幕 信吾(一) きよ その一
無事準備を終え陣へと戻る途中、同じく準備を終えたらしい源太の部隊と鉢合わせた。
「よーお。お疲れ。そっちも終わったのか?」
お疲れさんと、源太の肩を叩く。
「ああ、立派な石の塚を予定の区間にびっしり拵えてやったぞ。存分に使ってやってくれ」
「おー。そうかそうか。んじゃ、当日はありがたく使わせてもらうとしよう」
軽口を叩き合い笑う。まるでここが戦場ではないかのように。
張りつめていればよいというものではないからな。
仮にも将として選ばれた俺らだ。そのくらいの心の余裕は持っておきたい。でなければ、俺たちに指揮される兵たちが哀れすぎるというものだ。
「与平は?」
「ん? 例の球は予定分すでに作り終えたらしいが、ほら、谷道の両側に隠れるから、そこに火を放つと武様はおっしゃっていただろう。あれをより効果的にする為に、球を作った材料でより効果的に炙れるようにしてくれと武殿から伝令が来たそうだ」
「ほう。あいつが猟師だというのでも聞いたのだろうか? まあ、どっちにしても、そういうのはあいつにとってはお手の物だな」
知ってか知らずかはわからぬが、頼む人間がどんぴしゃりだ。あいつに任せれば、効果的に炙りだせるように設置するだろう。しかも、ぱっと見でわからないように。
「じゃあ、与平はまだしばらくかかる訳だな? 奴には悪いが、俺たちは先に戻らせてもらう事にしよう」
「ああ、そうだな。そうするとしよう。ところで信吾の方の罠はうまくできたのか?」
源太は頷き同意しながら、そう尋ねてくる。
「ふふん。任せろ。会心の出来だ。皆が本当によく頑張ってくれた」
これにはちょっとばかり自信があるぜと力拳を作りながら、態度で示す。
兵たちがあれ程頑張ってくれたのだ。その功績を誇ってやりたい。
こんな農民軍のであろうと、まだ正式に任官してなかろうと、これでも俺は将なのだ。
「そうか。それはさぞ伝七郎様も武様もお喜びになられるだろう」
そんな俺を見ながら、源太はそれを笑う事なく真面目な顔をして頷いている。
「お前はほんと生真面目だな」
ちょっと笑いがこみあげてくる。
「ほっとけ。それが俺の性分なんだ」
源太は憮然とした表情でそう言うのだった。
そんな俺たちの日常とも言える掛け合いを演じながら、俺たちは陣へと戻ってくる。
すると、ちょうど陣の入り口近くに誰かが立っているのが見える。
薄暗くてはっきりと見えぬが、あの影は……。や、やばい。
俺の背中を冷たい汗が流れる。
見間違えようがない。というか、今見間違えようものなら、俺は更なる窮地に立つ事になるだろう。
まるで強大な怒気が星空に立ち昇っているようだ。あいつはどうやって、あの小さな体からそんな気を発しているんだ……。
いや待て。もしかしたら、そっくりだけど違う誰かかもしれないじゃないか。
「なあ、信吾? あれ、きよさんじゃないのか?」
「そ、そうだな……」
何かの間違いだと思いたかったのに……。源太よ、おまえには血も涙もないのか?
なにせ戦に出た後、俺はきよの所に顔を出してない。
今は戦が終わって二日目の晩。丸一日以上、心配させたままほったらかした事になる。
むろん色々あったせいなのだ。なのだが……あれを見る限り、それを聞いてくれるかどうかは二分八分。いや一分九分? もっと分が悪そうだ。
背中に冷たい汗が伝う。額にも嫌な汗がにじみ出てくる。妙に喉がひりつき、唾がうまく落ちていかない。
ま、まずい。まずすぎる。
何かないか。この窮地を脱する方法はっ。
武殿……、俺の為に策とやらを考えてはくれんだろうか?
