幕 鬼灯(四) 神森武の奇行
結局、その場では答えは出なかった。
長も半次様も、この切所の見極めがどれ程重要かを十二分に理解されている。それだけに答えが出せなかったのだ。
藤ヶ崎・水島家か、それともこのまま金崎家に収まっているべきか。本当に難しい判断である。惟春の心胆が読めている以上、これを支えようなどとは思わない。しかし、だからと言って神森武の誘いにほいほいと乗れば良いかというと、それも不味いだろう。
水島家が私たちをどう扱うか以前に、水島家が生き残れるのかという問題がある。今よりも扱いが良くなろうと、そののちに水島家もろとも里が滅ぶような事になっては目も当てられない。そうなるようならば、惟春の下に付いたまま、なんとか現状を打開する方法を探るべきだ。
そんな葛藤の中、長と半次様はとりあえず神森武の誘いに乗り、会うと決定された。
神森武は、
『十日後、田島と神楽の里の間にある山寺――大泉寺にて待つ。腹を割ってゆっくりと話し合いがしたい。互いに、連れる部下は二人までとしよう』
と、そう言っていた。そこで、こちらは半次様と私が長の護衛に付く事となった。私に関しては、当日『そちらが連れてきてくれ』と神森武に伝えるように言伝される。これは、万に一つも兵を伏せられないようによく見ておけという意味だ。
私は、お二方のその言葉を持って藤ヶ崎へと走った。
藤ヶ崎へと戻った私を、神森武は当たり前に迎えた。本当に戻ってくると信じていたらしい。
それから三日の間、私は館の一室で軟禁された。
といっても、おそらくは青龍隊か、朱雀隊の者と思われる見張りが二名立っているのみである。あとは男女分れて二室に押し込まれているだけだった。牢ですらなかったし、食事もまっとうな物が与えられた。下手をすると、普段の食事よりも豪勢だったくらいである。
やはり……神森武は本気なのか……。
そういう結論しか出てこなかった。
自由こそないが、それは私たちの立場を考えれば当然の話である。正直、この待遇は破格としか言いようがないだろう。
「おい、八雲。お前やってきたばかりで、すぐに発つのか? ……というか、なに凹んでんの、お前」
遠くの部屋からとはいえ、そんな話すら聞こえてくる。あれは……吉次の声だ。
八雲……私たちとの戦いが終わった直後に到着した軍を率いていた者だ。太助と一緒に、二水の町から来た者だった筈。
「……神森様から指示をいただいてね。与平さんが心配だから、兵を連れて先に田島に行ってくれってさ。騎馬百に槍二百の三百連れて行けっていうんだよ。百人組の組長たちがいるってのにさ、『大将はお前な。何事も経験だ』だって。無茶苦茶だ」
なるほど……確かに無茶苦茶だ。だが……。
これは、私たちにとっては思わぬ所で得た朗報だった。
長がこの水島家に乗り換えることを決断された時の、私たちの扱いが見えてくる。
神森武は、血で人を見ない。
太助はまだ二水の町の長の息子という立場があるが、この二人に至っては、本当にただの農民の子の筈だ。それに三百もの兵を率いさせる? 正気じゃない。少なくとも一般的な話から言えば、八雲の言う通り非常識極まる。農民をそこまで重用する侍などいる訳がない。
だが、よくよく考えればあの三将……犬上信吾、鳥居源太、三浦与平も、元々は水島家の小人だった筈。そこから、神森武と佐々木伝七郎が引っ張り上げたという話だったと記憶している。
いや、それ以前の問題か。そもそも神森武自身、その出自がまったく分からない。
……期待できるのか?
