幕 鬼灯(四) 当惑
「――――との事です。申し訳ございません」
任務の失敗を長に詫びる。
結局私は、神森武の願いを聞き届ける事にした。確かに私以上に適任である者はいなかったし、何より、あそこで逆らっても私らにはなんの得にもならなかったからだ。
長は、神楽の屋敷にあるいつもの囲炉裏の前で私の話を聞きながら、燃えさかる炎をジッと見つめている。
任務の失敗は、私に告げられるまでもなく、もう知っておられただろう。田島方面を指揮しておられた筈の半次様が、この神楽の里に戻ってこられていた事からもそれは窺える。
長は無言のまま、いつもは温和で優しい顔をしかめながら、なにやら考え込んでいた。
そんな長の代わりに半次様が尋ねてきた。
「それで鬼灯。お前は神森武をどう見た。儂も奴とは一戦交えたが、正直よく分からぬ。なんというか、煙のようにつかみ所がない。本当の姿が見えてこぬ。堅実なのか、大胆なのか、正直者なのか、ただの大ボラ吹きなのか……。お前の話を聞いてただ一つ分かった事は、奴は妖術使いだという事だ。お前が藤ヶ崎を攻めた時、あの男は確かに田島にいたぞ。儂はその時、奴と戦っていたのだからな。間違いない。なのに奴は、一体どうやって、あの日数で軍を戻したのだ。訳が分からぬ」
おそらく、私が失敗を叱責されなかった理由はこれだろう。二人とも、戻ってきた私をまったく責めなかったのだ。
私は少し考えて、あの時――神森武に使いとして走るように説得された時に思った事を、正直に答える事にする。
「そこは、まだあの者の本質ではございません。それを見抜けなくて、私は敗れたようなものです」
「ほう……」
「……あれは、人の姿をした鬼です。あの者の知は、確かに天下無双の資質と言えるかも知れません。ですが、あの男の本当に怖いところはそこではありません。その無双の知を振るう事に、なんの躊躇いもないという事。これに尽きると思います。あの者は、やると言ったら必ずやります。やり遂げる為にあらゆる手を尽くしてきます。その意思の力こそが、あの男の最大の資質です。軽々に敵に回して良い存在ではない……そう思います」
「つまり、ここで我々が話を受けねば、その言葉通りにこの里を滅ぼしに来る……と」
「来ると思います。そして、その時には躊躇わないでしょう。あの者は、この里を滅ぼす事に心を痛めるに違いありません。存外情けは深い。ですが、その口は必ず皆殺しを言い渡すでしょう。あの男と話して、それが確信できました」
「ううむ……」
半次様は、私の言葉に腕組みをして考え込む。
それはそうだ。ここが、この里にとって分水嶺となるのは間違いない。
私たちに惟春への忠誠などない。ないが、それで生き延びられるならば、いくらでも偽りの忠誠を誓う。一方、水島に乗り換える事も吝かではない。ただ、乗り換えたはいいが、その水島が継直や惟春に滅ぼされるような事態になっては目も当てられない。
とはいうものの、ここの判断を誤れば、里は確実に滅ぶ。それは間違いない。それだけに、容易に答えなど出せる訳がない。
「鬼灯……」
半次様が思考に耽り出すと、その代わりに今まで黙ったまま考え込んでいた長が私の名を呼んだ。
「はい」
「継直の方は、どうなっているのだ?」
「奴からの連絡は途絶えています。現在どのような状態にあるかは、残念ながら私にも分かりません。しかし……」
「しかし?」
「遠からず藤ヶ崎の水島家とはぶつかります。今回藤ヶ崎の水島家が動き出したのは、我々の――つまり惟春のちょっかいによるところもございましょうが、やはり継直が動き出した事が原因だと思われます。藤ヶ崎の連中にしてみれば、反旗を翻し前当主・水島継高を殺した継直こそが不倶戴天の敵にございますれば。そして継直の方でも、病的なほどに千賀姫の首に拘っています。千賀姫は前当主・水島継高の娘。千賀姫が生きていては、己の行動を正当化できなくなり、どう言い繕おうと簒奪となってしまいます。なので、両者ともに互いの存在を許す訳にはいかないのです。必ず、どちらかが倒れるまで食い合う事でしょう」
