幕 鬼灯(四) 招聘 その三
八千両。
今の私たちからすれば、考えられない金額だ。
それだけではない。藤ヶ崎としては、必要な数だけ雇い入れたいと申し出る事も出来た筈。だが神森武は、やはり神楽の里そのものを抱き込みに来た。
これは惟春と同じだが……。
「……我々のすべてを受け入れて下さると、そうおっしゃるのか」
「いかにも」
長の問いかけに、神森武は即答する。
惟春のヤツは、私らを使い捨てをしても惜しくない駒として確保した。神森武も同様の考えなのだろうか。支払われる代金を考えれば、それでも悪くはない。むしろ、忍びとは本来そういうものだ。だが、先ほど見せた不機嫌そうな神森武の表情が気にかかる。
神森武は、長の目をまっすぐに見つめながら静かに語りかけた。
「神楽の長よ。俺には一つの確信があるんだ」
「確信……にございますか?」
神森武の言葉に、長は少し考える仕草をする。
「ああ。俺はさいきん巷では鳳雛などと呼ばれている。なぜだと思う?」
これはまた妙なことを。神森武ほどの男にならば、二つ名の一つくらいついても何もおかしくあるまい。何故と問われても困る話だ。あえて言うならば、実力と実績か。
「それは……貴方様のご活躍を考えれば、何も不思議はありますまい。現に、我々の謀も見事に打ち破り、こうして我々を脅しに来ておられるではありませぬか」
長は少し相好を崩しながらも、チクリと少しやり返した。だが神森武は、まったく気する素振りもない。更に尋ねてくる。
「では、なぜ俺は活躍できた?」
「ほっほっ。神森様は本当に面白い御仁ですな。読めませぬ。これは確かに、あれでは荷が重かったかもしれません」
長はチラリとこちらを見る。悔しいが、その通りだった。
「葉月さんは頑張っていたよ。俺たちもあわやという所までは追い詰められた。が、今はそれはいい。で、長の考えとしてはどう思う? 俺はなぜ活躍できたのか?」
「それは、判断力に優れ機を見るに敏。人の心を読み、その裏を掻く。それが出来る故にございましょう」
「なるほど。長はそう見るか。確かに、俺のそういった資質もいくらか貢献したかもしれん。が、俺はそれが主だとは思わない」
「ほう……。では、神森様自身は何故にと考えておいでで?」
長は、スゥッと目を細めながら言う。しかし神森武は、これにもまったく動じなかった。
「もっと簡単な理由だよ。……情報だ。俺は情報を駆使した。何よりもそれを重視した。判断をするにも、人の心の裏をとるにも、情報が必要だ。これがなければ、いくら判断力に優れようが、人の心を読む術に長けようが用をなさない。……そう。俺は一応侍という事になっているが、どちらかというと、ここの侍たちよりもお前たちにこそ近い存在なんだよ」
神森武はニヤリと笑う。
なるほど、と思わされた。『ここの』という言葉が少し気になるが、言われてみれば確かに侍などよりも私らの方に近いかもしれない。侍の大将格と認識していたからそんな事など考えた事もなかったが、神森武の掌の上でいいように転がされた私としては、これ以上なく腑に落ちる一言だった。
「そんな貴方様の手足として、我々が求められている……と」
「その通りだ」
神森武は、真顔のまま頷く。
本当に悪くない話だった。
神森武も、惟春と同じく私らに手足となる事を要求している。しかし、組織に組み込まれる以上、それはある程度は仕方がない事だ。上があり下があるのが組織というものである。ただ、この話で惟春と決定的に違うのは、私らの立場だ。私らがこれ以上高く買われる事は、まずないだろう。それ程に高く買ってくれている。
「それは……、貴方様の直臣としてという意味でしょうか?」
「いや。もしお前たちがこの話を受け入れるならば、お前らは水島家に仕える事になる。そして、軍部の長である俺か、あるいは政・軍すべてを統括する立場にある佐々木伝七郎に仕える事になるだろう。いずれかの下に、新たに諜報部をつくる予定だからだ。お前たちの配属はそこになる。……まあ、それでも何人かは、俺の直臣となってもらいたいと思っているがな。その辺りは、是非相談に乗ってくれ。頼むよ。俺以外の重臣二人が、やたらと俺を買ってくれるもんでね。このままでは、俺はそのうち仕事量に殺されかねん」
神森武はここに来て、はじめて茶屋で見せていたものと同じ笑みを見せた。
「ふぁっふぁっ。お戯れを」
「戯れなどであるものか。今の俺は、毎日毎日本当に命の危機なんだぞ? もしうちに来てくれるつもりなら、そんな俺を哀れみ、何人かの腕利きを快く俺にくれてやってくれ。そうしてくれたなら、それはもう心の底から感謝しよう」
「ほほ。本当に面白い御仁にございますな」
長は目を細める。だが、その目の光はまだ鋭い。それはそうだ。まだ、一番聞きたい話が聞けていない。今のままでは、いくら条件が良くても頷けない。
「で、だ。その様子だと、まだ決心はできていないようだが……、お前が聞きたい話は今のお前らにしてやる訳にはいかんぞ?」
そんな長を見て、神森武はいきなり切り込んできた。
これだ。これだから、この男は本当に油断できない。
長も、決心云々までは読まれても、聞きたい話が聞けていないからという理由までも正確に読み通されているとは思っていなかったようだ。思わずといった素の表情で細めていた目を大きく見開き、神森武を見つめている。