働けば、きちんとその仕事を見てくれる。それに相応しく扱ってももらえる。
もし、そんな夢のような待遇を得られるのなら、この水島家が生き残れば私たちの里にとって得がたい好機だ。これを逃す手はないだろう。
だが、その『生き残れるのか』が問題なのだ……。現状、これはなかなか難しいとしか言いようがない。長と半次様の判断は間違っていない。
私は、忍びの耳でようやく聞き取れる八雲と吉次の会話に耳を傾けながら、そんな事を考えていた。
すると、銀杏が呟いた。
「……難しいところですね」
まだ幼い顔つきをしている銀杏だが、この娘は本当に利発だ。だがやはり、どちらを選ぶのが正しいのか、銀杏にも判断がつかないらしい。
その呟きを聞いて、私は銀杏に相づちを打とうとした。その為に、彼女の方を振り向く。すると、
「…………」
その銀杏の向こうに、銀杏以上に難しそうな顔をした紅葉がいた。その瞳を鋭く細め、眉根にも皺を寄せている。ただ、その目は何を見ているようにも見えなかった。
「……紅葉?」
「…………」
「お姉ちゃん?」
「…………」
私たちの呼びかけにも紅葉は応えない。気がついていなかった。
「紅葉っ」
すこし声を大きくして呼びかける。すると、紅葉はビクッと体を一つ震わせ、ようやく気がついたとばかりに顔を上げた。
「どうしたんだい。何か気になる事でも?」
「い、いえ。すみません。なんでもありません」
なんでもないようには見えなかった。だが、紅葉はそれを話すつもりはないようだった。
その翌日、私は軟禁されている部屋から出される。もう、田島に出発するのだという。
いくらなんでも早すぎる。神森武が暇だとも思えない。
訝しんで神森武にそれとなく尋ねたら、
「現代日本人舐めんな。遅刻駄目。これ絶対」
と言われた。
にほん?
意味は分からなかったが、神森武としてはちょっとした冗談だったようだ。もう少し探りを入れたかったのだが、本人カラカラと笑いながら私を放置して向こうに行ってしまった。
とりあえず、何か悪巧みをしようとしているようには見えなかった。
とは言え、あの神森武のことなので、見たまま聞いたままとも思えない。そこが大いに不安だった。
しかし、こうもあからさまに、なんでも好きなだけ見ればいいさという態度を貫かれると、逆にどこをどう疑えば良いのか分からなくなってくる。『あの神森武がやっている事』というのを除けば、少なくとも私の目には、隠れて何かをやっているようには見えなかったのだから。
そのあと私は、紅葉らを藤ヶ崎に残したまま藤ヶ崎を出発した。
出発時には、高木高俊に見送られた。
館周りに十分な兵も置いて警戒している。今回田島へは青龍隊の護衛で向かうようだ。朱雀隊は、藤ヶ崎に置いていくらしい。鳥居源太を連れて行く為、神森武は自分の部隊を置いていく事にしたのだろう。今、藤ヶ崎の精兵部隊は朱雀と青龍の二隊しかないから、妥当な判断と言えば妥当な判断と言える。神森武の護衛としては、太助と吉次の二人しかいない。要するに、神森武はそれだけ鳥居源太を信頼しているという事である。
しかし、あれだね。どう転んでも、もう私らには藤ヶ崎も田島も落とせそうもない。どうしたもんかね……。
これは本当に厄介な問題だった。神森武が何か悪巧みをしている訳ではないのだが、確実に神楽が選べる道は少なくなっていっている。
田島にいる水島の兵は、八雲が連れて行った三百に青龍隊が約百の計四百、これにどれだけいるか分からないすでに田島にいる兵が加わる。どう低めに見積もっても、合わせて五、六百という事はないだろう。
藤ヶ崎にも十分な兵が残っている。田島へ移動した分を差し引いても、まだ三、四百はいる筈だ。
一方神楽の里はと言えば、まともに戦える者は二百いくかどうかといったところだろう。今は、もっと少ないかも知れない。まだ未熟な者たちや年寄りといったものまで動員しても、それでも五百には届くまい。
仕込みもない。兵もいない。これでは、もう戦っても勝ち目はない。
まして数の問題だけでないのだ。相手が神森武。これが致命的だ。こんな有り様では勝負にすらならないだろう。
事実上、この水島側の再配置で反撃に移るという選択肢はなくなった――そう理解するしかない。