幕 菊(一) 侵攻の気配と
お参りも終わり、真っ白な雪に覆われた境内を出る。
今日は少し寒い。武殿は、
「この雪も、今は俺たちの武器だから」
などと笑っていたが、きちんと武器になったのだろうか。武殿が出て、まだ幾日も経っていないというのに、いつになく気持ちがざわつく。母上も、父上が戦に出る度に毎度このような気持ちでいたのだろうか。
足を滑らせないように濡れた石段をゆっくりと降りながら、私はそんな事を考えていた。
変われば変わるものだ。
自分でもそう思う。少し前まで、異性に対してこのような思いを抱く事になるとは思ってもいなかった。
ましてや、その相手が姫様の前に突然現れた無礼者なのだから、先の事というのは本当に分からないものである。
最初は、本当になんて調子の良い男だろうと思った。皆が必死の思いでなんとか姫様を守ろうと考えていた所に突然現れ、そして助けてやるなどと軽々に言ったのだから。絶対に良からぬ事を考えているものと思った。
それはそうだろう。今でも、あの方がどうして助けてくれようと思ったのか分からない。あの時の私たちは、間違いなく気安く何とかしてやるなどと言えるような状況ではなかったのだ。
しかしあの方は、そんな私の浅はかな考えなど笑い飛ばすように、あっさりとなんとかしてしまった。
あの時ほど恥ずかしかった事はない。言い訳のしようもなかった。本気で助けてくれようとしてくれていた人を私は疑ってしまったのだから。
でもあの人は、その事を詫びた時にも『なんだ、そんな事』とばかりに笑った。そして、私に『掌を上にした右手』を差し出してくれた。
あの人はその意味を知らなかったが。
『これからよろしくねって事』
そう言っていた。それが求婚の仕草だとは思いもしなかったに違いない。いや、多分今でも知らない筈だ。あの人は今までに二度、私にそれをした。それなのに、父上に私をくれと言いに行くと言った時にはしなかったから。
でも、私は知っていた。
最初はあの人に合わせて応えた。でも二度目の時、私はそのつもりで受けたとあの人が知ったらどう思うだろう。
あの人にその意図がない事はもちろん承知していた。だけれども、私は『応えた』。あの人が意味を知っているかどうかは問題ではなかった。『私』は知っていたから。
これはあの人にもずっと秘密にしておこう。そして、いつか機を見て尋ねてみよう。その時どんな顔をするだろうか。今から楽しみだ。
そんな武殿とのあれこれを思い出していると、
「どうしたの、お菊さん。すごく楽しそう」
そう言って、咲さんが横から声を掛けてくる。どうも顔に出てしまっていたらしい。
「いえ。別に大した事では……。ただ少し武殿の事を考えていただけです」
「ふわぁ、お菊さんも変わりましたね。なんというか迷いがなくなりました」
咲さんは、私の顔をまじまじと見てそんな事を言う。
「?? よく分かりませんが、そうなのですか?」
「はい。ちょっと前まで私とおきよさんが武殿との事を尋ねただけで顔を真っ赤にしていたのに。いつの間にか立場逆転ですよ。私も頑張らないと!」
咲さんは両拳を胸の前で握った。
「咲さんは伝七郎殿との話はまだ進んでいないのですか?」
「あはは……。伝七郎様もお忙しいですしね。仕方ありません。あ、でも、武様だって忙しいのだから無理ではないですよね。うん。やっぱり、私ももう少し頑張ろう!」
そう言って、咲さんは私の顔を再び見て笑う。この分だと、話は進んでいなくとも悪い事にはなっていないようだ。
「私も微力ながら応援させていただきます。おきよさんと咲さんには、本当にお世話になりましたから」
「それがこの有り様というのも恥ずかしい話ですが。有り難うございます。よろしくお願いします」
咲さんは、そう言って丁寧に頭を下げたのだった。
もちろん、それに否やはない。武殿にどう接していけば良いか分からなかった私は、二人に何度も相談に乗ってもらったのだから。今度は私の番というものだ。
おまんじゅうを買って帰る。これを忘れたら大変だ。姫様が大騒ぎをするのは目に見えている。
お店でおまんじゅうを買っている時にも、武殿や伝七郎殿の噂話をしている女子たちがいた。
今出陣している事もあるだろうが、父上とは違って年の若い重臣二人だ。何かと女子たちの話にものぼるようである。
確かにあれだけの二人なのだから、それも仕方がない事なのかもしれない。でも、なんというか気分は複雑だった。横を見れば咲さんも苦笑いを浮かべており、私とそう変わらない事を考えているようだ。とても誇らしい反面、なんというか大事な物を他人にいじられるような、そんな感覚だ。しかし、これには私たちの方が慣れないといけないのだろう。あの二人が立派な男子である証なのだから。
おまんじゅう屋を出て、そんな話を咲さんとしながら館へと戻る。
館に着き姫様の部屋へと戻ると、姫様は喜色満面で出迎えてくれた。そしてお土産のおまんじゅうを受け取ると、とてもおいしそうに頬張った。ほっぺたをパンパンに膨らませて、とても幸せそうだった。
この時までは、藤ヶ崎は平和そのものだったのだ。だがしかし、それから半月ほどして報せが届き、その平和は終わった。
佐方の兵が国境に向かって移動している――――。
その報せに、館はにわかに揺らいだ。
父上は、元々佐方に備えて藤ヶ崎に残っていたのだが、実際に佐方動くの報が届けば、将兵の緊張は否応なく高まる。
佐方は強大だ。
口惜しくはあるが、国力も兵力も今の私たちとは比べものにならない。それでも武殿は、『今の状況』なら佐方が動くかどうかは半々だと言っていた。佐方も四方は敵だらけ――特に北方で安住家と睨み合いになっている。その為、十分な兵力をこちらには差し向けてこられないだろうと武殿は読んでいたのである。ただそれでも、こちらの状態が状態である為、様子見で小隊の一つ二つは送られるかもしれないと言っていた。こちらの方の予想が当たってしまったようだ。
武殿は少し前に田島の町へと入り、そして伝七郎殿も、朽木から出たという二千もの大軍を破って三沢大橋のあった辺りで陣を張っていると聞いている。
すべてが順調に進んでおり、家中の士気も上がっていた最中の報せだった。
父上は私に案ずるなと告げて、姫様やたえ様にも報告して佐方の来襲に備えるべく出陣していった。今回は相手も相手なので、父上は将兵のほとんどを連れて出て行った。
その為、父上が出た後は館の中がやけに静まりかえっていた。
侍女仲間の間でも、こうまで静かだと逆に落ち着かないという話をしていたほどだ。
しかし、それはとても贅沢な話だった。
父上の出陣から三日後、藤ヶ崎の町が――いや、この水島の館が、何者かに強襲されたのである。
父上が残していってくれた兵は二百。
そして将は……誰もいなかった。
今は皆が出陣しており、他国に通ずる道はすべて抑えられている。その為、外から藤ヶ崎の町を襲おうとしても我が国の軍のいずれかと鉢合わせになる。
だから次郎右衛門を筆頭に、有力どころの将は全員、父上について佐方と対峙しに出て行ってしまっていた。
一応、百人組の組長が二人残ってはいる。しかし、このような事態では流石に荷が重すぎるだろう。
不味すぎる。
どうにも厳しい事態だった。