「お前が聞きたいのは、俺がどうやって継直を倒すつもりなのかという事だろう? お前の立場なら知りたいのは当然だ。しかしそれは、俺たちにとって秘中の秘。今のお前に、べらべらとしゃべる訳にはいかん」
緩めていた表情を再び引き締めた神森武が、そう言い放つ。神森武の言い分はもっともなものだった。
今の私たちは、神森武……いや藤ヶ崎にとっては、まだ敵である。その敵に、そんな重要な話など出来る訳ない。
だが、神森武の私らへの期待。そして、もし藤ヶ崎に乗り換えた場合の私らの扱いは、今の言葉の中にもはっきりと見て取れた。
神森武は、長に向かって『今のお前に』と言った。逆に言えば、『今のお前』でなければ話すよという事だ。金崎家では、これは絶対にありえない。そんな重要な話のある場に、末席でも参加などさせてくれないだろう。まして、直接話してくれる訳がない。
「……本当に恐ろしいお方ですな、貴方様は」
長が呟く。おそらく、私がずっと感じていた恐怖を、長も感じているのに違いなかった。長の向こうでは、半次様もごくりと喉を鳴らしている。
しかし、神森武の両脇に控える若武者二人は顔色一つ変えなかった。要するに、これが神森武の普通という事なのだろう。ますます以て恐ろしい話である。もしかすると、彼の者を敵に回して千賀姫の首に後一歩という所まで迫った私は、大健闘だったのではなかろうか。
「別に恐ろしくなどないよ。ちょっと考えれば誰にでも分かる事さ。……だがお前らとしても、それでは納得できない。そうだな?」
「…………」
長は沈黙で応えた。
「なあ、長よ」
「……はい」
「誰だって、勝てる方に与したい。泥船に乗りたい奇矯な奴は、まずいないだろう」
「…………」
「だが、あっさりと問題なく勝てる陣営ならば、お前たちの力は必要とされんぞ?」
「むぅ……」
この男は、本当に痛いところをついてくる。
「これは賭けだ、長。どれほど安全に歩もうとしても、時に賭けをしなくてはならない時もあるんだ。今のお前たちのようにな」
長とて、それは承知しているだろう。数多の修羅場を潜ってきているのだから。だがそれを、こんな歳の若い者が口にして、しかも様になっているから、この男は本当に怖い。実際に潜り抜けてきた苦難・困難の数々が、この男の言葉にもそれだけの説得力を与えている。長も言葉を返せずに、ただただ沈黙していた。
「今、俺たちは動いている。これを以て賭けに乗ってみないか? もし、現時点で俺たちが継直の動きに反応していなければ、俺たちに勝利の目はない。その場合は、お前たちにとって賭けるまでもない話だったろう。出る結果は一つしかないからな。それこそ、泥船に乗れるかと怒鳴られていても仕方がなかったと思う。だが今、俺たちはすでに動いている。それはつまり、勝ちの目があるという事だ。……というか、俺が勝たせるから勝つんだがな」
神森武は、言葉の最後にしれっと付け加えた。
よくもまあ、ここまで大それた事を言ってのけられるものだ。そう思わずにはいられない。普通ならば、気狂いの戯言と一蹴されるところだろう。だがこの男の場合、そんな大それた事をなし続けているから、とても笑い飛ばせない。
「ま、お前らにそれを信じろとは言わんよ。だが、ひとつだけ言わせてもらおう――虎穴に入らずんば虎子を得ず、という言葉がある。虎の子が欲しければ、虎の巣に入れという意味だ。お前たち自身の力で虎の子を手に入れて見せろ。俺たちを勝たせて価値を示し、水島の家に自らの居場所を作ってみせろ!」
「…………」
長も半次様も、神森武の気迫に押されている。神森武をじっと見たまま、言葉も返せずに固まっていた。
神森武の言葉は終わらない。
「お前たちには、それだけの力がある。それは俺が保証する。だが……今は気構えが足らん」
なっ!?
これは、いくらなんでも暴言だ。長は、里を、私たちを守ろうと必死になってくれている。そんな長に、気構えが足らない訳がない。
だが長は何も言い返さない。それどころか、憤ってもいない。ただ沈黙を保っていた。
そんな長を見かねて、半次様が口を開きかけた。
「な、それは――」
「分かっている」
しかし神森武は、そんな半次様の方を向くと、最後まで言葉を言わせずに遮った。
「言いたい事は分かっている。だが、あえてもう一度言おう。気構えが足らない。それでは足らないんだ。先ほど俺は、『俺』が勝たせると言った。それは、俺が俺の口から吐いた言葉だからだ。お前たちは今、同じ言葉を吐くだけの気概を持っているか? 俺たちの為にじゃないぞ? お前たちが守りたいものの為にだ」
「「…………」」
「虎の子は拾えぬ。欲しいならば虎の巣まで出向くのみだ。黙っていて手に入らぬものを望むなら、それがどうしても必要だというのなら、虎穴に飛び込む覚悟を見せてみろ!」
「「むぅ……」」
やはり、これも神森武なのか……。私が圧倒された時と同じだった。英雄の威光……その覚悟に思わず身がすくむ。
長と半次様も、神森武から目が離せないまま低く唸っていた。
だが、神森武はそこまで言うと、私たちを押し流さんばかりに発していた気迫をスウッと抑えた。
「……もし、その気概があるというならば迷うな。俺たちの元に来い。お前たちの力は、金崎惟春などには勿体ない。俺が、お前たちに相応しい舞台を必ず用意しよう。そこで思う存分働くがいい」
そして微笑むと、わずかな躊躇いすら見せずにそう言い切ったのだった。