幕 鬼灯(四) 招聘 その二
部屋の中には、確かに神森武がいた。だが、それは私が知っているどの神森武でもなかった。
いつもは紐で束ねているだけの長髪をきちんと梳き、烏帽子を被っている。狩衣を纏うその姿は、どこぞの貴公子かと見紛うほどに凜々しかった。
そして、彼の両脇を固めるように跪いている若武者たち……。
もちろん鳥居源太と仁水太助だった。彼らも、ここ数日見ていた館での姿とは大違いである。真新しい揃いの肩絹と長裃。わざわざ、今日のために用意したもののようだった。
私も、長も、そして半次様も、声が出なかった。
私たちは彼らに怯え、普段着の下に帷子を着込み、更には暗器をふところに隠して、この場に臨んでいる。
もう、いきなり負けていた。今度こそ、何もかもで負けたと思わされた。よもや、たかだか忍びに会うのに、このような出で立ちで待っているなどとは到底思わなかった。おそらく、こんな侍は他にはいないだろう。
「さあ。こちらへ。時間はまだまだあるとはいえ、私たちには語り合うべき事が山のようにある」
神森武は微笑んだまま両腕を開き、私たちに奥へと進むように促す。
長と半次様は、神森武のその言葉にハッとしたように互いを見合った。そして頷くと、彼の言葉に従い奥へと進む。私は、二人の後を付いていった。
そして私たちも、長を間に挟んで神森武らに正対して座った。
お互い相手の目を見て、何も話さない。
風が枯れた木の枝を揺らす音が聞こえてくる。それほどに静かな時間が、この本堂に舞い降りた。
長は、普段は優しげに細められている目をカッと開き、神森武の目を真っ直ぐに見据えている。そして神森武も、それを咎めない。その長の鋭い視線を、ほほえみを浮かべたまま正面から受け止めていた。
しばらくして、神森武から目を離すことなく、長がゆっくりと小さく頭を下げる。
「失礼しもうした。お話しがあると窺っておりましたが、この様に迎えていただけるとは思ってもいませんでしたので……少々驚いてしまいましてな」
「いや、お気になされるな。今回この寺に貴公らを呼んだのは私だ。それに、そちらにおられる葉月殿に伝えてある通り、貴公ら……いや、神楽の里すべてを招聘したいと考えて呼んだのだ。招聘と言うからには、こちらが礼を尽くして当然というものにござろう」
そんな長の言葉にも、神森武はあくまでも対等に応える。臣下として迎えたいとはいえ、まだ上下ではない。その筋を通してきていた。
「……左様にございますか」
長も半次様も、うぅむと小さく唸っている。よもや己らが、侍にこのような扱いをされるなどとは考えてもいなかったのだろう。私とて、それは同じ事だった。
「さて、どの辺りから話すべきか。先ほども申し上げたように、我々が貴公らに望むのは、金崎惟春を見切り、新たに我々に仕えて欲しいという事に尽きる。これを隠す気も、言い繕う気も私にはない」
神森武は、長の目を真っ直ぐに見つめたまま真摯に訴えてくる。その内容は裏切りを促すものだが、その言葉通りにまったく取り繕おうとしなかった。
「……」
「私は、貴方がたが欲しい」
まるで意中の女を口説くかのように、熱く飾らぬ言葉を長にぶつけてくる。ここまでで、すでに神森武の本気の度合いは十分に見て取れる。もしこれを演技と疑うならば、何も信じる事など出来ないだろう。
そして、それは私だけでなく長も理解している筈である。
だが、長も、そしてずっと黙ったままの半次様も、口を横に引き結んだままで何も応えない。ジッと神森武を見据えているだけだった。
その理由は、容易に想像できる。
これを私らに呑ませたいならば、神森武は『二つ』の事を説かなくてはならない。それを説かねば、長も半次様も、決して首を縦には振らないだろう。
神森武の誠意は受け取った。だが、それだけで首を縦に振る訳にはいかないのだ。
「それで、貴方様はいかような条件で我らを引き抜くおつもりか」
神森武に倣ったのか、長も真っ直ぐに切り出した。飾っても仕方がない。そもそも、私らには繕えるほどの余裕もない。
