幕 菊(一) 藤ヶ崎の館防衛戦 その一
「なんじゃと!?」
姫様の部屋にたえ様の声が響きわたった。
息せき切らせた侍女の一人が、血相を変えて姫様の部屋へと駆け込んできたのだ。
藤ヶ崎の民の一部が反旗を翻した――――。
考えられなかった。藤ヶ崎の民らに不満などまったくなさそうだったからだ。
父上や伝七郎殿、そして武殿らはみな必死で領地の立て直しを図っていた。
今までに見た事も聞いた事もないような手法も取り入れられた。その為、最初の頃こそ民たちも戸惑ってはいたようにも思う。それは事実だ。しかし、その成果が民らの目にもはっきりと分かるようになってきて、伝わってくる話の限りでは、今ではむしろ好意的に捉えられている。
だから、分からなかった。なぜ、こんな真似をしたのか。しかし、もうすでに館近くでも戦闘になっているらしい。
最初は町に野盗が押し寄せたそうだ。だが、門を守っていた者たちから連絡が来なかったらしい。ただ、この者たちが野盗と繋がっていたのか、それとも何かが起こってしまったのか……。
いずれにせよ賊徒の襲撃は知らされず、何者かの手引きにより、その者たちの町への侵入をあっさりと許してしまったという事だけははっきりしていた。そして信じたくはないが、町の民の中にもこれに同調して暴れている者もいるとの事である。
そして、今では五百ほどの数になっている。
町を襲う野盗に民が同調するなどという事があるのだろうかと思いはしたが、実際にそうだと言われては疑問の余地もなかった。
これは一種の反乱だった。
「見張りの者は一体何をしておったのじゃ!」
たえ様は目を大きく見開き、大声を上げている。知らせに来た侍女のせいではないのはたえ様も十分に承知はしているだろうが、それでも声を張り上げずにはいられないのだろう。
知らせに来た侍女は、可哀想にまるで自分が叱責されているような顔をして縮こまってしまっている。
「たえ様。今は誰彼の責任などと言っている場合ではありません。今の話ですと、敵方の方が数が多いようです。父が出てしまっている今、この館には二百程度の兵士しかおりませんし、将もおりません。……もしも、という事もありえる状態です。考えたくはありませんが、そういう事も起こりうるでしょう」
「ああ、うむ。そうじゃな。その通りじゃ。すまぬ。少し取り乱してしまった」
「いえ」
私の言葉に、たえ様も落ち着きを取り戻してくれた。たえ様は姫様に責任を持たなくてはならない立場のお方だ。その心中は容易に窺い知れた。
そんなたえ様から、私は姫様に視線を移す。
姫様は不安げな表情で尋ねてくる。
「なあ、菊」
「はい、姫様」
「……また戦かや?」
「……はい」
「平じいはおらんぞ? 大丈夫なのかや?」
姫様は聡明だった。まだ幼いが、幼いなりになんとなく察している。
「はい。大丈夫ですよ、姫様。……必ず私たちがお守しますから」
私はニッコリと笑み、姫様をそっと抱きしめる。そして、姫様を安心させながら決意を新たにした。例え父上がいなくとも、武殿や伝七郎殿がいなくとも守ってみせると。
だが富山の時と違い、今回は逃げる訳にもいかない。今この藤ヶ崎を失えば、水島家は支えを失い瓦解してしまうだろう。だから、もう本当にどうにもならなくならない限り、安易に逃げる事は許されない。
姫様と、この藤ヶ崎を守り切らなくてはいけないのである。
一つ深い息を吐き、グッと背筋を伸ばす。
不思議な気持ちだった。以前だったら、もっと不安に心が揺れただろう。でも今は、それほど動揺していない。
理由ははっきりしている。
武殿だ。
あの人は数々の不可能を可能に変えてみせた。どんな窮地でも、それを乗り越えてみせた。諦めるのは最後の最後でいいのだと、実際に見せて教えてくれた。
それに私は信じている。あの人が知れば必ず助けに来てくれる、と。
