第百三十七話 巽屋 でござる その三
これは完全に想定外だった。まさかこうもあっさりと巽屋為右衛門が頷くとは……。
その口から実際に諾の言葉を聞いた今でも、まだ信じられない。
そして俺は、その感情を外に漏らさぬ事に、どうやら失敗したようだ。
俺の顔をじっと見ていた為右衛門は、その顔に浮かべた笑顔をより深いものへと変える。そして、
「ははは。そう警戒なさらなくとも宜しいではございませんか。ささ。取引の話の詰めとまいりましょう。こちらへどうぞ。いつまでも神森様を立たせたままだったなどと藤ヶ崎の民らの耳に入れば、私どもの商売にも影響してしまいます。さあ、ご遠慮なく。奥に部屋をご用意致しますので、そちらで残りの話をゆっくりと致しましょう」
と店の奥へと俺を誘った。
一見すると人好きのする――しかし、よく見ると不自然な笑顔を浮かべて手招く為右衛門。
予め聞いていた水島と二水の関係のせいか、俺には奴が人を騙してあの世に手招く悪霊のように見えた。
自分の領域へと俺を深く誘い込み、そこで何かを仕掛けて来るつもりか――そう思えて仕方なかった。
ただ今回は、先程感情を読まれた事を反省し、その警戒心を胸の内だけに押しとどめる。
俺はにこりと笑って見せる。
「分かった。案内してくれ」
ゆるりと頷いて見せた。
ここで引く訳にいかない以上、奴が誘うこの廊下の先が、たとえ虎穴へと繋がっていたとしても飛び込むしかないのだ。
奥へと向かう為に足を前に出しながら、俺はチラリと源太に目配せをする。源太はすぐにそれに気づき、小さく一つ頷いて返してきた。
源太はすぐに連れてきた兵のうちから二人を選び、付いてくるように命じた。
巽屋為右衛門は、そんな俺たちの様子も、浮かべた笑顔を崩す事なく黙って見ていた。
広い広いと言っても所詮は一つの商店であり、藤ヶ崎の館のように広い訳ではない。
為右衛門に連れられて移動する途中、それとなく観察しているだけだが、この建物の中の様子をかなりの所まで見る事が出来た。
その結果わかった一番重要な事は、為右衛門の住居は、どうやらここではないらしいという事だ。
視界に入った部屋のほとんどは、商品を保管する内倉として使われていた。葛籠のような物が山積みにされていたり、店頭のそれとは異なった収納性能重視の頑健そうな棚に、所狭しと小物入れの類いと思われる小箱などが沢山置かれている。
店頭では米や酒、そして塩なども商われていたが、それらは俺が見た限りにおいては内倉にはなかった。その類いのものは嵩張るので、おそらくどこか別にある蔵の中に保管されているのだろう。
その一方で、人が生活できる、あるいは生活していると思われる部屋は、一つも見る事が出来なかった。部屋は沢山あるのに、どれもこれも内倉だったのだ。見事なまでに、商売に特化した建物になっていたのである。
藤ヶ崎でもそうだったが、普通こういった商店は、店主らの住居も兼ねているものだ。しかしそのスペースまでもが、全部内倉として使われているようだったのである。
なにせ、一番人の生活臭を感じたのが、ちょうど表店にあたる――先程商品をみていたエリアに隣接してある、小さな座敷という有様だったのだ。
なんつーか、徹底してるね。これをする為に押し通した無理の是非は置いとくとして、アイデア自体は、この世界では斬新だろうなあ。
為右衛門に連れられ廊下を歩きながら、そんな事を思った。
だが、感心ばかりしている訳にもいかない。
俺は横にいる源太に再度目配せをして、注意を促しておく。前後を二人の兵が挟んで歩いてくれているので、源太は真横に付いてくれていた。
多分今は建物の中央辺りだ。周りは全部内倉。ここから外に逃げだそうとするのは一苦労な場所だ。もし仕掛けて来るつもりならば、そろそろというタイミングだった。
源太はすぐに動いた。
承知しておりますとばかりに視線で返事をしてきたと思ったら、自然を装ったまま微妙に腰を落し、ぶらりと垂らしていた両腕を曲げ、両手とも腰の辺りへと移動させた。ちらりと視線を走らせれば、左の手がこっそりと刀の鯉口を切っている。いつでも抜けるように準備をしていた。
いやあ、前に信吾に警護について貰った時も思ったけど、何気にこいつらホントに凄いよな。俺がやってくるまで、ただの足軽だったんだが。
千賀の親父さんも、腐った臣下を沢山抱えて自由には出来なかったんだろうなと、思わず同情してしまった。その手に玉を握っているのに、路傍の石で家を飾らねばならなかったのだから、そりゃあ辛い。
その点、俺は恵まれている。
話の通じる仲間、有能な将――――少々状況が苦しいくらいなんだという程に、人には恵まれている。
思わぬ所で、妙に前向きな気持ちになれた。
が、為右衛門がとある部屋の前で止まった。
「ささ。こちらです」
そう言いながら、目の前の襖を開ける。
俺は体を大きく動かさないようにしながら、足の指のみに瞬間的に力を込めた。いざという瞬間に備える為だ。
だが、何も起きなかった。ここでも俺の予想は外れた。
案内された先は、襖を開けると刺客が飛び出してくるようなびっくり部屋ではなく、また逃げ道のない密室などでもなく、小さな庭に面した陽光差し照らす客間だった。
確かに余程の馬鹿でない限り、一商人の身で施政者の所の重臣を襲うような真似はしないだろう。だが俺は『水島』の人間で、この二水の町の塩を全部寄越せと言いに来ているのである。普通起きない”何か”が起こる要素は十分すぎる程にある。
何もなかったのは無論最良の結果ではあるが、どうしても気持ち悪さが残った。
あの巽屋為右衛門の態度の意味が分からない。
俺たちが負い目から勝手に疑心を抱いているだけで、巽屋為右衛門はただただ従順な領民だったのだろうか。真っ当に解釈するならば、そう考えるべきだという事は分かっている。色眼鏡をかけてないとは言わない。
でも……。
俺はそれはないと思っていた。理論的にではなく、感覚的な部分で。
こうして巽屋為右衛門と顔を合わせた今、その思いは更に強くなっていた。だから、こうして警戒しているのだ。もっとも、今のところは俺の独り相撲となっているが。
「どうかなされましたか、神森様。ささ、その様なところで立たれていないで、中へとお入り下さいませ」
客間の襖を開けて、為右衛門は腕を開き俺を招いている。
うーん。人の気配は……やはりないな。
最近武芸の鍛練もしているおかげで、俺の感覚も前よりもずっと鋭くなっていた。が、為右衛門が誘うその部屋の周りに、人を伏せているような気配は感じなかった。
ただ、俺のような素人に毛が生えた程度のレベルで、その感覚を絶対視するつもりはない。だから源太にもそれとなく視線で尋ねてみる。
が、源太も小さく頷いた。入っても大丈夫――つまり、人を伏せてはいないという事だった。
ここまで何もないとはな……。俺の考えすぎなのだろうか。でも……。まだなんというか、すっきりしない。気持ち悪い。
今のところ何も問題が起こっていないのに、何故か巽屋為右衛門という男に対して、どうしても気持ちが前向きになれなかった。だが、いつまでも気持ち悪いと躊躇している訳にもいかない。
ええい。儘よ。
男は度胸だ。ここまできて、ぐだぐだ言えるかっ。
「案内ご苦労。では、失礼する」
俺は猜疑心渦巻く心を無理やり押さえつけながら、平然を装い部屋の中へと足を踏み入れた。