第百三十八話 巽屋 でござる その四
案内された部屋の中央で、俺と為右衛門は向かい合って座った。源太は俺の右斜め後ろで控えている。
部屋の中には俺と源太、そして為右衛門の三人しかいない。兵二人は、部屋の入り口の前で、いつでも部屋に飛び込める体勢を保って待機してくれている。
真新しい青畳の匂いのする部屋で、俺たちは互いの目を見据えたまま沈黙し続けていた。互いに腹の読み合いとなっていた。そして、話を切り出すタイミングを探っている。
とはいえ、いつまでもこんな事をしていても仕方が無い。こちらから切り出す事にする。しかも直球で、だ。
「さて、為右衛門。お前の商う塩のすべてを譲ると先程言ったと思うが、俺の聞き間違いではないよな? まずは、それを確認させて貰いたい」
まずは、この部分の言質を取りたかった。
それが出来なくては話にならない。ここの部分を反故にされるなら、話をここから始めるのではなく、その前から始めなくてはならないだろう。
要するに、宥めるなり脅すなりして、なんとしてでも首を縦に振らせる作業から開始する事になるのである。どのみち先程の口振りならば、”ただ”ではない筈なのだ。話がうますぎる。こうして俺が言質を取りに行けば、俺より低い立場の為右衛門も、その条件を切り出しやすくなるとの計算もあった。
俺は確かに交渉をしにきている。が、それは条件の交渉である。物をぶん取る事は端から決定事項のつもりだ。
それに、だ。
俺としては、奴が持つ塩を全量獲得できねば話にならないのだから、それを獲得して、初めて条件の話に移れる。だから奴の思惑は関係ない。とりあえず奴の塩に関して言質が取れるなら、それを取る方が先だった。
これだけでも互いに確認し合い書面にしておけば、もし仮に巽屋為右衛門が不義理を働いても、俺は堂々と水島の兵を率いてカチ込みをかけられる。
権力者ってのは、もうちょっと好き勝手出来るイメージがあったが、実際やってみると好き勝手できるようで意外に出来なかった。
もちろん世の風評を一切省みないというならばかなりの枷が外れるが、それは実際のところは机上の空論である。庶民にも、意思もあれば心もあるのだ。力のみで押さえつけられる限界は、たかが知れているのである。
そして、それを理解しない統治者には未来がない。いずれ相応しい報いを受け、その代償を支払う羽目になるからだ。
だからそうなりたくなければ、世の風評を上手くコントロールしてやらねばならない。力を行使するにも建前が必要になってくるのだ。
それが、勝手が出来るようで出来ないという『枷』となっていくのである。
そんな事を考えながら為右衛門の目をじっと見据えたが、為右衛門は破顔一笑する。
「ははは。神森様は疑り深うございますな。なんなら証文にでも残しておきましょうか。この巽屋為右衛門の名にかけて、私が今持っている塩はすべて、神森様にお譲りいたしましょう」
自分で言ってきたか。まあ、こちらから切り出すよりは幾らか体裁は良いが……。だが、それだけでは困るんでな。そんなのなら証文なんかいらないだろ。
「……”今”持っている分だけか?」
奴は塩水の湧く泉と、製塩施設を押さえているのだ。今回の取引では持っているらしい百石手に入ればいいが、それだけで満足する気は俺にはなかった。それでいいならば、源太が言っていたように、素直に名乗らず名を騙って手に入れた方が話が早い。
それに、せっかく為右衛門を引っ張り出せたのだ。だったら、狙うは当然、奴の持つ塩『全部』である。
「流石に目ざといですな。では、この町が御領下にあるうちは、私の商う塩は全部神森様にお売り致します。神森様がもうよいと言うまで、すべての塩をお譲り致しましょう。それでいかがです?」
為右衛門は俺の目を見つめて、作った笑顔を顔に張り付かせたまま、そう言い直してきた。
……なるほど。餌はそれで確定という事か。で?