だから私は、それまでを耐えるだけで良い。
自分のすべき事がはっきりと見えている。だから、こんなにも静かな心のままでいられるのだと思う。
すぐに戦支度を整える。もう目と鼻の先まで『敵』は迫っている。一刻の猶予もなかった。
たえ様始め侍女衆も鉢巻きを巻き長刀を手にして、姫様の部屋にて待機する。侍女衆は、万が一姫様の元まで敵が押し寄せた時の最後の備えでもあるからだ。
姫様自身も、勇ましくも鉢巻きを巻き愛用の長刀を手にして部屋の奥に座っている。いつもは愛らしいその顔は、今は残念な事に不安げに歪んでいた。だが、歯を食いしばるようにして恐怖に耐えていた。富山からの逃亡中に見た顔と同じものだった。
姫様のこんな顔はもう二度と見たくはなかったのに。
そう思うと、これ以上ない怒りが噴き上がってくる。
ただ、残念ながら私には武殿たちのように操兵の心得はない。だが、いささかの武芸の心得はある。
本来ならば、私のような女子が戦場で出しゃばるのはどうかと思うが、将らしい将がほとんどいない今、そんな事を言っている場合ではないだろう。
敵方は五百ほどらしい。一方こちらの兵は二百。しかも厳密に将と呼べる位の者はおらず、百人組長がわずかに二人いるのみ。
これで何とかしないといけない。
私は姫様をたえ様にお預けし、慌ただしく兵たちが駆けている館の表玄関の方へと向かった。
表玄関に着くと、激しい打撃音と兵たちの怒声に出迎えられた。
敵方は閉じられた門をこじ開けようとしているようだ。丸太を抱えて突貫でもしているのだろう。閉じられ、こちらの兵に押さえられている門扉がドカンドカンと五月蠅い。門の両脇にある櫓の上から門の近くに押し寄せてきている野盗らにこれでもかと矢の雨を降らせているのも見えた。武殿の指示で急遽作られた櫓だが、おかげでこちらが一方的に敵を屠れているようだ。
館を囲む塀を乗り越えようとしてきている敵兵にも、等間隔で設置された櫓から矢が飛んでいる。その為、周囲を敵に囲まれてはいるが、その割には館の中への侵入を許していない。なんとか堪えていた。
「菊姫様ッ」
私が戦況を確認するべくキョロキョロと周りを見渡していると、少し離れたところから声を掛けられた。皺も増えた顔に驚きを浮かべているその者は、館にいる二人の組長のうちの一人だった。父の陪臣の一人である。
「ご苦労様です、助之進。戦況を教えて下さい」
「なっ!? 戦況などと……、姫様が指揮を取られるおつもりなのですか?」
「このような状況です。やむを得ないでしょう。北の砦と東の砦には使いを出しましたか?」
「は? あ、いえ、まだ」
「では、急ぎ急使を出しなさい。今は一人でも人が欲しいですが、それぞれに三人ずつ出すように。伝える内容は援軍要請と、北の砦は伝七郎殿に、そして東の砦は武殿に急使を出す事。父上は……無理ですね。まだ交戦中だと思います。しかし伝七郎殿と武殿は、それぞれもう一戦を終えて次に備えている状態だと聞いております。こちらに助けを請うように伝えて下さい」
「し、しかし、門はすでに表も裏も敵方に押さえられておりますが……」
「大丈夫です。館からの抜け道が作られています。そこを抜けて、町の北と東の山の中にある里で馬を受け取って下さい。それぞれの里に、緊急時に使う馬が預けてあります」
「なんと……」
武殿が姫様の為に備えてくれていたものだ。
それにしても、こういう事態になると本当に痛感する。あの人は世間で言われているように、やはり『鳳雛』なのだなと。
よくもまあ、これだけ先の先まで見通せるものだと思わずにはいられない。私ですら、感心を通り越してゾクリとさせられる。
あの人の目にはどこまでの先が見えているのだろうか。こんな時だというのに、そんな事を考えずにはいられなかった。