第一話 神森武 でござる
唸る左拳、目前に迫る拳骨。
ちょっ、ま、待って────。
ボグッ。
「ぃでぇっ!!」
顔の真ん中に突き刺さるその小さな拳を見て、深ーく溜息を一つ吐く。やべ、鼻血が出てきた。その拳の持ち主は、俺の隣ですいよすいよと気持ちよさそうに寝ておられる。
前略 お母様。あなたの息子は今異世界で幼女の添い寝をしております。幼女にお昼寝は大事です。陽光暖かな小春日和。お昼寝にはもってこいでしょう。
たとえ、うとうとしていたら横から拳骨が飛んでこようとも、実に平和だと思います。
しかしそれでも、わりとのっぴきならない状態でもあるのです。そう……、そう遠くなく僕は首だけの存在になるかもしれません。その時は先立つ不幸をお許しください。
草々っと。あれ? 異世界に飛んだ場合ってのは、先立つ事になるのか? まあいいや。
とりあえず、気持ちよさげに寝こけていらっしゃる幼女の拳をそっと返してやる。
しかし、なぜこうなった?
「武、武っ」
「ああん? なんだよ。俺は今忙しいんだよ。宇宙にいる角生えた美少女との交信を試みてるんだよ。邪魔すんじゃねぇ」
道夫が俺の崇高な儀式の邪魔をする。奴が持ってきた漫画に感銘を受けて、挑戦している最中であった。わりと真剣に。
時間は古典の時間である。つまり意識を現世から解き放つ為の時間である。当然、儀式をする事も許されねばならなかった。
「馬鹿言ってんじゃねぇよ。でも、あれ面白いだろ? 昔の漫画だが名作は名作。授業という無聊を慰めるには相応しい品ってもんだ」
くっくと声を潜めて笑ってやがる。この阿呆は簡単に話に乗ってすぐ脱線させる。そのノリこそ我が友に相応しいとは思うが。とりあえず話を聞いてやろう。
「で、なんだよ?」
「いや、あそこでハゲがぷるぷるしてるから、ちょっと教えてやろうかと」
「そういう事はもっと早く言え」
見ると頭上にバーコードを燦然と輝かせた古典の教師がその頭から湯気を出さんばかりの勢いでこちらを睨んでいた。察するに俺は当てられていたようだが、華麗に聞き流していたようだ。いや、物事に真剣になるのって大事な事ですよね?
「神森っ!! そんなに俺の授業は退屈か? 聞く価値もないほど、かったるいか?」
うーわー……。こりゃ、まったく言い訳させてもらえそうにないわ……。
古典教師のハゲこと三橋教諭は怒り心頭である。これ今から何言っても火に油であるのは間違いなさそうだった。まして儀式とか電波飛ばそうものなら、親呼ばれそうな勢いだ。
「いや、すみません」
今言える言葉はこれしかないね。だって、ハゲの顔がまじヤヴァイ……。
「そんなに聞きたくないなら、いい場所があるぞ。向こうだ」
まあ、お約束というか、様式美というか、お決まりというか。いわゆる廊下であった。
Get out! とアメリカンな教師がしそうな大振りな動作でビシィッと廊下を指差すハゲ。言われるままに廊下に出る俺。あんた古典の教師やろ、なんでアメリカンやねんと突っ込み入れたい衝動をぐっと堪えつつ、外に出て立つ。
クラッ──
あれ? なんか眩暈がする。
先ほどまで実に健康体であったはずの俺の体が、突然変調をきたした。しかし、すぐに元に戻る。なんだったんだろう?
古典の授業が終わるまで俺の罪が許される事はなく、その後はずっと立っておりました。授業が終わった後も担任に報告され、更に職員室に呼ばれて説教されたのもまあ自然の流れだったと言えましょう。しかし、放課後職員用便所の掃除係を任命されたのは、まことに遺憾であります。
そしてその後、早弁昼寝昼飯午後の昼寝といつもと変わらぬ学生ライフを過ごした俺は、家に帰るべく鞄を取り出した。食って寝てばっかだけど、そんなに珍しい学生ライフではありませんよ?
「で、今度は誰と会話してんだよ? ついに鬼っ娘と交信でもできたのか?」
「残念ながら、まだ交信は果たせてないな。俺の良心との打ち合わせだ。おかげで俺の心は今日も健康だとも」
道夫が俺に声をかけてくる。我が友ながら相変わらず軽薄な声音だな? 道夫。いよいよ全人類の為におまえを処刑する時が来た。疾くゆくぞ、ゲーセンへ。
意味のないとりとめのない話で時間の無駄遣いをするのも悪くない。厨二な若者の特権である。悪友とこんな馬鹿話をしながらゲームをする。まさに盛大な青春の無駄遣いとも言えるこの時間が、俺は嫌いではなかった。
当たり前のように便所掃除をサボると、そのまま鞄を担いでゲーセンへGO!
当然、今の俺の頭の中は隣のカスを打ち負かす事で一杯だ。若者のゲーセン離れが止まらないと巷ではよく言われているが、俺たちの正義に微塵の曇りもないのだ。
ともに自転車にまたがると意味もなく全力で走り出す。くどいようだが若者の特権というものである。年を食った時に、あの時の俺は若かったと言う為には、若い時に遠慮をしていちゃいかんのである。
そして、意味もなく競争になる。これも様式美というものであろう。
迸る情念的なあれである。限界に挑まんと爆走するママチャリは、中高校の付近ではよく見られる風物詩のようなものだ。特に朝方八時半近くなると平日は毎日自然発生する。
ただ、稀に夕刻にも挑戦者が現れる事もある。今の我々のように、だ。
「ぬ…ぉお……おお……おおおりゃあああ、控えろカスが。俺の前を走るな!」
「やかましいっ! 黙りさらせボケが!!」
はい。これが自転車がマナー悪いと自動車の運転手の方々に言われる原因の一つでございます。でも、引いたら負けなのです。負けると死んじゃう年頃なんです。
曲がり角をさながらバイクのようにママチャリをめいっぱい引き倒し、ハングオンしながら全力で曲がって行く俺たち。ママチャリって意外に頑丈だよね……。
小高い丘の上にある我が母校から町まで最短で行こうとすると、途中トンネルを潜る事になるのだが、ここで、
「だああああ。やべぇぇぇぇ…………」
がっしゃーん。おお、いい音が後ろから聞こえてきた。我が強敵はトンネル前の曲がり角で茂みに突っ込みオブジェと化したようだ。
そして俺は、
「だ~はっはっはっ。お前は強かったよ。お前の事は忘れない。アイムナンバァー……」
と、勝利の雄たけびを上げながら俺はトンネルを通過した筈なんだ。
だが――――。
「ワンッ!」
そう吼えてみた所、真正面から馬に乗った鎧武者が槍構えて突っ込んで来ました。
あるぇ?