「おっ? きよさん、こちらに気が付いたみたいだな。おーーーいっ、きよさんっ。こっちだ」
ば、馬鹿野郎っ。源太おまえ何という事をっ。
月明かりだけが頼りの薄暗い闇の中で、小さな影がこちらに駆けてくるのが見える。まだ互いの顔が見える距離ではない。ないのだが……。
多分笑ってる。とてもいい顔で笑っているだろう。
こういってはなんだが、きよはかなりの別嬪だ。体躯は少々小さいが働き者で、更に竹を割ったような性格もなかなか魅力的だ。
そんな女が笑顔で駆けてくる。普通なら、男としては歓迎したい状況だ。
だが、その額に青筋が浮いてるとなれば、話は変わってこよう。あれは良い女だが、非常に気が強い。俺の『罪状』を許しはしても、黙ってという事だけは絶対にない。
終わった。目を閉じ覚悟を決める。
ぱたぱたぱた……だんだん駆けてくる来る音が近づいてくる。
そして、とうとう駆ける足音が消えた。閉じた瞼の先に見えてない我が妻の姿がはっきりと映る。
目を開ける。
駄目だ。像に寸分の狂いもない。いろいろ確定してしまった。
「お前さん。おかえりなさい。無事で何よりね?」
あー、本当に良い笑顔してるなあ。まったくの想像通りだ。その青筋まで。
「あ、ああ。ただいま、きよ。あー、そのう、なんだ? うん。この通り無事だ」
「その様ね? ええ、無事なのも将軍様になられるというのも『伝七郎様』から聞いて知っておりますとも。私もとてもうれしいわ。さすがはお前さん。おめでとう」
「お、おう。ありがとう……」
くぅ。背中を伝う汗が止まらん。殊更伝七郎様の名前を強調して、きよはこちらにずずいと迫ってくる。
そして、腕を回せば抱きしめる事が出来るような距離まで来たかと思ったら、ふいっと俺に背を向けるように源太に正対した。
こちらにも挨拶をする。きよ本来の美しく綺麗な笑顔で。
「源太さんも、お疲れ様。ご無事で何よりね。でも、当然と言えば当然よね。源太さんはしっかりしてるから。うちの宿六みたいに、ちゃらんぽらんでいい加減じゃないし」
……おおう。いつになく苛烈だ。俺の未来は確実に暗い。
「い、いや。信吾もなかなかのもんなんですよ? きよさんの前ではともかく。いや、本当に」
源太は、きよの態度が普段のあいつのものでない事にようやく気付いたようだ。困ったような顔をして、怪しい身振り手振り付きで、きよに言葉を返している。
源太……。ようやく気が付いたか。もっとも、もうすでに遅いがな。
「さて、お前さん。……少しいいかしら?」
あ、あんまりよくないなあ。でも、とてもではないが、そんな事が言える雰囲気ではない。
「お、おう」
ねめつける様なきよの視線に押されながら、そう返答するのが精一杯だ。
「あ、じゃ、じゃあ、俺は兵たちを連れて先に陣に帰っているよ」
源太はそう言うと、そそくさと兵たちを纏め始めた。無論俺の隊の兵もだ。
その場を離れる前、声に出さずに『すまん』と言いながら。
『おう。今度の酒代お前持ちな?』と源太を指差しながら碗を傾ける仕草をして返す。
源太は無言で一つ頷くとそのまま陣の方へと歩いていく。そして、俺と源太の部隊の兵も源太に連れられて動き始めた。
そんな兵たちだったが、その中ににやにやしながら、こちらを見ている奴らがいる。
あれは俺の部隊の兵だな。
そして、こそこそと話す声が、やけに明瞭に俺の耳に届いた。実際はそんなに大きな声ではない筈だが、なぜかとてもはっきりと聞き取れた。
(おい。信吾の奴何発張られるか、おまえら賭けねぇ? 俺、三発で明日の晩飯)
(甘い。往復二発で計四発だ。俺も晩飯)
(いやいや……意表をついて拳かもよ? おきよさん頭から湯気が出てる)
お前ら楽しそうだな? 覚えてろよ?
「さて、お前さん? わかっているわね?」
一刻くらいで帰れるかなあ……。
綺麗な星空を仰ぐと、待ってましたとばかりに星が流れる。
ああ、流れてしまうのか。そうなのかあ……。