しかし、神森武もまったく慌てない。当たり前のように聞き返してくる。
「いや、それは逆に聞こう。貴公らは、いかような条件で引き抜かれたいのか」
……値切るつもりがないのか、この男は。
「……言い値で雇われるおつもりで?」
「まさか。私はそこまで甘くはない。私が問うているのは、貴公ら自身が己にいくらの値をつけているのかという事だ。それを尋ねている」
ああ……、そういう事か。
この男は一体今までどう生きてきたのだろうか。どう見ても私よりも若いと思うのだが……本当に末恐ろしい。
長も、神森武から目を離せなくなっているようだった。小さく唸っている。しかし、意を決したように口を開いた。
「――神楽衆は一人前の者だけで二百人余。年三千……いや四千両をいただきたく存ずる」
ふっかけたか。
惟春には、おそらく千を少し越えた程度しかもらっていない筈。半分は米でもらっているから、そのぐらいの筈だ。まあ、これは少なすぎるが、妥当なのは三千といったところだろうか。
長の言葉を聞いた神森武は、小さく溜息を一つ吐いた。そして、首を横に振る。
……呑めぬか。
これで決裂すれば、おそらく私たちはここまでだ。最期まで誇り高く戦うしかない。里のチビたちの顔が脳裏に浮かび胸が痛んだが、もうどうにもならないだろう。
長も半次様も、表情こそ動かさなかったものの、どこかやはり駄目かという雰囲気を漂わせていた。
そんな中、神森武はぽつりと呟く。それは、これまでとうって変わった口調だった。
「……八千だ」
「「「は?」」」
神森武の言葉が理解できなかった。私も、長も、半次様も、揃って間抜けな声を漏らしてしまう。
「だから、年八千両払うと言っているっ」
神森武は、それまでの取り繕った丁寧な言葉を捨て、いらだたしげにそう吐き捨てた。
「戯れ言ならば――」
長はそう言って渋面を作るが、その言葉を最後まで言わせてもらえなかった。
「誰も巫山戯てなんかいないさ。と言うか、あんたこそ正気か? 俺は、あんたらに楽をさせるつもりはまったくないぞ? あんたらの力を頼り、あんたらにも命を張ってもらって、この乱世に水島を生き残らせようと考えているんだ。あんたは部下に、そこまでの命の安売りをさせるつもりなのかっ。分かっていると思うが、正直俺は値切るつもりで尋ねたんだぞ? なのに、これでは値切る以前の問題だ。きちんと仕事と向き合えるだけの金を要求してもらわねば、こちらが困る。重ねて言うが、俺はあんたらを遊ばせる為に誘っている訳ではないんだ!」
神森武は、覚えの悪い童に説き聞かせるかのように、彼の者よりずっと年長の長に向かって言葉を叩きつけた。
これは、著しく想定外の言葉だった。要求が安いなら安いままシレッと受け入れるのが普通だと思うが、安いと怒られるとは思わなかった。それは長や半次様も同様だったようで、お二人も言葉を失い、神森武の剣幕に圧倒されている。だが当の神森武は、そう振る舞っているというよりも本当に怒っているようだった。
「もちろん、いくつかの条件はあるぜ? 一定数以上の忍びを仕事に従事させる事。一定の期間に定数以上の忍びを育て上げ水島に入れる事。その他にも、いくらかの細かい取り決めはしたい。だが、この辺りの事に関しては後で詰めよう。勿論、そちらの相談にも乗る。その上で改めて言う。八千だ。半分は米で出す。……これで呑めるか? 答えが聞きたい」
今度は逆に、神森武が長に鋭い視線を浴びせてくる。
長も大きく刮目しながら、神森武のその視線から目を離さない。と言うか、あの長が呑まれていた。目が離せないでいるように、私の目には見えた。
とてもではないが、今二人の間に口を挟む事など許される雰囲気ではなかった。半次様でさえも、口を閉じたままその成り行きを見守っている。あぐらを掻いた上に置かれた両拳には、酷く力が入っていた。
神森武は、建前として迎え入れようとしているのではない。本当に身内として迎え入れようとしてくれている。
言動すべてから、その事がひしひしと伝わってきていた。