「ただし――――」
そこで巽屋為右衛門は表情を変えた。それまでまったく崩さなかった笑顔の仮面を脱ぎ、鋭い視線をこちらに突き刺してきたのである。
そら来た。
来るべきものが来たと思った。
三度目の正直とでも言おうか。外され気味だった俺の予感が、ようやく当たった。思った通り、あちらはあちらで某かの思惑があって、こちらを利用する気満々のようだった。
だがむしろ、俺はその事に安心した。
そういう話ならば、話が非常にシンプルになる。奴が用意してくれる餌の旨さと、奴のこちらへの要求を天秤にかけるだけでよくなるからだ。
腹に一物も二物も持っている相手に借りを作る事ほど、面倒な事はない。
そう考え俺はほくそ笑んでいたが、源太は、水島を相手にしての不敬ともとれる為右衛門の態度に、口こそ差し挟んでこなかったものの、それとなく体勢を整え直した。
万が一の自体に備えたようだった。それが目の端にはいる。まあ、おそらくはいらぬ心配だとは思うが。
そう思いながらも、俺は源太にそっと感謝した。
こうして気配を察してすぐに備えてくれる優秀な護衛がいると、色々と安心できる。目の前のことだけに集中できると言う事は、有り難い事だった。
その安心感もあり、俺自身は交渉相手の前で腰が落ち着かないような、みっともない醜態を晒さずに済んでいた。為右衛門がすごむような仕草を見せた後も、俺はそのまま身じろぎ一つせずにいられた。腕を組んだまま、にっこりと微笑んでいられる。
そんな俺を見た巽屋為右衛門は、それまで俺たちに見せていた作った笑顔よりも余程に人間らしい、嫌らしい笑みを浮かべて見せた。
そうだろう。今のあんたが俺たちに向ける顔は、そうでなくちゃあいかんよなあ。それがあんたの本当の顔ってなもんだ。
ついこないだまでの俺だったなら、そうは思わなかっただろう。素直に、為右衛門の脅しにびびっていたに違いない。だが今の俺は、為右衛門のその態度にこそ、心が落ち着くのを感じていた。
「それにしても、なかなかの古狸でございましたな」
源太が口を開いた。
あの後、俺たちは為右衛門の要求を聞いた。そして、交渉を済ませて巽屋を出た後、燃えてしまったという例の館へと向かっている。
「まあ、そう言うな。俺はむしろ安心したよ。狸は狸だし、腹の中も真っ黒だろうが、鬱陶しくはなさそうだ。いつまでも尻尾を出さずに、取り込んだ後で周囲を蝕んでいくような輩よりは、ずっと良いだろ。あれは、狸は狸でも、まだ可愛げがある方だよ」
「はあ。私は時々、武様の年齢が分からなくなる時があります」
なんでだよっ。
「いや、やはり歳の問題ではないのでしょうな。資質の問題なのでしょう」
源太は勝手に一人でウンウンと頷いていた。ただ、俺としては声を大に主張したい。会話の最中に、いきなり一人芝居をし出すのはやめたまえ、と。
まあ、言ったところで無駄なんですけどね。言って直るものならば、もうとっくに直っています。
だから、俺は放っておく事にした。半年以上も付き合えば、その為人も掴めてくるというものだった。
「まあ、何にしてもだ。条件付きとは言え、妥当な値段で素直にブツを出す約束をさせたんだ。上出来だよ。正直、もっと大変な事になるかと思っていたからな。ツイていたとすら思っているよ。俺……昨日の夜は三回ほど、夢の中で伝七郎の首を絞めたんだぜ?」
俺は、自分の首を両手でギュッと絞る仕草をしてみせた。
「ふっ。では、伝七郎様も昨晩はさぞ寝苦しかった事でしょうな」
と、源太はニヒルに鼻で笑う。
まだ初夏で、寝苦しいなどという気温ではないが、伝七郎にはそのくらいの罰は当たってもいいと思った。お願いしますはいいのだが、全部投げて寄越すのは如何なものかと言わざるを得ない。
源太曰く、伝七郎がそんな事をするのは俺相手のみらしいのだが、ほんっとーにっ! 遠慮無く丸投げしてくれるもんだから、それを片すのも大変なのである。
「でも確かに、幸運ではありましたな。まさか泉を山賊に占領されていたとは。そうでもなければ、交渉の糸口を見つける事すらも難儀であったことでしょう」
「まあなあ。それでも何とかするつもりではいたけれど、確かに話は早くなったよなあ。おかげで塩泉の場所を知る事もできた訳だし……」
ただ、なあ……。
俺が少し考え込む仕草をみせると、源太は小首を傾げながら尋ねてきた。
「ん……? 何か心配事でも?」
「いや、だってなあ。その、話が早くなったって部分が引っかかるんだよ。塩泉の場所は、二水の町の秘中の秘の筈だろ?」
「そう聞いております」
まだ源太はピンとは来ていないようだった。それがどうかしましたかというような表情をしていた。
「だったら、なんでたかだか二十人前後とかいう山賊もどき相手で、その場所を俺たちに教えて取り戻してくれなんて言うんだ? あの様子なら、町の裏とだって繋がっているんだろうし、そこから兵隊を借りて取り戻させればいいだろ。どこかから食い詰めの浪人を集めてきてもいい。後で口封じをすればいいんだ。そういうのこそが、ああいった人間に相応しいやり方ってもんじゃあないのか?」
「ああ、なる程。それは確かに」
源太は、言われてみればといった感じで、右の拳を左の手の平にぽんと当てた。そしてその後、彫りの深い端正な顔を再び部将――鳥居源太のものに変え、腕を組みながら考え込み始める。
その様子を見て、俺は源太に言う。
「これ絶対なんかあるぞ。九割九分以上、額面通りの話ではない筈だ」