「いま奴は津田領の半分ほどを奪い取る事に成功している。……存外、動きが早い」
長は白い顎髭をしごきながら、険しい顔して言った。
「はい。継直からの連絡は途絶えていますが、あちらに伏せてあった草からは、私もその様に聞いております」
「このままだと、まずいのう。いま藤ヶ崎が動いたのは機を見るに敏。じゃが、もし藤ヶ崎の連中が水島継直に敗れるような事があれば……」
「次は、その勢いのままにこの金崎領を呑みに来るでしょう」
「じゃろうな。惟春につこうが藤ヶ崎に鞍替えしようが、我々にとっても後か先かの話にしかならんのう。ううむ……」
長は再び黙考する。
長が話し終わるのを待って、半次様が腕組みをしたまま呟いた。
「こんな状況じゃ。惟春から乗り換えるというのはいい。否、状況を考えれば、むしろ渡りに舟とすら言える……」
そう……その通りだ。
私たちは、事実上惟春に使い捨てにされようとしている。このまま惟春に付いていっても明日がないという神森武の言葉は、正鵠を得ていた。
あの男は、一昨年の凶作で税が納められなかった私たちに恩を売るように、納税を免じた。他の里や村では、容赦なく取り立てられたのだから、確かに助けられたとは言える。あの時は、それで生き延びられたのだから。
だが、当然何の代価もなくあの男がそんな事をしてくれる訳もなし、以降私たちは、それはもう安く使われる事となった。
これは、事実上その場で餓死する事を免れただけであったと言える。じわじわと真綿で首を絞められているようなものだった。
神楽の里は、どんどんジリ貧になっていったのだから。
惟春の狙いは、おそらくは初めからこれだったと思われる。主として多少はあの者を信用をしていた私たちは、見事に嵌められたのだ。
以前は自立を保てていた為、今よりも金崎家内で神楽の立場はもう少し高かった。
しかし今は……。
そういう事だったのだ。奴には私たちの意思が邪魔だった。だから私たちの食を握り、逆らえないようにした。神楽を、惟春の意思のみで動かせる人形へと変えるべく画策したのである。
そして、それはほぼ成功しつつある。今のままでは、私らはもうあ奴のどんな命令にも逆らえない。逆らえば、即飢え死にが待っている。それを避けるべく他国に通ずるには、神楽の里を捨てねばならないだろう。
そんな私たちだから、此度の一件でも良いように使われる事になった。
あの者は、同影の謀がそれなりにうまくいっている様子を見て、藤ヶ崎での工作を進めるように指示をしてきた。工作に必要な金も十分にも寄越さず命令してきた事には呆れたが、少なくとも機としては誤っていなかった。
だから、まだこれはいい。しかし、その後がどうにも納得いかない。
あの者は、継直の動きを受けて、藤ヶ崎の連中が動き始めるとそれを止めろと言い出した。しかも、兵は出せないという。安住や佐方がいるから金崎の兵は動かせないが、進めていた謀を使えば神楽だけでも何とかなるだろうというのが、惟春の言い分だった。
おまけに、攻め寄せられても引く事能わずとも言ったそうだ。
呼び出されてこの話を聞かされた半次様は、本気で殺意が芽生えたと言っていた。無理もない話だ。
あの男は、私たちをいったいなんだと思っているのか。
まあ、少なくとも家臣ではないだろう。使い勝手の良い無頼くらいにしか考えていない筈だ。金崎家における神楽の扱いは、この部分に関しては昔から変わっていない。ただ、最近顕著になってきただけだ。私たちは、昔から金崎家にとって『家中の者』ではないのだ。
だから、半次様の判断に異論はない。ただ……。
半次様の言葉を受けて私も思わず考え込んでしまったが、長が呟いた言葉が私を引き戻す。
「……藤ヶ崎が水島継直に勝てるのか。それが問題じゃのう」
まさに、一番重要なのはそこだった。