく里の者も決してお許しにはなるまい。そうなれば、里に残っている者たちはただでは済まないだろう。
「ほざくがいい。我が名の汚れなど、とうに諦めておるわ! この名が汚れるくらいで貴様らの進軍を止められるなら、喜んで汚れてくれる!」
「哀しや。哀しや、三森敦信」
犬上信吾は、俺の動揺を誘っているのではなさそうだった。その目が、なんとも言えぬ同情で溢れている。それが、とても悔しい。
おそらく、目の前の男は満ち足りているのだろう。彼の者にも悩みはあるだろうが、少なくとも俺の抱えている問題はもっていなさそうだ。
そうこうしている間にも、状況はどんどん悪化している。いよいよ、こちらの兵の動揺が顕著になりだした。完全に浮き足立っており、犬上信吾の玄武隊に完全に押し負けている。背中を見せる者も出始めていた。死者の数もこちらが一方的に増えているように見える。
状況から見て、おそらくは本当に押し込まれている。
打つ手がない。
どうする……と、歯を噛みしめる事しか出来ない。犬上信吾を見据えながら、どう引くかを必死で考える。
そんな時だった。
別に一騎打ちをしていた訳ではないが、結果的にそうなってしまっていた俺と犬上信吾との間に、一騎の騎馬武者が突っ込んできた。
「ふんっ!」
ブンッ――カンッ。
騎馬武者の槍が一切の迷いなく犬上信吾に突き込まれるが、彼の者はそれを手の槍で大きく捌いて弾き飛ばした。
「――おっとと。ふん、成り上がり者のくせになかなかの腕ではないか」
「ちぃっ。何者だ!」
突き込んだ槍をはじき返された騎馬武者――同影は、槍を弾かれ崩れた体勢を戻しながら、犬上信吾を馬上から見下ろしていた。同影は全身黒ずくめの衣装に薄汚れた胴丸を着込んでいる。顔は頭巾で隠されており、その声を知るものでなければ、その者が誰かは分からない格好だった。
この機を逃す訳にはいかなかった。この機を逃せば、もう無事に兵を引く機会は得られないだろう。
藤ヶ崎勢がやってきた方に耳をやる。
騎馬が馬蹄を叩きつける音が遠くに聞こえてきていた。間一髪だったようだ。おそらくこれは、佐々木伝七郎の部隊だろう。
俺はとりあえず、目の前の二人の事は置いておいて、周りの様子を見て迅速に指示を出す。
「者ども、引けぇ! 引けぇぇ! ただし背中は見せるなっ。落ち着いて、粛々と森の中へと『後退』せよ。森の中では戦えぬ。街道から速やかに下がるのだ!」